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【写真日記】雪が降る前に福井へ➂・幻の聖地、白山平泉寺をゆく

道の駅「越前おおの荒島の郷」を出発した私たちは、そのまま道なりに進み、勝山市へと向かいました。

沿道の風景。田んぼが広がっていました。

さっきまでの山道とは打って変わって、この辺りの土地は広大ですね。
ずっと奥の山裾まで、田んぼが広がっていました。勝山盆地というそうです。


~前回のお話~


恐竜の町・勝山市へ

国道を走っていると、すぐに勝山市内に入りました。
赤信号で車を停めると、道路の左脇に恐竜がいました。先ほど休憩で立ち寄った「道の駅・九頭竜」にも恐竜がいましたが、九頭竜川に沿って続くこの道(国道158号線)は、別名「恐竜街道」というそうです。

これは何という恐竜なんでしょう?

実はここ勝山市も、恐竜で有名な町なんですよ。

昔、まだ、私の子供が小さかった頃、実家の両親や親戚と一緒に、勝山市内にある恐竜博物館に行ったことがあります。

そこで、ふと「恐竜博物館に行こうかな?」と思いつき、カーナビに「恐竜博物館」を入力してルートを検索。
とりあえず現地に行ってみることにしました。

※(あとで調べて知ったのですが)現在は感染症対策のため、見学は完全予約制だそうです。予約していないと入館できないのでご注意ください。

https://www.dinosaur.pref.fukui.jp/topics/archives/47

恐竜博物館に行くつもりだったのに…進路変更


こうして恐竜博物館に向かって出発したのですが…。

走行中、沿道の「平泉寺白山神社」の看板標識がふと目に留まりました。
白山神社と言えば、私たちは2ケ月前に、石川県の白山白山比咩神社を参拝してます。

この時、石川県だけでなく岐阜県と福井県にも、白山を真ん中に置く形で「白山神社」があることを知りました。

歴史を紐解くと、白山は717年(養老元年)に 泰澄たいちょう上人によって開山されました。
その後、832年(天長9年)に越前・美濃・加賀の三方から白山に登る登拝道(禅定道)が開かれ、以降、白山は白山修験の霊山として栄えていったのです。また、登拝口には道場が作られ、白山信仰が全国に広がるきっかけにもなりました。

JR西日本「BlueSignal」記事より引用


その三つの登山道と聖地が、以下のものです。

ただし、今は神社になっていますが、どれも、もともとはお寺でした。白山権現を祀る「神仏習合」の聖地だったのです。

明治政府よる神仏分離廃仏毀釈によって、修験道に基づく白山権現は廃社となった。三馬場のうち、白山寺白山本宮は廃寺となり、白山比咩神社に強制的に改組された。霊応山平泉寺も同様に廃寺となり平泉寺白山神社に強制的に改組された。白山中宮長滝寺は廃寺は免れたものの、長滝白山神社と天台宗の長瀧寺に強制的に分離された。

Wikipedia「白山信仰」歴史/神仏分離・廃仏毀釈より

こうした歴史を知り、私たちは「いつか岐阜県と福井県の白山神社にも参拝してみたい…」と思っていたのです。

そんな越前の白山神社が、まさかここ「勝山市」にあったとは…。

しかも、偶然目にした看板に、その名があったので、もうビックリでした。

この看板を見た時、「平泉白山神社だって…」と私がつぶやくと、夫も「えっ?ホント?」とビックリした様子。
結果、「そっちに行ってみるか!」という話になり、即決で進路を変更しました。
こうして導かれるようにして、私たちは「平泉寺白山神社」がある方向へとハンドルを切ったのでした。

いざ!平泉寺白山神社へ


国道157号線から右折して入った先は、山の方へと続く一車線の道路でした。
この急展開にカーナビが追いつかず、私のスマホで進路を検索。

とりあえず直進します。

集落を通り、山の方へと続く道路をまっすぐ走っていきました。

この辺りは、紅葉は終わり、あとは雪の季節を待つのみ…といった風情でした。どこか懐かしい里山の風景を楽しみながら、私たちは坂道を登っていきました。

平泉寺白山神社へ。正式名は「白山平泉寺」?


無事に目的に到着した私たち。駐車場に車を停めました。
鳥居の方に向かって歩きます。
古い歴史を感じさせる神社です。

この看板地図を見ると、かなり広い境内なのですね。

…と、ここで看板の名称が「白山平泉寺」になっているのを発見。
道路の案内標識は「平泉寺白山神社」だったと思うのですが、ここでは「白山平泉寺」になっています。

実は、この場所は、神社庁では「白山神社」になっていますが、

正式サイトは「白山平泉寺」なんですよね。

これは、神社でもお寺でもどっちでも良い…ってことなのかな?
ちなみに、ここは、もともとは霊応山平泉寺へいせんじというお寺で、天台宗の有力な寺院でした。

(白山平泉寺は)平安時代後期には天台宗比叡山延暦寺の末寺となって発展し、最盛期の戦国時代には、48社、36堂、6,000の坊院が建ち並び、寺領は9万石・9万貫、8,000人もの僧兵がいたと伝えられ、当時の日本では最大規模の宗教勢力であったようです。
しかし、天正2年(1574年)当時、織田信長方に仕えていた白山平泉寺は、大阪の本願寺方の一向一揆勢に攻められ、全山が焼失しました。
10年後に一部再興されましたが、境内はもとの10分の1程度にすぎず、多くの坊院跡は山林や田畑の下に埋もれました。
(中略)
現在は、明治の神仏分離令により寺号を廃止し白山神社となり、本殿と拝殿に続く精進坂を中心とした境内は一面に緑のじゅうたんが敷かれたように美しい苔で覆われていおり、「苔宮」とも呼ばれています。

福井ドットコム「国史跡白山平泉寺旧境内」より抜粋

最盛期の戦国時代には、この平泉寺は、東西約1.2キロメートル、南北約1.0キロメートルの範囲に広がっていたと推定されていて、当時の日本では最大規模の宗教都市だったようです。かなり絶大な力を持ち、非常に繁栄していたのです。

この雪深い越前の地に、巨大な宗教都市があったとは…!
初めて知る歴史に、私は驚いてしまいました。

でも、明治時代の神仏分離で、無理やり寺院から神社に変更された…ようです。こうして今に至っているという訳なのですね。

(本記事では、ここから先は「白山平泉寺」と表記していきます)

境内を歩く

ここから聖地に入ります。
今まで訪れた聖地と異なり、ヘビーな雰囲気です。

奥に見えるのは一の鳥居。

鳥居をくぐると、更に奥へと参道が続いています。ここから、もう緑色の苔が参道脇に広がっていました。


御手洗池と御神木


参道を歩いていると、左手に池が見えてきました。御手洗池みたらしのいけというそうです。
池の方に行ってみましょう。

池の前には鳥居が建てられていました。
古い歴史を持つ池のようです。今も枯れることなく水が湧き出ているのだとか。

白山を開山した泰澄たいちょう大師が、池の中にある岩に向かってお参りしていたところ、一人の女神が現れ「神明遊止の地なり」とのお告げがあったことから、泰澄大師は、この地に社を建てて白山の神をお祀りしたそうです。
こうして、この場所は「神仏習合」の聖地となりました。
そして、この池は昔は「平清水」と呼ばれいたため、それが「平泉寺」の名前の由来になったそうです。
ふむふむ、なるほど。勉強になります。

神秘的な池のたたずまい。

この池の前には、泰澄大師が植えられたという御神木が立っていました。

この御手洗池と御神木があるエリア、かなりディープなスポットでした


二の鳥居と苔の世界

参道に戻って、また歩き始めます。すると、二の鳥居が見えてきました。

二の鳥居をくぐります。

この鳥居の先は、若緑色の苔が一面に広がっていました。
これが、あの司馬遼太郎が「街道をゆく」で絶賛したという苔なのですね。
確かに、とても美しく見事な風景です。

奥に見えるのは拝殿です。

積まれた石にも、苔がむしています。


どんな情景か体験していただくために、苔が広がる境内の様子を動画に撮ってみました。(1分20秒)

横道を進み、坂を登り切ったところで、苔の境内が目の前に広がる…という動画です。良かったら覗いてみてください。



拝殿の裏にある本社もお参りしました。社を覆う白い幕は「雪囲い」でしょうか。

冬の準備は万端のようです。


三宮と白山禅定道口


本社から更に上へと進みます。一番奥にある三宮に向かいました。
石と土の道をひたすら登ります。スニーカーで行って正解でした。

杉の木に囲まれた参道の奥に見えるのが三宮です。


長い上り坂の参道を歩き続け、無事、三宮に到着しました。

三宮には、安産の神様が祀られているそうです。

この祠までの途中、お礼参りと思われるご家族(小さなお子さんを連れたご夫婦)と幾度かすれ違いました。

この三宮の建物の横には、越前側の白山禅定道の入口がありました。
泰澄大師が開いたと言われる、越前側の白山禅定道です。

この道は、平成8年11月に「歴史の道100選」に選定されたそうです。

クマ除けのフェンスらしき柵が、周囲をぐるりと囲っていました。

首を斬られた仏様・廃仏毀釈の爪痕


しかし、この白山平泉寺。境内をぐるりと歩いてみて感じたのですが、全体的に、どこかもの淋しい雰囲気なんですよね。
紅葉もとうに終わってしまった初冬だからでしょうか?

夫とも「どこか淋しいよね。今まで尋ねた神社仏閣とは、何か違うものを感じるよね」と話しました。

どうしてこんなに悲しくて淋しい雰囲気なんでしょう。

不思議だよなぁ…。


…と、そう言いながら歩いていたら、途中の脇道でこんな仏様を見つけました。

首を斬られた仏像です。

納経堂へと続く道の脇に、たくさんの仏様が無残にも転がっていました。

奥にあるのが納経堂。祠自体、なんだか荒れた感じです。

割られた仏様。

お顔を削られた仏様もいらっしゃいます。

これは廃仏毀釈はいぶつきしゃくあとだとピンときました。

明治政府の「神仏分離令」により、当時、日本各地で沸き起こった「廃仏毀釈」運動。10年も満たない短期間の間でしたが、それでも多くの仏様や寺院が被害を受けました。
ここ、白山の聖地でも「神仏習合」から「神仏分離」へ…。無理やり神と仏が切り離されて、違う形にさせられていったのです。

その時、傷つけられ捨てられた仏様が、ここに集められていました。
明治の時から、ずっとこの状態で放置されているのでしょうか。
だとしたら、本当に悲しく胸が痛みます。

だから、どこか物悲しくて淋しい雰囲気を感じたのですね…。

夫と二人並び、傷つけられた仏様に手を合わせ、お参りしました。
もしかしたら、私たちは、この仏様に呼ばれたのかもしれないな…と思いました。


泰澄大師を祀る社

ちょっとピンボケしていますが、開祖・泰澄さまの祠です。

最後に、泰澄大師をお祀りする社をお参りしました。
白山の聖地に呼んでいただいたことに感謝し、御礼を申し上げました。

この時は、雪が降る直前の12月。新緑や紅葉の季節なら、今よりうんと美しい風景が楽しめたかもしれません。


九頭竜川と白山権現

こうして私たちは、白山平泉寺を後にしました。
もと来た道をまた戻り、勝山市から大野市へと走ります。

途中、九頭竜ダムの発電所を見てきました。

巨大なロックフィルダム。

九頭竜ダムの長野発電所。とてもおおきな施設です。
このロックフィルの向こう側にある巨大な湖の下に、この流域にかつてあった集落がたくさん沈んでいます。

そういえば、泰澄大師は「九頭竜」とご縁がありました。

泰澄が、白山山頂にて厳しい修行をしていた時、十一面観音の化身である九頭龍がお出ましになり、そこで悟りを得たのだそうです。

その後、(泰澄が開いた)白山平泉寺の白山権現が人々の前に姿を現し、自身の像(尊像)を川に浮かべると九つの頭を持った龍が現れ、尊像をいただくようにして川を流れ下ったため、この川を九頭竜川と呼ぶようになったのだそうです。

九頭竜の神様がいらっしゃる川。
白山の神様ともつながりがある龍神様の川。

たくさんの伝説が残るこの地も、電力供給の名目のもと、深い水の中に封印されていったのです。

そんな九頭竜川沿いの道を下っていき、私たちは(偶然にも)白山平泉寺に導かれていきました。

とても不思議な旅でした。

おわり


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