林芳信は、大正3(1914)年5月、全生病院医員となる。同年2月、光田健輔は全生病院長に任じられている。以後、昭和5(1930)年に光田が長島愛生園長として赴任するまで、林は光田の指導と教化を受けた。また、翌6年5月に、林は全生病院長に就任している。まさに光田の薫陶を受けた第1世代の門下生といってもよいだろう。
林が光田健輔について、その思い出を語っている短文は『光田健輔の思い出』の中に、桜井方策に次いで多く5編が収録されている。これらを読むと、林が光田にどれほど心酔しているかがよくわかる。(もちろん、林だけではないが…)
一読すれば、「救らい思想」のすばらしい逸話である。確かに光田は「政府や府県」にあらゆる手段を講じながら掛け合って予算増額を要求し続けただろう。しかし、それは軍国主義国家建設へと向かう時勢において困難なことであった。それでも、国立療養所の設置と増床、無らい県運動の全国展開、さらに「十坪住宅」などへの寄付活動などを考えれば、強制収容と絶対隔離は着実に成果を挙げていったと考える。私は、これらを振り返るとき、光田らの執念とも思える情熱と尽力に驚嘆する。
このような林が光田に反する意見を述べることは考えられない。林の証言を検証してみたい。
光田健輔に比べて、林の意見は「啓蒙運動」の必要性や患者家族の生活保障に言及するなど、患者のことを考えていて評価できるが、絶対隔離の維持という点では変わらない。
患者を「伝染源」と考えている一方で、プロミンなどの新薬で「全治にまで導くことができておる」と言う。この矛盾を林は理解しているのだろうか。「伝染源」である患者をすべて<療養所>に収容し、「有効な薬」で治療すれば「全治」できるという療養所主義、すなわち絶対隔離こそが「唯一の予防法」とする光田由来の方法に固執しているだけである。「全治」するのであれば、療養所以外でも治療は可能なはずであり、「全治」すれば退所も可能なはずである。
やはり、ここでも彼らを呪縛しているのは<光田イズム>であり、光田の「癩は不治」という持論である。「癩は不治」=「患者は伝染源」(病毒源)、それゆえ「再発」するという旧来の認識は変わっていない。
成田稔は『日本の癩対策から何を学ぶか』で、『全癩患協ニュース』第23号(1952年11月)に掲載された、「三園長証言」後におこなわれた患者と療養所所長(園長)たち<松丘保養園(阿部秀直)、東北新生園(上川豊)、栗生楽泉園(矢島良一)、多摩全生園(林芳信)、駿河療養所(高島重孝)、菊池恵楓園(宮崎松記)>6人との「懇談」の中で「懲戒検束規程」に関連した討議をまとめている。林の発言を抜粋して引用する。
林は入所者の激しい抗議を受けて自らの「証言」を撤回しているが、本心は何ら変わってはいないことが明らかである。成田が「このときの懇談でも、隔離優先、らい療養所中心、懲戒検束などの旧い時代の認識が、化学療法の新しい時代を迎えてもなお、所長ら(全部とはいえないかもしれないが)の中には根強く残っていた」と書いているように、彼らの認識は「プロミン以前」で時間は止まっている。むしろ時代に逆行するように、より強硬な強制収容と絶対隔離を求めていた。
また、この「懇談」において、林は現行の癩予防法には「非人間的なものはない」とまで言い切っている。上川にしても、新憲法になってからは「非人間的な」強制収容はやってないと思ったと、本当に実態を知らないのか、それとも「非人間的」という意味をわかっていないのか。
それは、繰り返しになるが、<患者=「病毒を伝播」する感染源>であり、ハンセン病から国民を守る(感染させない)ため(社会防衛論)であり、そのためには<すべての患者を絶対隔離>する必要があるという考えに固執しているからである。<予防即隔離>という認識から抜け出せないから国際的な情勢にも無関心なのだ。厚生省や所長たちが患者をどのように見ているかを端的に表しているエピソードがある。
患者に対する「視線」は、隔離に甘んじている限り「同情」される存在であるが、隔離に少しでも不満を表すと、「蛇蝎」のごとき嫌悪を示す。それが彼らの本性である。そんな本性を心に隠している人間が患者に対して「人間的な」扱いをするはずもないだろう。