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<特別病室事件>再考(2)

なぜ草津の栗生楽泉園に「特別病室」が設置されたのか。
各療養所には監禁所(監房)が完備されていた。それにもかかわらず、なぜアウシュビッツ収容所のガス室のような重監房がつくられたのか。やはり光田の意向が強く働いていた。

例年は1月に開催される全国所長会議が、1936(昭和11)年は急遽繰り上げて10月1日に内務省で「癩療養所長会議」(全官公立療養所長が出席)が開かれた。なぜ繰り上げたのか、それはこの年、「長島事件」が起こったからである。(「長島事件」については、別項にて論じている。)

…席上、光田健輔は「癩患者に対する懲戒施設に関する件」として、「イ、特殊監禁所を設置せられたきこと ロ、行刑政策の徹底を期せられたきこと」を提案、同じく大島療養所長野島泰治が、「特殊療養所急設に関する件(各療養所収容患者中特に不良なるもののため特別の設備を有する療養所を至急設置せられるよう要望す)」(11年10月2日付『四国民報』)とし、同会議はこれら提案に基づき、内務・司法省両大臣に「不穏癩患者取締に関する陳情書」を提出している。
…翌12年3月…『四国民報』が、「一般犯罪者から隔離/レプラ患者刑務所/温泉郷に建設の議進捗」の見出しで、次の記事を掲載した。
「…目下内務・司法両当局の意向としては上州草津温泉がレプラ患者収容の刑務所候補地として挙げられ、草津温泉に特殊刑務所出現の暁には第一着手として百名位を収容し地元の出湯を応用してレプラ患者の根絶を期し、世界に誇るべき文化設備を施すべく考案されている。同刑務所が出現すれば従来各刑務所が苦心していたレプラ患者の犯罪者がドシドシ草津に送致されるので、行刑政策上の一大福音として、関係当局から期待されている」
…しかし実際に設置された「特別病室」の構造をみた時、それがいかに世間をあざむくものであったか判然とするわけだ…
かくして13年、当園に「特別病室」という名の患者刑務所が設置され、いよいよ狂気じみた患者抑圧の時代に入る。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

光田の「長島事件」に対する「報復」「意趣返し」である。自らの意に反した患者、反抗する患者に対して、より強硬な手段として「特別病室」を造ることを要求したのである。患者にとって恐怖を感じるような、「見せしめ」となるような施設が必要であったのだ。

残念ながら、光田が「特別病室」の設計にどれほど関与していたかの証明はできない。あくまで臆測だが、政府と密接な関係をもっている光田が、自らの要望が実現する際に、構造に対する意見を述べない、もしくは政府から相談を受けないとは考えにくい。まして運用に関して古見に一任するとも思えない。どうしても光田健輔の影を見てしまう。


「特別病室」に送致された患者が必ずしも「犯罪者」ではないこと、その理由が療養所長による恣意的なものであったことは資料が裏付けている。所長の感情的な決定がほとんどである。
山井道太の例を『全患協運動史』より抜粋して引用する。

山井道太 49歳 静岡県
1941(昭和16)年6月14日早朝、夜来の雨が降っていた。山井がいきなり検束されたという噂が、全生病院内の隅々にまで拡がり、不安は不安をかもして流布された。
山井はこの朝も平常の如く午前四時頃、明るくなるとともに起床し、同僚の10人程と製茶作業に当っていた。…知らせを受けた同室者が駆けつけると、製茶場にはおらず、…早速事務本館裏に行ってみると、興奮に蒼白になった山井をとり囲んで、院長が指揮する検束班の職員20名近くがこれまた緊張に青ざめ、いずれも白い消毒服をまとい、中にはその上から幅広いバンドに身を固めている者もおり、殊に目立ったのは2名ほど黒い装束の職員のまじっていたことで、これは昨夜から山井の挙動を監視して彼の居室の周囲に張込んでいたのではないかと思われた。
急をきいて山井の知人も多く集まり、妻のツノギ(キタノ)も泣いてその不当を訴え、自分も一緒に行くと関係の者達を困らせ、山井もしきりに理由の説明を求めたが、車に乗ってから話すと拒否され、とにかく「草津に行ってくれ」と迫られた。

並みいる者たちも強力にこれを阻止し、納得ゆく説明を要求する者もない。主張がよし正当であっても、二言目には「草津へやる」という言葉が素振りに見え、強力に阻止したら自分も一緒に持って行かれてしまうのではないか、という卑屈感が彼らを黙らせていた。
山井は10年近い療養に浸潤が漸く激しく、鼻も低くなりかけ、板のように結節が盛上り暗紫色を呈して腫れぼったかった。そして作業中だったので地下足袋をはき足がむくんでコハゼがかからない。幾度かの押問答でみんな雨にぬれ慓えている者さえある。朝食をし身仕度を整えたいという申し出も入れられず、とにかく車へ乗れと押しまくられる。誰もが目頭を熱くし、そして何時、自分がこの位運命に見舞われるかも知れない戦慄に目をそむけた。

もともと山井は製茶期間だけを臨時にこれにつき、常時は洗濯作業部の主任で、部員も10人程おり、千余人の衣類や繃帯、ガーゼの洗濯に当っていた。草津送りになった理由は、長靴の支給を要求して二、三日作業を休んだためである。…1日7,8時間も水仕事をするのに水の洩る長靴では仕事になるわけがなく、まして特有の蹠傷がそのために発熱したり、神経痛がおきたりしては、作業能率もあがらなくなり、その支給方を要求するのは当然であった。

山井は検束指揮官の予定通り重監房に叩き込まれ、それから数十日、うるしのような暗黒のなかで強烈な湿気と闘い、減食の空腹にさいなまれ、傷の多い体に治療さえ受けられず、遂にまいってしまった。死期近しと見て出獄を許されたが歩けず、四つン這いになって這い出し、垢と湿気と傷のにおいで、近寄れないほどくさくなっていた。
それから旬日を経ずに山井は死んだ。あるいは殺された、といったほうが当たっているかも知れない。

全国ハンセン氏病患者協議会編『全患協運動史』

山井を草津に送った全生病院の院長は、「三園長証言」の一人、林芳信である。山井と同時に草津に送られた者は、山城秀徳、関口力之助、竹内重平の4人と、山井の配偶者として自発的に同行したキタノであった。竹内はモルヒネ中毒者、他の2名は逃走癖が理由である。草津送り後、重監房に71~171日という長い間入れられ、出所後はいずれも逃走している。

当日の午前10時半、山井ら4人の草津送り関する報告は、当時の患者組織であった「全生常会」(評議員会)の代表に、次のように通知があったという。

右ノ処分ニ就テノ詳細ナ理由ハ発表スルヲ得ズ
又、院長ノ警察権発動ナル故、事前ニ如何ナル院内機関ヘモ通知スベキモノデハナイ、
唯、事件後、常会及ビ当該舎長ニハ通知スベキモノデアル

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

「警察権」とは「懲戒検束権」のことであろう。「検束指導官」とは誰のことかはきりしない(林院長か草津の加島分館長か)が、「院長が指揮する検束班」とあるように林が「警察権」を発動して「検束班の職員」を「指揮」して山井を拘束し、有無もいわせず草津の「特別病室」に送致したことは明白な事実である。

同じ描写は『風雪の紋』にもあり、実際に目にした同僚患者の証言をもとに記述されたと考えられる。あまりにも理不尽な仕打ちである。光田らは救らい事業への献身を自負する一方で、意に従わぬ患者を草津に送って平然としていた。権威や権力を振りかざし、国家や社会のためと大義名分を持ち出して、他者に犠牲を強いる。反抗や反発する者に対しては容赦のない懲罰を与える。どうしても、私はこのことを許せないのだ。

重監房資料館部長の黒尾和久は、収監者について次のように書いている。

これだけ苛酷さを収監者に強いるのであるから、さぞかし「療養所の平和」を脅かす、手に負えない極悪人が監禁されたと思われる方もいるかもしれない。思われる方もいるかもしれない。確かに窃盗や放火などの刑事事件の被疑者と目される収監者もいるが、その数は決して多くはない。中には殺人の嫌疑をかけられた方もいたが、裁判所での審判どころか、警察での取り調べも受けられないまま、直接「牢獄」につながれている。そしてついに獄死した。しかもえん罪であった可能性が高いのである。…さらには精神病者やモルヒネ中毒の収監者が少なくないが、これらの方たちには、懲罰よりもむしろ病者としての適切な加療が必要であったに違いない。
その他、療養所の安定した経営を目指す当局に抗論して目障りになれば「不良」、自由主義者の疑いをかけられれば「不穏分子」として送致された方もいる。…しかし、重監房の収監者には、「不良」の伴侶というだけの理由、さらには「不良」の身代わりという、きわめて理不尽な理由で投獄されたケースまでが認められるのである。
しかし、運用当時の当局にとっては、「草津送り」の恐怖を、他の患者に植え付ける見せしめとしての効果が絶大であった。それ以上に、社会防衛のために「要らない者」、「従わない者」を容赦なく、良心の呵責もなくネグレクトできる場所として重監房は非常に有用であったに違いない。

黒尾和久「重監房資料館の設立とその活動」『ふれあい福祉だより』第21号

林芳信は『光田健輔の思い出』所収の「光田イズム」に、光田の言葉を伝えながら次のように書いている。

…一人でも多くの患者を救い、伝染防止の効果をあげるためには、少々無理をして、定員を超過してでも患者を収容せねばならない。…社会的見地からも、人類愛からいっても、悲惨な人が一人減ることは大きい意味があり、国家に貢献することも大である。…
誠意の限りを疲労されたお話しである。…職員も患者も、いわゆる救ライ戦線の勇士だという自覚と自負心に燃えていた。
光田先生は、職員にも入院者に対しても、「われわれは、国家や国民に迷惑をかけてはならない。たとい、療養所内にいる病者であっても、国家社会に貢献することはできる」と事あるごとに説かれていた。
…それよりも隔離はもっとも急を要する。全国をさまよい、家を追われて乞食している人たちを収容しなければならない。これらの人たちから癩が感染しないよう、国民を守らねばならぬ。…と烈々の言を述べられている。
…最愛の家族と離別させる。この悲しみを味わわせるのは私情においてしのびないが、人類社会のためを考えねばならない、と悲痛な訴えをしているのである。

『光田健輔の思い出』「光田イズム」

光田の詭弁を信じ、光田イズムの信奉者となった林芳信は、まるでヒトラーを信奉したアウシュヴィッ収容所長ルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘス(Rudolf Franz Ferdinand Höß)である。ヘスでさえ、死の数ヵ月前に書いた手記に次のような言葉を残している。

世人は冷然として私の中に血に飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者を見ようとするだろう。けだし、大衆にとってアウシュヴィッツ司令官はそのような者としてしか想像されないからだ。彼らは決して理解しないだろう。その男もまた、心を持つ一人の人間だったということを。彼もまた悪人ではなかったということを。

ルドルフ・ヘス『アウシュヴィッツ収容所』

光田も林も死ぬまで、自らが「特別病室」に送致した患者のことを、残酷な日々を過ごした患者のことを思い出すこともなかっただろう。「暗黒のなかで強烈な湿気と闘い、減食の空腹にさいなまれ、傷の多い体に治療さえ受けられず」酷暑の夏や極寒の冬を耐え忍び、話し相手もいない孤独の中で出獄の時をただひたすら待ちわびるしかなかった患者のことを想像すらしなかっただろう。だからこそ、臆することなく『三園長証言』で高慢な発言ができたり、上記のような自負心に満ちた文章が書けたりするのだ。自らの正当性を信じているのだろう。

「特別病室」に入れられた92名の患者の出身療養所は調べれば明らかだろうが、ほぼすべての療養所から送られていることは予測できる。つまり当時の療養所長は、林芳信と同じく「警察権」(懲戒検束)を用いて指揮権を発動したのだろう。指揮権発動などと大仰であって、実際は園長や「虎の威を借る」職員の気分次第の一言だったと思われる。

結局、「特別病室」は取り壊されたものの、関係者はだれひとり刑事罰を受けることはなかった。「特別病室」を設置して以来の歴代厚生大臣も、厚生官僚も、そして、「特別病室」設置を推進した光田健輔以下の療養所長たちも、だれひとり、22名を死に追いやった刑事的責任を問われなかった。また、かれらは道義的責任も無視し続けた。

藤野豊『「いのち」の近代史』

人間の恐ろしさを痛感する。繰り返すが、このことを「時代性」とか「当時の社会通念」(たとえば体罰や減食、監禁などの懲戒によって教化するなど)等々で片付けるべきではない。なぜなら、現在起こっているロシアとウクライナの戦争、イスラエルによるガザ侵攻、捕虜に対する拷問やレイプなどの非人道的行為を見れば明らかだろう。「敵」であれば残虐な行為も平然と行うことができ、良心の痛みさえ感じない。「敵」だからという理由で、「敵」を倒すという目的で、愚かな手段さえ「正当化」されてしまう。

歴代厚生大臣も厚生官僚も「国家」「国民」が優先され、光田ら療養所長は自分たちの意向(思いどおりの園内秩序)が優先され、園外から出た患者はもはや自分の患者ではなく、排除した「不要者」でしかない。だから、「特別病室」がどれほど苛烈な場所であろうと、患者が苦しもうと関係なかったのである。

権威・権力を有する者がその力を弱き者に使えば、弱き者は死ぬ以外ないのだ。彼らの「救らい」とは高いところから見下ろし、自らの意に従う者にだけ、わずかな施しを与えることでしかなかった。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。