なぜ草津の栗生楽泉園に「特別病室」が設置されたのか。
各療養所には監禁所(監房)が完備されていた。それにもかかわらず、なぜアウシュビッツ収容所のガス室のような重監房がつくられたのか。やはり光田の意向が強く働いていた。
例年は1月に開催される全国所長会議が、1936(昭和11)年は急遽繰り上げて10月1日に内務省で「癩療養所長会議」(全官公立療養所長が出席)が開かれた。なぜ繰り上げたのか、それはこの年、「長島事件」が起こったからである。(「長島事件」については、別項にて論じている。)
光田の「長島事件」に対する「報復」「意趣返し」である。自らの意に反した患者、反抗する患者に対して、より強硬な手段として「特別病室」を造ることを要求したのである。患者にとって恐怖を感じるような、「見せしめ」となるような施設が必要であったのだ。
残念ながら、光田が「特別病室」の設計にどれほど関与していたかの証明はできない。あくまで臆測だが、政府と密接な関係をもっている光田が、自らの要望が実現する際に、構造に対する意見を述べない、もしくは政府から相談を受けないとは考えにくい。まして運用に関して古見に一任するとも思えない。どうしても光田健輔の影を見てしまう。
「特別病室」に送致された患者が必ずしも「犯罪者」ではないこと、その理由が療養所長による恣意的なものであったことは資料が裏付けている。所長の感情的な決定がほとんどである。
山井道太の例を『全患協運動史』より抜粋して引用する。
山井を草津に送った全生病院の院長は、「三園長証言」の一人、林芳信である。山井と同時に草津に送られた者は、山城秀徳、関口力之助、竹内重平の4人と、山井の配偶者として自発的に同行したキタノであった。竹内はモルヒネ中毒者、他の2名は逃走癖が理由である。草津送り後、重監房に71~171日という長い間入れられ、出所後はいずれも逃走している。
当日の午前10時半、山井ら4人の草津送り関する報告は、当時の患者組織であった「全生常会」(評議員会)の代表に、次のように通知があったという。
「警察権」とは「懲戒検束権」のことであろう。「検束指導官」とは誰のことかはきりしない(林院長か草津の加島分館長か)が、「院長が指揮する検束班」とあるように林が「警察権」を発動して「検束班の職員」を「指揮」して山井を拘束し、有無もいわせず草津の「特別病室」に送致したことは明白な事実である。
同じ描写は『風雪の紋』にもあり、実際に目にした同僚患者の証言をもとに記述されたと考えられる。あまりにも理不尽な仕打ちである。光田らは救らい事業への献身を自負する一方で、意に従わぬ患者を草津に送って平然としていた。権威や権力を振りかざし、国家や社会のためと大義名分を持ち出して、他者に犠牲を強いる。反抗や反発する者に対しては容赦のない懲罰を与える。どうしても、私はこのことを許せないのだ。
重監房資料館部長の黒尾和久は、収監者について次のように書いている。
林芳信は『光田健輔の思い出』所収の「光田イズム」に、光田の言葉を伝えながら次のように書いている。
光田の詭弁を信じ、光田イズムの信奉者となった林芳信は、まるでヒトラーを信奉したアウシュヴィッ収容所長ルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘス(Rudolf Franz Ferdinand Höß)である。ヘスでさえ、死の数ヵ月前に書いた手記に次のような言葉を残している。
光田も林も死ぬまで、自らが「特別病室」に送致した患者のことを、残酷な日々を過ごした患者のことを思い出すこともなかっただろう。「暗黒のなかで強烈な湿気と闘い、減食の空腹にさいなまれ、傷の多い体に治療さえ受けられず」酷暑の夏や極寒の冬を耐え忍び、話し相手もいない孤独の中で出獄の時をただひたすら待ちわびるしかなかった患者のことを想像すらしなかっただろう。だからこそ、臆することなく『三園長証言』で高慢な発言ができたり、上記のような自負心に満ちた文章が書けたりするのだ。自らの正当性を信じているのだろう。
「特別病室」に入れられた92名の患者の出身療養所は調べれば明らかだろうが、ほぼすべての療養所から送られていることは予測できる。つまり当時の療養所長は、林芳信と同じく「警察権」(懲戒検束)を用いて指揮権を発動したのだろう。指揮権発動などと大仰であって、実際は園長や「虎の威を借る」職員の気分次第の一言だったと思われる。
人間の恐ろしさを痛感する。繰り返すが、このことを「時代性」とか「当時の社会通念」(たとえば体罰や減食、監禁などの懲戒によって教化するなど)等々で片付けるべきではない。なぜなら、現在起こっているロシアとウクライナの戦争、イスラエルによるガザ侵攻、捕虜に対する拷問やレイプなどの非人道的行為を見れば明らかだろう。「敵」であれば残虐な行為も平然と行うことができ、良心の痛みさえ感じない。「敵」だからという理由で、「敵」を倒すという目的で、愚かな手段さえ「正当化」されてしまう。
歴代厚生大臣も厚生官僚も「国家」「国民」が優先され、光田ら療養所長は自分たちの意向(思いどおりの園内秩序)が優先され、園外から出た患者はもはや自分の患者ではなく、排除した「不要者」でしかない。だから、「特別病室」がどれほど苛烈な場所であろうと、患者が苦しもうと関係なかったのである。
権威・権力を有する者がその力を弱き者に使えば、弱き者は死ぬ以外ないのだ。彼らの「救らい」とは高いところから見下ろし、自らの意に従う者にだけ、わずかな施しを与えることでしかなかった。