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お酒、時々コーヒー。いつかまた会えた時どっちで乾杯する?お義父さん

義父(舅)はお酒が好きな人だった。

しかも、飲み方がとてもきれいな人。昔はお酒でよく失敗したらしいけど(義母談)、私が嫁いだ時は、そんなそぶりは一切感じられなかった。見た目も児玉清が田舎のお爺さんになったような風貌で、多少の品があり、決して悪くはない。

義父は夕食時になると、好きなお酒をグラスに注ぎ、おかずをつまみにして楽しそうに飲んでいた。

義父は基本的にアルコールは何でも飲める口(くち)だったけど、特に好んで飲んでいたのは日本酒とビール。それに時々、義父自らが漬けたという自家製のマタタビ酒やヤマブドウ酒も出てきて、それらをチビチビと飲んでいた。

いつもグラスに一杯。機嫌が良いときは二杯。ゆっくり時間をかけてそれだけを飲むと、軽くご飯を食べて「ごちそうさん」と言い、ササッと食卓を後にする。

義父はお酒を飲みながら、「昔、〇〇で働いていた時に・・・」とか「以前、△△さんにこんな話を聞いたんやけど・・・」と、よく昔の話をした。

そして、私に「Emikoさん、アンタは飲める人なんやで、まぁ飲みなさい。」と言って、私に気持ちよくお酒を注いでくれた。

嫁ぎ先では、お酒が全く飲めない義母と、飲めないことは無いけどあまり強くない夫、そして、お酒を飲んでも顔色が全く変わらない強い私・・・という家族構成 (後に誕生して成人した息子は、お酒は飲むけどあまり強くはない)。なので、私は自然と義父の晩酌の相手をするようになった。

◇◇

嫁いだ頃の私は、お酒は何でも飲める方だったけど、どのお酒が美味しいとか、どれが好きとか、そういうことは全然分からなかった。義父の好きなお酒を一緒に飲むようになってから、いろいろ覚えていった。

私が住んでいる飛騨地方には、たくさんの造り酒屋があり、どの酒もそれぞれに個性があり、とても美味しい。数ある地酒の中でも、芳醇な香りが特徴の「蓬莱」が義父はお気に入りだった。食卓の脇に、蓬莱の一升瓶を常備。皆で飲むときは、瓶から酒を徳利に移して燗にして飲み、一人で飲むときは自分の湯飲み椀に一杯分を注ぎ、レンジでぬるめにチンして温めて飲んでいた。

また、ビールだと、義父はキリンのラガーがお気に入りだった。アルコールならスーパードライでも何でも飲むのだけど、義父曰く、キリンのビールの方が飲み口が良くてコクがあり美味しいそうな・・・。

義父は、自分が飲むときは、私にも気前よくお酒を勧めてくれた。そこで私も一緒にチビチビと飲む。私のグラスが空になると、義父は「まぁ飲みなさい。」と言って私のグラスに並々と注いでくれるので、私も義父の器の中が空になるタイミングでお酌をする。でも、義父はたいていの場合、「もうこれでいい」と言って、自分の器を手で塞いで断っていた。

自分の身体の加減を見て「これ以上は飲まない方がいい」と感じると、義父は自主的にこの日の酒をストップする。だから私は義父が泥酔したところを見たことが無い。目の前の料理をきれいに食べて、美味しくお酒を飲み、ほろ酔いで気持ちよくなったところで、潔く酒を止める。とてもきれいで品がある飲み方だった。

私たち夫婦に対して干渉が厳しい義父母だったけど、お酒に関してはとても寛容だった。義母も「お酒が飲めるんやで、いっぱい飲みなさい。」と私が晩酌することをいつも勧めてくれた。

こんな感じで、義父とは夕食時にチビチビとよくお酒を飲んだ。

お酒を飲みながら、ほろ酔い気分で、義父の昔話を何度も何度も繰り返し聞いた。

◇◇◇

そんな義父も、80代後半になると、あんなに好きだったお酒を飲まなくなった。私が勧めても「今はいらん。お前達で飲みなさい。」と言って断るようになった。年老いて身体が弱っていくにしたがい、お酒を美味しく感じなくなったようだった。

その代わりに、義父の月一回の病院の帰り道にカフェに寄り、一緒にコーヒーを飲むようになった。

ちなみに義父は、70代になってすぐに脳梗塞を患った。でも処置が早かったのと入院中からリハビリをものすごく頑張ったお陰で、すっかり良くなり、退院した後は、毎月一回、かつて入院していた大きな病院へ一人で定期診察に通っていた。80代の始め頃までは一人でバスに乗って病院に行き、一人で1ヶ月分のお薬を貰っていた。しかし、だんだんと足腰が弱り、軽い認知症も始まり、一人でお出かけするにはちょっと心配な状態になったため、どこからか私が車で送迎し、診察もずっと付き添うようになったのだ。

診察が済んで会計を済ませた後、そのまま帰路について家に直行するのも良いけど、「せっかくだから・・・」と義父をコーヒーに誘った。義父はお酒以外にコーヒーも好きで、よく喫茶店でコーヒーを飲んでいた・・・と夫から聞いていたので、車椅子でも入店できるお店を見つけてそこに寄り、二人でコーヒーを飲むようになった。

カフェでは、義父はいつも美味しそうにブラックコーヒーを飲み、ぽつりぽつりと昔の思い出話を私に話してくれた。

義父の話を聞きながら、「へぇ~。そうだったんですか!」と、興味深く相づちを打つ私。義父の話は、昭和時代の出来事がメインだった。初年兵で出征し九州で終戦を迎えた話、まだ10代だったとき丁稚奉公で近くのお屋敷で働いていた時のエピソード、早くに母を亡くして貧乏だった幼少時代の思い出・・・等々。義父の思い出話は、聞く度にどんどん古い過去へと遡っていった。しかし、とても詳細に臨場感をもって語ってくれるので、義父の記憶の世界が私の脳裏に色鮮やかに甦っていく。過去に生きていた人々の息づかいが、生々しく伝わってくる。

ちなみに義父の認知症は、短期記憶が少しずつ消失していくタイプで、それ以外に問題はなかった。最初は半日前のことが頭から消え、やがて1時間前に、それが15分、10分、5分、3分・・・と記憶できる範囲がどんどん短くなっていく。しかし、長期記憶はとても鮮明で、昔のことは「まるで今この瞬間」に起きているかのように詳細に語ってくれた。

もちろん、仲良く語り合いながらも、お互いの価値観の相違から意見がぶつかることもあった。義父は温和そうでいて頑固なところがあり、嫁の私に対して自分の固定観念を押しつけることが多々あった。それに対して、その頃の私は我慢して受け入れることはせず、たとえ義父が相手でも私の気持ちを尊重するようにしていた。そんな私の反応に義父がムッとして、少し雲行きが怪しくなり、険悪なムードになることも時々あった。

でも、たいていの場合、義父は飄々としていて上機嫌だった。病院後のカフェタイムは、お互いにとっても穏やかで落ち着いたひとときだった。私は義父と飲むコーヒーが楽しみだった。

◇◇

こうして時は流れて、義父が91歳になった年の年末。

大晦日の晩に、私たちは家族で食卓を囲み、皆でご馳走を食べた。私たちが住んでいる地方は、大晦日の晩に歳取りのご馳走を食べる風習がある。この時、杯(さかづき)に日本酒を注ぎ合って乾杯し、お酒を飲んで身を清め、美味しいものをいっぱい食べて、一年の労を労うのだ。

私の横に座っていた義父は、いつもはあまり食べないのに、この晩は「美味しい美味しい」と言って、ご馳走に箸を伸ばしていた。お酒も、それまで長い間飲まなかったのに、この時は私が注ぐと美味しそうに飲み干していた。

いつもとは違う様子に「あれ?」と感じたけど、食べたいものを食べ、飲みたいものを飲み、上機嫌で楽しそうにしている義父を見ていたら「これでいいんだ」と思った。

この晩の義父は、あまり喋らず黙々としていたけど、その分、お酒をたくさん飲んで、お腹いっぱい食べて、顔を赤くしてニコニコしていた。「以前の義父」と「本来の義父」が混ざったような、不思議な感じだった。子供みたいににっこり笑って、ご馳走を頬張っている義父が「可愛い」と思った。その後、いつもは紅白を見て、途中で「眠くなった」と言って寝室に退散していく義父が、この晩は紅白を見ることなく早々に寝室に入っていった。

その様子を見て、私と夫は「今日の爺ちゃん、いつもと違ったてたな。」とこっそり目配せした。「すごくたくさん食べてたなぁ。お腹壊さなきゃいいけど。」「でも、美味しそうに食べていたから、あれで良かったんやよ。」「そうやな。もう90を越えているんだし、好きなようにさせてあげよう。」「あんなに酒が好きな人やったんだから、今夜はいっぱい飲めて本当に良かった。」・・・と、そんなことを話した。

◇◇◇

こうして穏やかに歳を越したのだが、年が明けてすぐ、義父の身体に異変が見つかった。

ショートステイを利用した際、その施設のスタッフさんが義父の身体に異常があることに気づいてくださったのだ。本人は全く自覚が無く、病気が進行していることに自分でも全然気づかなかったようだった。

調べてもらった結果、かなり進んだガンだと分かった。でも、高齢だったため、症状はそれほど酷く出ていなくて、本人も全く自覚していないのが幸だった。病院での検査中も「ここはどこや?」と何度も聞いて飄々としていたので、そんな義父の様子に私たちも心が救われた感じだった。

病院での検査結果の説明は、義父がいない所で行われた。

(いろいろ事情があり、この席に嫁の私は参加しなかった。夫と義父に近い人たちで先生の話を聞いた。)

この種のガンは特殊なため、治療はなかなか過酷なものになるとのこと。齢90を越えた高齢の義父には耐えられない厳しい治療になること、それに加えて、義父自身が軽い認知症であることも踏まえ、万が一、症状が悪化しても治療はしないで緩和ケアに入れる・・・とその場で決定した。また、義父への告知も、本人がもともと病気に対して怖がりなところがあり、心が繊細で気に病む性質の人だから、「義父には最初から本当のことは言わない方が良い」と、義父に近い親族で話し合って決め、そういうことになった。

ガンが発見されたすぐは割と元気だった義父だけど、その後、徐々に身体が弱っていき、横になって過ごすことが増えてきた。

◇◇

春。

この日も、私と義父の2人で、いつもの定期診察で病院に行った。

脳梗塞を患って以降、20年近く義父の定期診察をして下さった主治医の先生には、義父のガンのことは前もって伝えてあったので、万が一の時は、この病院の緩和ケアセンターに入院するように話が決まっていた。

ここ最近の義父は、身体がみるみる弱ってきた感じだった。義父の様子を見た先生の指示で血液検査をしてみたところ、かなり数値が悪くなっていた。検査結果を前に、いつも笑顔の先生が「これは・・・」と表情を曇らせる。いよいよ・・・だろうか。緊張が走る。

血液検査のデータから私の方へと視線を移した先生は、覚悟を決めた表情になり、これから義父の入院の手配をすると私に伝えた。私も「とうとう来たんだな・・・」と息をのんだ。

◇◇◇

この入院前のわずかな時間、諸準備で1時間ほどポッカリ時間が空いた。

本当は、この空いた時間、義父を処置室のベッドで寝かせてもらうよう、看護師さんにお願いしていたのだけど、義父はそれを遮り「コーヒーが飲みたい」とぽつりと言った。

座っているのも辛そうなのに「コーヒーが飲みたい」と突然言われて、私は一瞬あっけにとられ躊躇したけど、でも、これが義父の望みなら叶えてあげたいと思った。心配して様子を見に来て下さった看護師さんに、処置室のベッドはお断りして、その代わりに「爺ちゃんの希望で、一緒にコーヒーを飲んできます。時間まで病院内の食堂にいます。」と伝えた。

こうして私は、義父の車椅子を押して一階の院内食堂に行き、ホットコーヒーを2つ注文した。

窓側のカウンター席に座り、外の景色を眺めながら、温かいコーヒーを飲む。

でも、いつものようにリラックスできる雰囲気ではなかった。義父は手が震えて上手くカップが持てず、私がカップを支えて口まで運ばなくてはいけない。美味しいのかどうか分からないけど、でも義父は一生懸命にコーヒーを口に含み、味わいながら喉に流し込んでいた。

そして、時々じっと目を閉じ、ふと瞼を開けてカップを見つめ、手を伸ばしてカップの取っ手を指でつまむ。ゆっくりコーヒーを口に含み、カップを置いてまた目を閉じる・・・。私が話しかけると応えてくれるけど、声を出すことも辛そうに見えた。

そんな義父のそばに寄り添いながら、ふと、

「こうして一緒にコーヒーを飲むのは、これが最後になるかもしれない。

この義父の姿、忘れないよう心にしっかり刻んでおこう。」

・・・という思いが心の中をよぎった。

この瞬間のことを、きっと未来の私は、義父との思い出のエピソードとして何度も何度も繰り返し思い出すことになるだろう・・・と感じた。

絶対に忘れないようにしよう。この瞬間の様子を、私は私の脳にしっかり刻み付けて記憶しておこう・・・と思った。義父が生きていた証を残すために。

家族の中では、私は「嫁」という立場だ。義父とは血の繋がりは全然ない。「義理の親子」という遠い存在である。そんな嫁の私が、舅である義父と入院前の大事な時間に、こうして二人でコーヒーを飲んでいる。ここにいるのが私で本当に良かったのだろうか?「嫁」という立場の微妙さから来る不安が頭をよぎる。でも、私も家族の一員なのだ。・・・そう自分に言い聞かせた。

振り返れば、私は、実の息子である夫も知らない義父の昔話を、今まで一番聞いてきたのだ。もしかしたら、義父にとったら嫁舅という浅い関係だったから、逆に気安く自分の身の上が語れたのかもしれない。実の息子や妻より、新参者の私の方が話しやすかったのかもしれない・・・。

縁とは本当に不思議なものだ。義父とはいろいろあったけど、でも、今、義父が一番信頼を寄せてくれているのは、嫁である私なんだ…と伝わってくる。

義父との出会いから今日までを思い出しながら、ふと、私の横で一生懸命にコーヒーを飲んでいる義父の姿を見ていたら、目に涙が滲んできた。義父の前で泣いてはいけない・・・と、涙がこぼれそうになるのを必死で堪えた。

切なく愛しい気持ちが胸から溢れた。


◇◇◇


この二人で飲んだコーヒーの直後、義父は緩和ケアセンターに入院し、そのまま1ヶ月ほど経った5月に静かに亡くなった。

葬儀の日は五月晴れで、清々しくて爽やかな日だった。

◇◇◇

あれから4年が経ち、その間に三回忌とお骨納めも無事に終えて、義父が居ない生活にもすっかり慣れてきた。

しかし、家でお酒を飲んでいると、ふらりと義父が私たちの元に舞い降りて来ているような気がする。

「まぁEmikoさん、飲みなさい。アンタは飲めるんやで。」

・・・と言いながら、私の横で一緒に飲んでいるような、そんな不思議な気分。

こんな時、宅飲みで一緒に飲んでいる夫も、「爺ちゃんがここに来ている様な気がする。俺たちと一緒に酒を飲みながら、『まぁEmikoさん飲みなさい!酒はたんと(たくさん)あるんやで、腹一杯飲みなさい!』って言っているんじゃないの。」と義父の口癖を真似して私に言い、アハハと笑っている。

ホントそう。お酒を飲むとき、いつも義父を身近に感じている。

今日も一杯飲みながら、義父のしゃがれた声と、飄々としたあの笑顔を思い出す。

将来、私が死んだら、お浄土で義父とまた一緒に飲めるだろうか。その時は、お互いに健康や病気のことなんて気にせず、好きなお酒をたらふく飲めそうだわ。今思えば、義父は健康長寿だった。お酒と上手に付き合い楽しんできたのだ。病気が縁で亡くなったけど、90歳を越えていたのに寝たきりになることなく生活できていたのだから、あれは大往生だったと思う。義父にとってのお酒は、まさに「百薬の長」だったなぁ。

今頃、義父はあちらの世界で、何を飲んでいるのだろう?

コーヒー?それともお酒?

きっと義父のことだから、うまい酒を早速見つけて、チビチビと飲んでいるのだろうな。

私がそちらの世界にいったら、爺ちゃんオススメのお酒で乾杯しよう。

お互いに娑婆を頑張って生き抜いた同士として。

かつての飲み友達として。




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