当時,被差別部落には近親結婚・血族結婚により「天刑病」(ハンセン病)が多いという俗説が流布していた。藤野が「部落問題とハンセン病」(『ハンセン病と戦後民主主義』)において引用している資料を転載しておく。
高橋義雄は福沢諭吉門下の『時事新報』の記者であり、森貞三郎は古代史学者であるが、当時の世間に流布していた「俗説」を拾い集め、それを根拠として、こじつけとしか思えないようなもっともらしい自説を展開している。彼らは医学者ではなく、科学的あるいは医学的に検証しているとは思えない。どれほど実地に見聞しているかは定かではないが、いくつかの「部落」や周辺の集落からの「俗説」を基に、ハンセン病患者の症状が外見上に表れた容姿と、差別(周囲からの排斥)による劣悪な生活環境、貧困による栄養不良などを無理矢理に結び付けて、予断と偏見で書いたものである。
だが、記者や学者が断定的に書いたことで、「俗説」に信憑性が付加され、事実(真実)として人々に信じられて広まっていった。「俗説」が「定説」と化して「事実」であると一人歩きを始め、尾ひれをまとって、人々の口を通して広まっていく。「俗説」がさらなる「俗説」となっていく。
『部落解放研究』に掲載された宮前千雅子の論文「前近代における癩者の存在形態について」は,前近代におけるハンセン病者の実態を概観しながら,近代のハンセン病隔離政策を支えた「差別意識」の歴史的背景を明らかにしている。
特に,古代から近世までのハンセン病者がどのような存在として社会の中で位置づけられていたか,近世の身分制においては「穢多」「非人」身分との関わりはどのようなものであり,身分としてどのように社会的に位置づけられていたかを考察している。
光田健輔が「特殊部落調附癩村調」を実施した背景について,宮前は次のように述べている。
光田がハンセン病患者を救済したい,ハンセン病を撲滅したいと決意・実行したことは称賛すべきことであるとは思う。だが,その方法論に大きなまちがいがあった。その方法論の背景には彼のハンセン病に対する認識の中に差別意識がなかったとは言えないだろう。
光田は自らが歩いた全国の「癩村」で患者から聞き取った「情報」を、さらに本多からの「報告」をより詳しく把握するために「特殊部落調附癩村調」の調査を実施したのである。一体、光田は何を確認したかったのだろうか。
一つには、絶対隔離のための「候補地」を確認するためであったが、二つには、「特殊部落調」でわかるように、被差別部落にハンセン病患者が多いという「俗説」を確認するためであった。しかも、1919年の「癩部落、癩集合地等ノ状況調査」では「現在癩患者ナキモ口碑伝説等ニ存スル癩部落、集合地等」も報告するように求めていることから、光田が「俗説」の確認をしたかったのではないかと考える。すなわち、「法規ニ依ル患者ナキモ古来ヨリ癩血統部落トノ風説アルモノ」として「婚姻忌避」されている「癩村」を調査することで、ハンセン病の「遺伝」説を確認したかったのではないだろうか。
光田は、ハンセン病を「感染症であって遺伝病ではない」と、「俗説」を一蹴することができなかったのではないだろうか。それほどに「癩血統」「婚姻忌避」の「俗説」が流布され、古来よりの被差別部落との深い関わりもあり、光田には「癩血統」「近親婚」を医学的・科学的に完全に否定することができなかったのではないか。それが「体質遺伝説」ではなかったか。