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生きるしかないのだけれど

昨日、私は夜勤明けの朝に、ある患者さんの部屋に、栄養剤を胃瘻(いろう:口から食事ができない人が、お腹に管をいれて、そこから栄養剤を注入する)から注入するために病室に行った。

その患者さんは、自分ではベッドの上で寝返りもできない、いわゆる寝たきりで、うちの病院に入院して1年くらいになるだろうか。

「〇さん。おはようございます。今日は暑くなるらしいですよ。今から顔を拭いて、口の中を綺麗にして、それから栄養をいれますね。」といつものように声をかけて〇さんの顔を見たとき、今更ながらに、ふと思った。

この人は何を思って生きているのだろう?

娯楽もなく、自分で身体も動かせない。自分から言葉を発することもない。
挨拶をすれば「おはよう」くらいは返事をしてくれることもあるけど、それも時々だ。

毎日、朝がきて、顔を拭かれて、歯磨きされて、管を鼻や口からいれて痰をとられ、胃瘻から栄養剤を注入されて、時間が来たらおむつ交換と身体の向きを変えられて、昼が来て、夜が来て、また同じことを繰り返される。死ぬまでずっとだ。

この人が生きている意味はあるのだろうか?

コロナになる前は面会もできたけれど、その時だって、家族は毎日来るわけではない。3か月に1回くらいだ。それでも、家族が久しぶりに顔を見せてくれて〇さんが嬉しいと思う瞬間があるのなら、生きている意味もあるのかもしれない。でも、コロナになってからは、家族の顔を見ることもない。なんの楽しみが、幸せがあるのだろうか。

そして、家族はどう思っているのだろうか?

毎日の〇さんの生活を見て、それでも生きていてほしいと思うのだろうか。もし、生きていてほしいと思うのならば、それは、なぜだろう。「ただ、〇さんが存在しているだけでいい」という理由だろうか。でも、それは家族のエゴではないだろうか。まだ、「〇さんが生きていれば家族に年金が入るから」という理由のほうが、〇さんが生きている意味があるように思える。

倫理の面でいえば、「ただ、存在していてほしい」と「家族に年金が入るから」を比べると、後者の理由のほうが「人として最低」部類に入るのかもしれないが。

いずれの理由にせよ、自分ではほとんどのことができなくなってしまった〇さんは、生きているしかないのだけれど。



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