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小泉純一郎は「文系」故に理系を足蹴にしてきたのか?

(写真は以下の記事から)

どこかで先日「文系」「人文系」に対するバッシングの主体として「お理工さん」という言葉を見かけたが、日本におけるその主力はお理工さんのワナビーやポーザー、もとい文系にも理系にも引っ掛からない中途半端なセミインテリであるということは拙稿に以前書いた。

しかしながらよくよく見てみると、以下のような陰謀論一歩手前の話すら「お理工さん」の中から出てきている。

2000年代前半の「選択と集中」に基づく大学改革やゆとり教育などにより理系が冷や飯を食わされることになったが、それは改革の主体たる当時の首相・小泉純一郎(慶應義塾大学経済学部卒)を筆頭に、日本を率いる官僚や財界人が揃いも揃ってド文系ばかりで理系を軽んじているからだ。
(「第二次世界大戦後を通して日本を率いる官僚や財界人は揃いも揃ってド文系ばかりだから〜」というバージョンもある)

確かに建築業や自動車産業から(昨今話題の尼崎市USB紛失事件に代表される)IT業界に至るまで、日本における「工業」と称するものは、官公庁や大企業を顧客として、事業者は文系出身者の幹部や社員が多くいる商社やゼネコンなど大企業を筆頭に多重下請け構造になっており、理数系出身者の技師らが指示を聞いて作業するという構図があるだろう。
ところがちょっと待ってほしい。工業や(ここでは触れていないが)農業などといった「実学」ではなく、それらを支える技術の元となる基礎科学研究、あるいはそれら理系の研究を行うための素養(倫理)を支える人文系/文系学問でさえ、国立大学の法人化など大学改革で足蹴にされたのではないだろうか。(それ以前の日本であっても、当時研究者らがサポートを十分に受けられていたおかげで現在でもノーベル賞受賞者をコンスタントに出している理数系の研究はともかく、精神医療や原子力開発などの面で生命倫理や科学哲学などの領域は軽視されていた気はするが)
この小泉路線を煮詰めたのが、あまり実感がない方もいらっしゃるとは思うが、数年前に少しだけ騒がれた人文系学部の縮小やら昨今の「稼げる大学」「L型大学」であると言えよう(和式ネオリベラリズムという観点では、日本維新の会やその根源たる大阪維新の会の「身を切る改革」もそこに連ねてもよかろう)。さらに中等教育以下でも、高校の古文漢文不要論や小学校での英語やプログラミングなどの導入などがその系譜につながっているのではないか。

「選択と集中」すなわち「無駄を省こう」「コスパを上げて効率の良さを追い求めよう」「無駄を節約して儲かるものに集中しよう」、なるほど、それは生活などの面ではよい考えかもしれない。しかし、それを段階を問わぬ教育に持ち込んだらどうなるかについては、昨今の日本における文理両方の研究能力の衰退に如実に現れているとしか言いようがない。

そういう意味では、小泉改革とそのレガシーは理系分野だけではなく、文系の分野においても研究者らに対して冷や飯を食わせ続け、その恩恵に預かる技師や医師、教師などの「ミヤコ業」(師業)、もしくはそれらとは異なるようなサムライ業(士業)も含むその他大勢の国民をもおざなりにしているのではないか。そのため「小泉首相は『文系』だから理系を蔑ろにしてきた」とは到底言い難いのである。

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