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4年生になり学校へ

3年生の2学期から学校へ行かなくなった長男。それに伴い、次男も保育園へ行かなくなり、退園した。

まずは近況から

4年生の始業式(3日前)から、長男は学校へ行くようになった。初日は始業式だけだから余裕で学校へ行った。

2日目はとても辛そうだった。不安がたくさんある。「勉強についていけないんじゃないか」「まだクラスメイトに慣れていない」「1日6時間も耐えられないんじゃないか」いろいろ。

パパが励まして何とか登校した。「頑張れ」と励ます人、「頑張れなくなったらここにおいで」と言う人、両方が必要なのかもしれない。親がひとりで担うのはなかなか難しい。たったひとりだとしたら、頑張れなくなった時の安全地帯を担う選択肢しかないとは思う。少なくとも私はそちらを選択している。

2日目の夜は、学校であった嫌なことを気にし過ぎていた。

3日目の朝は、昨晩気になっていたことはそれほどでもなくなり、しっかりと登校していった。4日目も同様。

◇◇◇

ここからは、これまでのことを振り返ろうかなと思う。

大切なことは何か

いつも「大切なこと」に立ち返らなければ、私自身がすぐにいろいろなことを見誤ってしまう。

大切なのは、今幸せになることと、将来幸せになること。今も将来も愛のあふれる環境で心穏やかに過ごして、自分で道を切り開ける人になっていくこと。少なくとも私はそんな風に思っている。

ルールとは何なのか

嫌なこと(学校)からの逃げ場としての母や家庭だったころは、彼もそれだけで私や家庭に感謝していた。だけどそれが日常になると、私に怒りが向くことも多い。子どもをルールで縛ろうとすると、穏やかに過ごせない。

恐ろしい目で私をにらむことも少なくなかった。「ルールを守らない人が悪い」という考えからすると子どもが間違っているはずなのだけど、それを糾弾しても解決しないことは明らか。正義をかざすのは最良の策ではない。何かがバランスを崩している。私はそのたびに、自分のやり方を顧みる。なにがよくなかったんだろうか。

子どもにきつく言うのをやめる。以前は「スマホは6時までっていうルールだからすぐやめて!」ときつく言っていた。守れない子どもが悪いと。でもそうじゃない。たいてい守れやしないのだ。

「はい、時間すぎてるよ~」と優しく言うことにした。でも子どもには、これまでの経験からきつく聞こえるようだ。

「うるさいな!」「わかってるよ!黙れ」そんな言い方から

「まって!」「あーもう!」に少し変わり

「ちょっとまって、これ終わるまで」に変わってきた。毎日やって、2~3週間かかった。親業とは、なんという精神修行なのだ。

それでも以前より、早く終えられるようになってきた。次男などは褒められたくてパッとやめることも増えてきた。以前は、言うたびに私が殴られ蹴られていたのに。

子どもは、私に最良の策を教えてくれるのだと思う。私には、子どもを信じて報われたという成功体験ができたことになる。

親も子も、罪悪感と戦う

子どもはまず、「学校へ行かない罪悪感」と戦っていた。家ではのびのびできても、他の人にいろいろ言われる。

だけど、「行かなくたっていいよ」と言ってくれる人はたくさんいた。それに彼は助けられたと思う。罪悪感を持っていると、ずっと苦しい。まずは気持ちを健康な状態にして、それから最良な道を判断した方がいい。彼の中で罪悪感が消えることが大切だと私は考えていた。

「行かなくたっていい」と言うし、「やらなくたっていい」と言う。つまらなくなって、通信の勉強もやらなくなってしまった。やらせようとすると、私も長男も心が痛い。たった15分でも毎日は無理だし、週一とかはもっと無理だ。とにかく、嫌なことへの拒否反応がすごい。本当に自分にまっすぐなのだ。彼は、これからを生きるニュータイプだと思うようにしている

勉強に対する不安は消せない

親の罪悪感は、勉強をしていないということ。それで果たして大丈夫なのか。自分の勉強を振り返ると、教科によっては全く覚えていなかったりする。算数や数学はわかるけど社会は忘れているとか。そう思うと、やらなくたって何ともないのでは? と思う。だけど、その余裕を常に持つのは難しい。

だから少し、自分の不安を払しょくさせるために、学校の勉強ではないところに活路を見出す(学校の勉強はつまらないし追いつかないから)。子ども向けの経済の本を読みきかせたり、プログラミングを始めようとしてみたり。それは子どものためかもしれないけど、今考えると親である自分を安心させるためだ。

不安は生きるためにある感情なのだから、なくさなくていい。不安に駆られて「何かを身につけさせなくちゃ」と思ってもいいではないか。イヤイヤやらせるのは、私にとっても長男にとっても無理だとわかったので、読み聞かせといった、2人や3人で楽しいことを続けていこう。それなら私の不安も和らぐから、精神衛生上いい。

大人と会わせるのもそのひとつ。学校ではできない経験をして、自分でいろいろ吸収して考えるようになってもらいたい。いろんな世界を見てもらいたいと思っている。友だちのワークショップに行ったり、大道芸の助手をしたり、大人たちとマイクラ(ゲーム)をしたり、大人のコミュニティや私のポッドキャスト収録に連れて行ったり。

選択肢を残し続けるために

学校へ行かなくてもいいけど、そのうち学校へ行ってもいいと思うかもしれない。何にしても、友だちがいるのだ。毎日友だちに会えるのは楽しい。

行きたいと思ったときに「気まずいから行かない」と思ってしまうのはちょっともったいない。だから、「行きたくなったらいつでも行ける」という選択肢を残しておくことは大事だ

スクールカウンセラーの先生や、スクールソーシャルワーカーの先生にご協力いただきながら、週に2日、短い時間だけ学校へ行っていた。クラスの友だちも理解してくれているようで、突然行っても普通に接してくれるらしい。授業中にひとりでガラッと戸を開けて、教室に普通に入っていったのを見たときは驚いた。

「それなら毎日行けるじゃん!」って思ったけど、そうでもないようだ。難しい。

友だちは悪くもあり、よくもある

友だちはとてもありがたい。土日に遊んでくれるし、授業に出ていないのに放課後の校庭開放で遊んでいたりした。

だけど、傷つけ傷つけられるのも友だちだ。いやなあだ名で呼んだり、たまに仲間外れにしたり、ささいなことで喧嘩したり、それを根に持ったり。

「気にしなくていい」と言っても気になるのだから仕方ない。私はときどきアドバイスっぽいことをして「俺の気持ちがわかんないくせに!」と何度も言われてしまうが、それでも話してくれるような環境を作っておくしかないだろう。本当にピンチの時にすぐに気づけるように。困ったときに私を頼ってくれるように。

新しい環境

そうそう、新しいクラス。担任の先生は、若めの男性だった。別の小学校から来た先生。

電話で「今日は行けないかもしれない」と連絡した時には、むやみに残念そうな声を出すでもなく、いたって冷静に受け答えしてくれた。「遅れても大丈夫ですから」と。

遅刻した長男を学校へ連れて行った時に偶然校舎の外で会って、にこやかに挨拶をしてくれた。すぐに子どものそばに行って、肩に手をかけ、何か話しかけて、それに長男が応えていた。

子どもはその日の夜「学校の先生って変なギャグいうよね」と言う。楽しそうだ。先生が授業中に変なギャグを言うのだろう。長男はそれを気に入っているようだった。幸先はいいかな、と思う。

スクールカウンセラーの先生は異動になって、新しい先生にはまだ会っていない。スクールソーシャルワーカーの先生は継続だったから安心した。長男はその先生が大好きで、とてもなついているのだ。

プレッシャーを与えないようにする

私が気を付けるのは、プレッシャーを与えないことだろうか。また行けなくなるかもしれないけれど、大げさにがっかりしたりしない。行きたい気持ちも、がっかりする気持ちも、彼は同じように持っている。それでも行きたくないと判断したのであれば、私がさらに畳みかける必要はない。

子どもは何も考えず好き勝手に、適当に学校へ行ったり休んだりするわけではない。そういう子もいるかもしれないけど、長男はそうではないと信じている。行きたいけれど不安があって、上手く言えないけど嫌なことがあって、そこで苦しんでいるのだ。勇気を出せることもあるし、出せないこともある。だけど子どもだから、後先を考えずに今の楽しさに没頭してしまうことは多い。そういうバランスを、手助けするくらいしかできない。

私ができることといえば、まずは彼を信じることなのかなと思う。それは、「きっと学校に行けるはず」みたいな私に都合のよい信じ方ではたぶんなくて。

子どもを信じるとは「彼が選んだことは、彼にとって(もしかしたら多くの人間にとっても)本当に大事なことなんだ」と理解することなのかな。……うまく言えているかわからないけれど。


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