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心の壁を越えるために

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岡山県にある長島愛生園をフィールドに,ハンセン病問題について,その歴史的過程(排除・排斥・隔離の歴史)と実態(なぜ差別されたのか)の解明などを通して,我々が将来に向けて何を学ぶべ…
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#絶対隔離

<特別病室事件>再考(2)

なぜ草津の栗生楽泉園に「特別病室」が設置されたのか。 各療養所には監禁所(監房)が完備さ…

藤田孝志
13日前
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光田健輔論(64) 「らい予防法」の背景(1)

「らい予防法」成立の背景は、成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』に詳しいので、これを元に…

藤田孝志
2週間前

光田健輔論(63) 「三園長証言」の考察(12)

光田健輔を、ミッシェル・フーコーの<牧人権力>の図式をもとに考察したのが武田徹である。武…

藤田孝志
3週間前
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光田健輔論(62) 「三園長証言」の考察(11)

「三園長証言」以後、厚生省は「癩予防法」の改正を進めていくが、その背景について考察してみ…

藤田孝志
1か月前
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光田健輔論(60) 「三園長証言」の考察(9)

徳永進は「隔離の中の医療」(『ハンセン病』所収)と題した小文で、光田健輔について次のよう…

藤田孝志
1か月前
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光田健輔論(59) 「三園長証言」の考察(8)

林芳信は、大正3(1914)年5月、全生病院医員となる。同年2月、光田健輔は全生病院長に…

藤田孝志
1か月前

光田健輔論(57) 「三園長証言」の考察(6)

1951年11月に行われた「三園長証言」は、翌1952年5月の第1回全癩患協支部長会議の場において、その内容が公表され、各療養所の自治会が知ることとなる。「三園長証言」に対する全癩患協および各療養所の対応については後で検証するが、光田健輔が長島愛生園の入所者に弁明した内容を、藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』より引用しておく。 光田も『愛生園日記』に、「患者を刺激した参議院証言」「学問と信念」と題して、次のように述べている。 「首をはねてから…」は光田の常套句である。『光

光田健輔論(56) 「三園長証言」の考察(5)

光田健輔の自意識過剰、高慢ともいえるのが、次の証言である。 日本が「一番模範的に隔離事業…

藤田孝志
2か月前
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光田健輔論(55) 「三園長証言」の考察(4)

光田健輔の持論を簡略にまとめておくならば、「すべてのハンセン病を患者を強制的に絶対隔離す…

藤田孝志
2か月前
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光田健輔論(54) 「三園長証言」の考察(3)

なぜ光田はすべての患者を「強制収容」することに固執したのだろうか。「予防」に関して「家族…

藤田孝志
3か月前
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差別の罪過(3) ハンセン病と部落問題の連関

当時,被差別部落には近親結婚・血族結婚により「天刑病」(ハンセン病)が多いという俗説が流…

藤田孝志
4か月前
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差別の罪過(2) 「特殊部落調附癩村調」

皮肉なことに、ハンセン病と被差別部落の関係を明らかにするために全国調査を行ったのは光田健…

藤田孝志
4か月前
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光田健輔論(49) 変革か呪縛か(4)

<歴史に、もし・たら・れば…はない>とは至言であるが、差別史などを調べているとつい考え込…

藤田孝志
5か月前
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光田健輔論(46) 変革か呪縛か(1)

戦前の「光田イズム」は、戦後のハンセン病医療を担った光田らの次世代の医者や厚生省官僚にどのように受け継がれたのだろうか。 「三園長証言」の光田健輔(長島愛生園)、宮崎松記(菊池恵楓園)、林芳信(多摩全生園)はほぼ同年代であり、絶対隔離政策を生み出した「第1世代」である。次に、光田らの指導や影響を直接に受けた直弟子たちの「第2世代」、さらに光田らが引退した後の「第3世代」、彼らは「光田イズム」を継承したのか、それとも呪縛されていたのか。私は「らい予防法」の廃止は、光田イズムの