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変わりたいのに変われない、そんな自分を責めてしまう人に書きました

子どもの頃は、文章を書いてその世界の中に閉じこもっていることが多かった。
その前は人体図鑑を暇さえあれば見ていて、そんな私を母が猟奇的だと心配し、父によく相談していた。
一方の私は、その様子を目にしながら、むしろそう考える母親が怖かった。
私は単に人間という生き物がどうしてこのように手足が動き、どうして食べ物を食べなければならず、呼吸をしなければならず、そしてなぜこのようなことに疑問を感じているのかを知りたかった。
それを探求したさに、生体に傷つけてまで知ろうとは全く考えてなかったけれど、大人の頭の中にある知識は、そういう想像をさせてしまうんだなと思った。


クライアントさんが、もし「どうしてこういう感情になるのかわからない」と言ったとしたなら、ある程度見立てが自分の中に湧き上がってきたとしても、それがミスリードになり得ることを、同時に認識しようと思う。
「わからない」ということをそのまま受け入れて、「わかりたい」なら一緒にわかるように見ていくし、「わかりたくない」なら、わかりたくなった時に一緒にまた取り組んでいこうと思う。
クライアントさんが本当の自分でいられるように、私は最大限の努力をしたいと思う。

なぜそう思うか、それが今日一番書きたかったこと。
いつもの癖で前置きが長くなってしまった。



クライアントさんの行動変容に最終的につなげるのがキャリアコンサルタントなのかもしれないが、個人的には行動変容の過程に伴走者はそんなに必要ないような気がしている。
それよりも、まずはその人がその人になることが大事で、それができれば、自然と行動変容に繋がっていくと考えるからだ。

ところがその人がその人になる、つまりありのままの自分、本当の自分であることが難しい。
「ありのままの自分を受け入れるなんて、毎朝鏡を見た瞬間からできないし、いろんな場面でしょっちゅうできてないよ!」(これは私の本当の声…)
失敗したりすると特にそう言いたくなる。

だが、ずっとそんな風に自己批判をし続けていたら、変わりたいともがいていても、なかなか変われない。
なぜなら自己批判は、変容させることを妨害することがあるからだ。
(アスリートの方など自己批判を上手に使って結果を出している方もいらっしゃる)

例えば失敗して、そんな自分を批判しているとする。
人間の脳は、特定の行動の後に同じ反応を続けると、そのことを学習し、反復する働きがある。そのため、失敗と自己批判もまた繰り返しにより強化され、失敗したときに、簡単にあるいはほぼ無意識に自己批判をするようになる。自己批判は、失敗に対する罪悪感が軽減したように感じさせてくれることがあり、これがある種の報酬ともなるのだ。

自分を責めた方がうまくいく、次ちゃんとできる、そう思うのはよくあることで、だから多くの人は自分に厳しく接するのだが、それが自分でも思わぬうちに過度になり、ストレスとなってしまうとパフォーマンスや自己効力感が落ち、結果的に次の失敗に繋がっていく。変わりたいのに変われない自分になってしまう。

だから私は、行動変容のもっとずっと手前の、この自己受容(自己理解と同時か人によっては前後して進む)が、何より大事だと思っている。

私の仕事は、その人がその人になる、あるいはその人に戻る旅路のお供をすること、そんな風に考えている。
それができれば、その人の手にはいつの間にか明るいランプがあって、次に行くべき道が見えており、自分で意思決定できると思う。

その人がその人になるあるいは戻ることなしで、行動変容にジャンプしようとすると、自分の手元にランプがなく、誰かのランプがないと進めなくなってしまうんじゃないかな。

自己批判からの行動変容は直線ではない。
自己批判から、一度自分への思いやり(セルフ・コンパッション)を経て、自己受容し、行動変容へと向かうのではないか。
そんな風に思いつつ今日のnoteはおしまい。

今日も私のnoteをお読みいただきありがとうございました。



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