<おとなの読書感想文>うつくしく、やさしく、おろかなり–––私の惚れた「江戸」
わたしは生まれも育ちも、東京都の西のほう。
ごくまれに、「江戸っ子ですね」などと言われてしまうことがあるけれど、それは大きなまちがいです。
本書にあるように、「芝で生まれて神田で育つ」。また、三代続けてかの地に住み着いている。
このような江戸っ子の条件を満たす人は、江戸時代にも現代にもごくごく限られています。
武蔵野の雑木林に遊んだわたしのような者が江戸っ子を名乗ろうものなら、生粋の江戸っ子にたちまち怒られてしまうでしょう。関西圏出身ではない人が「なんでやねん」と突っ込んでひんしゅくを買うようなものです。
重々承知で、言いたくなってしまう。ああ、でも言えない。
無理のない発声・発音で「てやんでい」と言い放つには、どれだけ修行が必要だろうか。
「うつくしく、やさしく、おろかなり–––私の惚れた「江戸」」(杉浦日向子 ちくま文庫、2009年)
筆者の生前のエッセイや談話や講演をまとめた本で、これを読むとたちまち長屋のひしめく江戸のが目の前に広がるようです。
泰平の世、人々はその日その日を生き抜くに必要なものだけを手に、楽しく暮らす工夫を惜しみませんでした。
季節の移ろいを細かに感じながら、自然を取り入れて遊ぶ江戸の生活は、どれほど豊かなものだったでしょう。
コンパクトで理にかなった生活スタイルは、昨今のミニマリズムやナチュラル志向に通じるような気もしてしまいます。
しかし、そうは問屋が卸さない。
安易に「江戸」を理解した気になる輩に、杉浦さんは手厳しく迫ります。
「つよく、ゆたかで、かしこい現代人が、封建で未開の江戸に学ぶなんて、ちゃんちゃらおかしい。私に言わせれば、江戸は情夫だ。学んだり手本になるもんじゃない。死なばもろともと惚れる相手なんだ。うつくしく、やさしいだけを見ているのじゃ駄目だ。おろかなりのいとしさを、綺堂本に教わってから、出直して来いと言いたい。」
(上記より抜粋、『ちくま日本文学全集57』1993年7月)
少しかじって好きになっただけでは、そのものの本質や全体はわかりません。
江戸には江戸の、21世紀には21世紀の生き方、考え方、価値観があるはずです。
いたずらな「昔はよかった」だけでは、エセ江戸っ子を量産するだけでしょう。
「おろかなり」を目を細めて見つめる眼差しこそ本当の愛情なのだと、身につまされる思いがします。
何かに打ち込み、熱く向かっている人を見ると、その熱はこちらにも伝わるものです。
わたしはこの本を通して戯作に笑い、カカアのたくましさに閉口し、つまらぬことに身を滅ぼしかけながら、江戸の世に生きる人たちの喜怒哀楽を、垣間見たような気がしました。
杉浦さんの江戸に対する情熱は今でも本の中に燃え続け、手に取る人を温めてくれるのでした。
画材費、展示運営費、また様々な企画に役立てられたらと思っています。ご協力いただける方、ぜひサポートをお願いいたします。