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光田健輔論(56) 「三園長証言」の考察(5)

光田健輔の自意識過剰、高慢ともいえるのが、次の証言である。

<光田健輔>
日本が一番模範的に隔離事業を実行して行き,又他国に一つのお手本を示してやるということが貞明皇后様の思召しにもかなうことであり,又世界的に今癩の問題をこれほどはつきりしたことをやつた所は殆んどないと私は思つておるのでありますから,今,日本の救癩事業というものが私は最も世界で進んでおると考えるわけでありまするから,この予防法等についても,広くこれを世界各国に知らしてやりたいと思う。

…日本の学者といえども,神経癩は移りはせぬ,それは外へ出してもかまやせぬというようなことを言う人があるのであります。それはもう少し病源というものを追究して行けば,神経癩であろうと,癩と名のつくものは私どもはやはり隔離しておかねばこれはうつるものだというふうに考えるのであります。
それで私は…朝鮮とか台湾とか,或いは中華には百万からある,インドには百二十万からある。そうしてそれが今から三十年前にはインドに十万ある,日本にも十万あると言われておつて,インドの学者の言うところによれば,今日百二十万になつておる。…癩は如何なる所に潜伏し,如何なる所に病毒があるかというようなことを追究して行かなきやならんのですけれども,又それを早く示すような方法をもうやらないのですから,私どもは先ず隔離をもう少しインドでもやらなくちやいかん。…先日丁度ネール首相の所へ行く人がありますから,…そういうようなことを言つてやりました。

それから第二に,朝鮮でもインドでも行くというと,癩患者が赤ん坊を抱いているのがたくさんあるのです。コロニーといつて,そこへ遍路が行きますとそこですぐ子供が……男女やつて來て子供が生れる。それが日本の木賃宿のような所へ泊つては,一つのコロニーがそこにできるわけです。そこにはうじやうじやするほど子供がおる,こういうようなことも癩の感染,十万人から百二十万にした一つの原因である。…この人たちに避妊法を教えて,又優生手術を施すようなことを一つやつたらよかろうということでまあ忠告はしておるのですけれども,…そういうようなことを世界各国に宣伝する必要があると思うのです。…日本の救癩が次第々々に効を奏して三分の一にもなつたということと同時にステルザチヨンをやつて,そうして療養所にどんどん婦人も入れる,男子も入れて,それが本当に予防の一番大事な眼目であるということを教えてやりたいというふうに考えておるのです。

日本が「一番模範的に隔離事業を実行して」「効を奏して(ハンセン病者数が)三分の一にもなつた」のだから「最も世界で進んでおると考えるわけ」なので、「他国に一つのお手本を示してやる」べきであると、自分が発案して実施してきた「絶対隔離政策」を自慢気に語っている。

専門家として招聘されている光田健輔が語れば、ハンセン病に関する知識や国際的実状の認識に乏しい国会議員は信じ込んでしまうだろう。私が「教訓」とすべきと考えるのが、まさにこのことである。権威者と見做されている人間が、専門知識をもって語れば、たとえそれが間違っていようとも、独善的・独断的な主張であろうとも、人々は信じ込みやすい。後年、この光田の証言が「虚偽」であり「自己正当化」であったことは、成田稔や藤野豊によって看破されている。

和泉真蔵は光田の証言について、次のように述べている。

ここで光田が述べていることは当時の医学の常識から見ても全く誤っている。「癩」は結核や梅毒と違い菌を含む病巣が体表面近くにあるので危険だというが、梅毒の病巣は性器粘膜表面にあり、開放性結核の病巣は気管支を介して外界とつながっており大量の菌が周りに散布される。また人間を刺した蚊や潰瘍になった病巣の血液を吸った蠅がらい菌を運ぶという事実は当時まだ証明されていなかった。さらに「神経癩」の病巣は体表面にはなくまた菌数が極めて少数であることは数千体を病理解剖した光田が知らないはずはない。ようするに光田は、誤った情報で議員たちの恐怖心をあおり絶対隔離政策が変更されないように画策したのである。

和泉真蔵「無らい県運動と絶対隔離論者のハンセン病観」『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』

繰り返すが、専門家の発信する「情報」の恐ろしさである。受け取る側の「乏しい知識と認識」を前提に<操作>することは容易いのだ。パソコンやインターネットが普及した情報化社会といわれる現在においても、否、だからこそ「情報操作」が簡単なのだ。トンデモ説や陰謀論が真しやかに流され、悪用され、人々は容易く「洗脳」されていく。
私は「悪意」と「善意」を見抜くことこそが現代に求められていると思う。始末におけないのが「善意」と思い込んで「まちがった情報」を垂れ流す人間である。


光田健輔の証言の考察を続けよう。この時の光田は76歳である。

<光田健輔>
それから予防治療,予防するのにはその家族伝染を防ぎさえすればいいのでございますけれども,これによつて防げると思います。又男性,女性を療養所の中に入れて,それを安定せしめる上においてはやはり結婚させて安定させて,そうしてそれにやはりステルザチヨン即ち優生手術というようなものを奨励するというようなことが非常に必要があると思います。一旦発病するというと,なかなかこれを治療をするには,一見治つたように見えますけれども,又再発するものでございますから,治療もそれは必要でありまするが,私どもは先ずその幼兒の感染を防ぐために癩家族のステルザチヨンというようなこともよく勧めてやらすほうがよろしいと思います。癩の予防のための優生手術ということは,非常に保健所あたりにもう少ししつかりやつてもらいたいというようなことを考えております。

「光田証言」の問題の一つ、「ステルザチヨン即ち優生手術」の「奨励」である。光田は「ステルザチョン」(Sterilisation:断種)に相当の自信と信念があるようで、事あるごとに推奨している。あらためて光田の<断種の論理>を簡単にまとめておきたい。

光田が断種にこだわる理由は「家族(家庭)内感染」であるが、さらには感染源であるハンセン病者の存在そのものを絶滅させることにある。ドルワル・ド・レゼーやコンウォール・リーなどキリスト教宣教師が運営する私立療養施設側の反対する男女の関係、すなわち結婚を光田は認める。その理由を「男女別居スルコトヲ強制スルコトハ人道ニ於テハ違フカト思フノデアリマス。男女相倚ッテ一個ノ人格ヲ成シ、…病メル夫ヲ妻ガ世話ヲシ、ソレカラ病弱ナル婦人ヲ亭主ガ世話ヲスルトイフコトモ亦絶対ニ禁ズルコトデハナイカト思ヒマス」と、「人道」を根拠にしているが、本音では結婚を「逃走」防止に利用しているのである。光田にとっては「孤島」に閉じ込めることも、「結婚」によって愛情と性欲を満たして孤独を和らげることも、「絶対隔離」のために「手段」でしかない。ただし、光田は結婚承諾に条件をつけた。それが「断種・堕胎」である。つまり、ハンセン病患者には「子孫」を持たせない。彼らの血筋を根絶やしにすることが「目的」であり、それゆえに「祖国浄化」「民族浄化」という大義名分が成り立ち、光田の主導する「絶対隔離」が政治家や官僚に受け入れられたのである。

断種手術、すなわち精管部分切除術による男性避妊手術は、癩療養所内の妊娠・出産を阻止する目的で、1915年に光田によって導入された。そのときの光田の真意は、終生隔離を原則とするからには所内婚姻も止むを得ないが、その結果である産児の分離保育は至難というよりは不可能と考えて、断種を唯一の解決策としたはずである。しかしそれは本来違法(傷害罪)ということだったので、その正当化のために、どれほどの確信があったかわからない胎内伝染説などを持ち出して議論をこじらせてしまった。

成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』

光田が「断種」を実施した背景を、藤野豊の考察から抜粋・引用しておく。

光田は、東京市養育院医官時代の1904年、…胎児への影響に強い関心を懐いていることを示し、…11人の女性患者中8人が妊娠中か分娩後にハンセン病を発症しているという自らが関わった臨床例を紹介している。ここで、光田は、妊娠・出産がハンセン病発症に影響することを認めている。そうであるならば、女性患者の妊娠・出産はさらに病勢を悪化させると考え、それを防ぐために男性患者に断種をおこなったという理解が成立する。

しかし、それだけではなく、光田が「癩系統」の存在にも深い関心を懐いていることに注目したい。光田は、1906年に、ハンセン病の菌は「癩病に犯され易き体質に寄生発育して数年の潜伏期間を待ちて之の人を癩病たらしむ」と述べ、ハンセン病に免疫の弱い体質の存在を認めているのである。

さらに、光田は、1906年、療養所ヘのハンセン病患者の隔離政策の長所として「男女の区画を厳にし」「子孫をして不幸な運命を得せしめざる」ことをあげている。隔離政策の長所に男女の生殖活動を禁止し、「不幸なる子孫」の出生を防ぐことをあげる発想には、「癩系統」の存在の承認が示唆されている。
「癩系統」の存在を認める光田は、その認識に立脚して、1916年に「特殊部落調附癩村調」に着手し、全国の道府県にその所在地について回答するよう求めている。光田が、「特殊部落」すなわち被差別部落の調査をおこなったのは、当時、被差別部落にはハンセン病の血統が多いという偏見が存在していたからである。…光田は、これから隔離を強化していくための準備として、被差別部落と「癩村」の所在地を把握しておこうとしたのである。

さらに、光田は、1930年代に入ると、断種の根拠として母親の胎盤からの感染や父親の精子からの感染の可能性を指摘するようになる。ハンセン病には免疫の弱い体質があり、それは子孫に遺伝し、また、胎盤や精子をとおしても胎児に感染すると考えるなら、患者への断種は必然とみなされた。

藤野豊『ハンセン病 反省なき国家』

男女の関係、結婚を認めない、あるいは禁欲生活を強要するから「脱走」が絶えないのだという実情を解決するには結婚を認めればよい。それは「人道」からも正しい。しかし、それは妊娠・出産を伴うことである。そこで光田は結婚の条件として「断種」を考え出したのである。しかし、それは患者への便宜的な説明でしかない。光田の真意は感染源である患者を子孫も含めて根絶することであった。断種を条件とする結婚を認めて「脱走」を防ぐことができれば、一石二鳥である。

光田がなぜ「絶対隔離政策」に固執したか、なぜ「退所」や「外来(在宅)治療」に反対し続けたのか。その理由もまた「体質遺伝」および「断種」と深く関わりがある。

「体質遺伝」説はもちろん、それ以外に胎盤感染や精子感染など、親から子にハンセン病があたかも遺伝するごとく感染するという認識が存在し、それが断種のひとつの根拠となっていたということである。絶対隔離を目指し、ハンセン病患者の撲滅を図る光田健輔ら絶対隔離を推進する側にとり、「体質遺伝」にせよ、胎盤感染にせよ、精子感染にせよ、ハンセン病患者が子孫を残すことは絶対に許されなかったのである。…すなわち、絶対隔離をおこなって、その結果として子孫を絶やしたのではなく、子孫を絶やすために絶対隔離を断行したのである。

…特に、「体質遺伝」説によれば、病気が治癒しても退所は認められないことになる。退所して、子どもをつくれば、その子にもハンセン病に免疫の弱い体質が伝わるかもしれないからである。ここにこそ、日本が絶対隔離政策に固執した理由が求められる。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

犀川一夫は「日頃、外部では、退園させない園長で通っていた先生も、実際にはずいぶん病者たちの退園をさせておられた」と書いている(『門は開かれて』)が、その退園者たちは「断種」をしていたのではないだろうかとさえ思えてくる。

<光田健輔>
予防するのにはその家族伝染を防ぎさえすればいいのでございますけれども,これによつて防げると思います。又男性,女性を療養所の中に入れて,それを安定せしめる上においてはやはり結婚させて安定させて,そうしてそれにやはりステルザチヨン即ち優生手術というようなものを奨励するというようなことが非常に必要があると思います。一旦発病するというと,なかなかこれを治療をするには,一見治つたように見えますけれども,又再発するものでございますから,治療もそれは必要でありまするが,私どもは先ずその幼兒の感染を防ぐために癩家族のステルザチヨンというようなこともよく勧めてやらすほうがよろしいと思います。癩の予防のための優生手術ということは,非常に保健所あたりにもう少ししつかりやつてもらいたいというようなことを考えております。

この証言でもわかるように、光田は「その幼兒の感染を防ぐために癩家族のステルザチヨンというようなこともよく勧めてやらすほうがよろしい」と、患者だけでなく、患者の家族にまで「断種」をさせようとしている。光田はハンセン病患者の家族は「体質遺伝」していると思い込んでいる。

ここでも光田は偽りを述べている。プロミンなどの化学療法剤の効果についてはまだ十分に検証されておらず、必ず再発すると結論的なことはいえない時期であり、世界では隔離政策の全面見直しが始まっていたが、光田はそのことに触れていない。また、ハンセン病が家族内伝染だけではなく、幼児への感染を防ぐだけでは蔓延を完全に防げないことはよく分かっていた。それにもかかわらず発病していない家族の断種まで行うべきという主張には狂気すら感じられる。
当時の光田は、断種堕胎を含む日本型絶対隔離政策は世界のどこでも実施されるべき唯一の正しいハンセン病対策と思い込み、隔離政策を緩和するとこれまでの努力が水泡に帰すと本気で心配していたようである。とくに独立したばかりの朝鮮半島から患者が密航して在日韓国朝鮮人の中に潜伏することで感染が広がることを恐れていた。

和泉真蔵「無らい県運動と絶対隔離論者のハンセン病観」『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』

自分の考えを正しいと思い込むとき、不確かな情報であっても、それを根拠に持論を強化していく。自説に都合のよい知識や情報のみを取り込み、他説に耳をかたむけはしない。そのような人間の「発信」ほど害毒になるものはない。まして光田のような「権威ある専門家」と見做された人間が発言すれば、虚偽さえも真実と受け取られてしまう。

<光田健輔>
私はかねてから朝鮮人の内地移動の問題,移動が,癩になつて移動するのならばよくわかりますけれども,癩の症状が素人にわからぬうちに入つて來るのが多い。これはどういうわけかと申しますというと,朝鮮の全羅南北道と慶尚南北道,この四道において癩の巣窟があるのであります。そこには,ウイルソンの話によるというと二万五千人の癩患者がいるということであります。それが頻りに子供を生み,そしてその子供が癩にかかるというようなことで,内地においては二千とか三千くらいまだ癩患者があるというのですが,朝鮮には二万有余のものが内地の近い所に巣窟を作つているのであります。この問題を如何にするかということについて私はかねてから非常に憂慮している者でございまして,一昨年に見ましたときには全国の十カ所の療養所で四百五十人ほど入つていた。今年の六月頃又調べましたところが,全国の十カ所の療養所に五百人の患者が入つている。この頃又収容を始めますというと十人の中に一人なり二人の朝鮮の患者が入つている。これはやはりみんな調べて見ますというと,その本籍地は四つの朝鮮の南の道であります。これは予防上非常に注意すべきことでありまして,御承知のごとく,全羅南道の高興郡の小鹿という所に元六千人の収容所を建てておりましたのでありますが,それがやはり日本の管理下にあるときには六千人充実いたしておりましたけれども,今はどういうふうな状況になつているか私どもはよく知ることができません。こういうような収容施設にやはり六千人おれば,その中の三百人とか四百人というようなものは毎年死ぬのでありますから,その後に朝鮮にいるところの患者を入れるように,日本の総督時代にはそういうふうになつておりましたけれども,こういうようなことをもう少し実際朝鮮の人たちからも聞き,小鹿島の状況なんかをよく観察して,そしてそこに日本の力を加えてやる,或いは国際連合の力を加えて,そうして元通りに復興さしてやるというようなことが必要ではないかと考えます。これは今予防上についての御参考に申上げましたが,要するに私は沈澱している全国の患者を極力療養所に入れるためには法の改正をする必要があるという意見であります。

光田の証言は、日本の統治下で作られた療養所が戦後どうなっているか、収容されていた患者が「逃走」しているのではないか、そして日本に治療薬(プロミン)を求めて、あるいは朝鮮戦争の戦火から逃れて日本に密入国してくるのではないか、という危機感からである。
だが、藤野豊は、出入国管理庁第一部長田中三男の証言などから、この証言は事実ではなく、「風評」「うわさ」の域を出るものではないと述べている。しかし、「ハンセン病医療の権威である光田健輔が証言することで、『風評』『うわさ』が真実であるかのような印象を社会に与えていった」(『ハンセン病と戦後民主主義』)と、光田が国家の政策に与えた影響の大きさを指摘している。私は、このような権威者による「独善性」が国家や社会に及ぼす「錯誤」を教訓として我々がその「真偽」を判断していかなければならないと思っている。


<光田健輔>
予防上から申しておくのは,療養所の中にいろいろ民主主義というものを誤解して患者が相互に自分の党を殖やすというようなことで争いをしているところがございますし,それは非常に遺憾なことで,患者が互に睨み合つているというようなことになつておりますが,これは患者の心得違いなのでありますが,そのためにそこの從業員が落着いて仕事ができないというようなことになつておる。結局は患者の非常な不幸になつて参ります。こういうような療養所の治安維持ということについて,…もう少し法を改正して鬪争の防止というようなことにしなければ,そういうような不心得な分子が院内の治安を紊し,そうして患者相互の鬪争を始めるというようなことになるのでありますから,この点について十分法の改正すべきところはして頂きたいと存ずるのであります。

これは療養所における患者の自治会運動への警戒であり、むしろ嫌悪・敵意である。背景には、「特別病室」事件が共産党や社会党の支援によって暴かれたことも関係している。

…患者運動に譲歩しないという強い対抗意識が、彼らの隔離政策維持論にさらに拍車をかけていた。懲戒検束規程を強化して、入所者の運動を抑圧しようというのである。
彼らが、懲戒検束規程の強化をあえて求めたのは、すでに1950年2月24日付で、厚生省医務局長・公衆衛生局長が、各医務出張所長と各ハンセン病療養所長に対し、法務府と最高検察庁の見解として「癩予防法」の懲戒検束規程は憲法違反ではなく「癩患者のための刑務所等の設置が実現するまで該執行は公共の福祉のため已むを得ない措置であって憲法その他の法令に違反するものでわない」という結論を通知していた。これがあるからこそ、三園長は懲戒検束規程の強化を主張できたのである。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

戦後、各療養所では入所者による自治会運動が活発化し、新憲法を盾にして「特別病室」など数々の人権侵害の事実を暴露して、施設の改善や隔離政策の撤廃を要求するに至った。この患者による運動を支援したのが共産党や社会党であった。
光田は絶対隔離政策が入所者による自治会運動によって崩れることを極度に恐れたのである。それゆえ、懲戒検束規程を強化して自治会運動を抑圧しようと考えたのである。

数十年の歳月をかけて作り上げた絶対隔離政策の牙城である療養所を死守することが光田にとって至上命令であった。ハンセン病の根絶=感染源である患者および血統の絶滅=断種・堕胎であり、それを可能にするのが絶対隔離の療養所であり、そのためには療養所園長に患者を抑圧する懲戒検束権が必要であった。また、この方程式こそが光田健輔が考え、実行してきたものだったのだ。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。