【神護寺】 空海と安倍晴明も?!高雄山の神仏習合パワー 《修験の祈祷遺跡‥修験道メッカ愛宕山‥八幡神》
神護寺の歴史や文化財を知る中で、今まで知らなかった神と仏がミックスされた話がたくさん出てくる。こんなに神と仏の線引きがなかったの?!と驚いている。あまり気にとめず”ぼんやり曖昧”にしてきた神仏習合的キーワードを整理したくなった
⚫︎八幡、八幡神、八幡大菩薩 神なの仏なの?
⚫︎山岳信仰、権現、修験道、
⚫︎山岳仏教(真言宗/天台宗)
⚫︎仏教、神道、陰陽道、修験道の関係性
⚫︎空海の真言密教がそもそも神仏習合?!
⚫︎陰陽道はイメージ的には神道だけれど実際は?
⚫︎本地垂迹
このあたりに関わる情報の整理と、「陰陽師や修験道と神護寺との関わり」について興味深いレアエピソードを神護寺ご住職(貫主)谷内弘照さんの講演で聞いてきたのでまとめ
パワーの源 高雄山に建つ神護寺 位置が重要
【北西】愛宕山(標高924m)▶︎戌亥の方角
神護寺 かわらけ投げ発祥の地
※高雄山は愛宕山系
【北東】比叡山(標高848m)▶︎鬼門の方角
延暦寺 おみくじ発祥の地
【南】 東寺と西寺(西寺は現存せず)
ー1000年の都 京都 磐石な布陣ー
愛宕山は比叡山と並び霊山として古くから信仰対象の山とされ、全国的には比叡山に比べると知名度が無いものの、京都の方にとっては一生に一度は登る山だという。
神護寺の前身の高雄山寺は、その信仰対象の山であり、山岳修行の場であった場所に建てられたお寺
そもそも…神仏習合のキーワードの意味
Wikipediaによると…
明治の廃仏毀釈まで存在した愛宕権現
Wikipediaによると
愛宕山に建てられた五つの寺(愛宕五坊)のうちの一つだった神護寺
◎この時からすでに神仏習合
天応元年(781年)光仁天皇の勅(依頼)によって、和気清麻呂と慶後僧都によって、唐の五台山に倣って五つの寺《愛宕五坊》が建てられる
⚫︎愛宕権現白雲寺
※中世は隆盛をきわめ6宿坊もあり、
真言宗・天台宗 両義の坊も(まさかの共存)
※将軍地蔵が本尊 軍神として武士から信仰される
※神仏分離で白雲寺は廃絶、愛宕神社となった
⚫︎月輪寺
⚫︎神護寺(高雄山寺)
⚫︎日輪寺 ※廃仏毀釈で現在は無い
⚫︎伝法寺 ※廃仏毀釈で現在は無い
慶応4年(1868年)神仏分離令・廃仏毀釈で修験道による愛宕権現は廃止され、現在残っているのは月輪寺と神護寺
愛宕権現白雲寺の惣門は残っている↓
愛宕山登ってみたい
神護寺にまつわる神仏習合的エピソード
【奈良時代後期】769年
①神護寺の前身寺院の創建者「和気清麻呂公」が八幡神のお告げを受けて天皇乗っ取りを阻止
《宇佐八幡宮神託事件》
称徳天皇(女帝)に仕え政治に介入していた道鏡は天皇の皇位を狙っていた。そんな中で、称徳天皇に対して「宇佐八幡から道鏡が皇位につくようにというお告げ(神託)があった」という報告するものがいたため、天皇は和気清麻呂公に「本当なのか確かめてくるように」と依頼。和気清麻呂公は宇佐八幡(大分県)まで行き、八幡神に本当なのかを確認したところ「天皇になれるのは皇族だけ」というお告げ(神託)を受け、道鏡による日本史上唯一の天皇乗っ取り計画が阻止された
②八幡神が「お寺作るように」と依頼 神護寺ルーツ
神護寺の前身のお寺の一つ神願寺は八幡神から「寺院を作るように」とお告げを聞いた和気清麻呂公が建立
宝亀11年(780年)光仁天皇に神願寺建立を願う
天応元年(781年)桓武天皇に神願寺建立を許される
③神護寺ご本尊「神仏習合的」特殊なお顔
和気清麻呂公が建立した神願寺もしくは高雄山寺から伝わったとされ、空海も祈っていた神護寺ご本尊(国宝)薬師如来立像について
【静嘉堂文庫美術館の館長ブログ】
東京国立博物館「神護寺」(1 2 3 4 5 6 7 )
の記事にて神仏習合を背景とした仏像であることを詳しく語られていて興味深かったので内容要約
《歴史的背景》
⚫︎古くから高雄は山岳信仰の盛んな霊地で、その地に建立された高雄山寺の本尊であったという説も魅力的(神願寺本尊説が定説のようだけれど)
⚫︎清麻呂が信仰し帰依していた宇佐八幡と密接に結びついていたことは明らか
⚫︎仏教と宇佐八幡は早くから不即不離の関係に結ばれていた
⚫︎神護寺薬師の場合、創建の経緯からみて宇佐八幡神との関係は濃厚
《最初に神護寺薬師を拝んだときの第一印象》
第一印象が異常発酵した結果生まれた独断と偏見による見解とのこと笑
⚫︎森厳なるお顔が神像彫刻を思わせる
⚫︎薬師如来(仏)のうちに宇佐八幡(神)が宿っているといった感じ
⚫︎直感的に慈愛に満ちた仏様よりも、畏怖すべき神様のように感じられた。一言でいえば神々しかった
⚫︎畏怖すべき尊顔を、武神・軍神・弓矢神として尊崇された八幡神と結び付けたい誘惑にも駆られる
↓神護寺の(国宝)薬師如来立像はどういった仏像か
【平安時代初期】
④空海 入唐前と帰国後に宇佐八幡にお参り
大分の宇佐八幡に入唐前に航海の無事を祈り、帰ってからはお礼参りをしたと伝わるという
(空海と密教 解剖図鑑 P77より)
⑤空海の真言密教は神仏習合だった
◼️八幡(神)と密教(仏)に共通するミッション
⚫︎八幡神
八幡神は宇佐の神であるが聖武天皇の東大寺建立から、
日本国土と天皇の守護神と考えられるように
⚫︎密教
空海が唐から持ち帰った密教の重要ミッションは「鎮護国家」仏教で国土を守り皇室(天皇)の安泰や国民の平和・興隆を祈る
↓ 自然な流れで融合
⚫︎神仏習合の寺 高雄山寺(後の神護寺)
唐から帰ってきた空海が、八幡神のお告げで建立されたというルーツを待ち、山岳信仰の盛んな霊地に建つ高雄山寺の住職となる
⚫︎八幡神の力を新しい方法(密教)で運用
空海は各地に寺院を建立・改修していき、その境内には必ず八幡神が祀られている
(空海と密教 解剖図鑑 P84より)
◼️八幡神と空海さん似顔絵描き合う仲良し
八幡神と空海さんがお互いの似顔絵を描きあったという伝説があり、「八幡神像」「弘法大師像」をワンセットとして互御影と呼んで伝わる。平安時代初期に空海が描いたとされる八幡神の肖像は、一時神護寺から離れ鳥羽離宮の宝蔵にあったものを後宇多天皇が鎌倉時代後期に神護寺に戻し、その時の書状(後宇多上皇施入状)も残っている。その時点で空海筆の絵は残っていたが現在はせず。鎌倉時代に描かれた神護寺所蔵のものが最古
空海が描いた八幡神像は、神護寺から離れていた時期に石清水八幡宮と東大寺と神護寺でどこが所有するかの競合が起こったという
↓以下はイメージとして浄光明寺所蔵の互御影
左)僧のお姿をした八幡神 右)弘法大師
元は弘法大師像は八幡神が描いたものがあり、八幡神像は空海が描いたものが鎌倉時代には存在していたとされ、天皇や文覚上人の文書上にしっかり残っている。神話の時代のような話しだけれど現実?!という不思議なエピソード
神護寺展ではこのエピソードに関連する展示がけっこうな量出ていた。これ以外にもあったかもしれない
⚫︎弘法大師像(互御影)後期展示 展示室A
神護寺所蔵 鎌倉時代 ※前期は南北朝時代のもの
⚫︎僧形八幡神像(互御影)後期展示 展示室c
神護寺所蔵 鎌倉時代 ※前期は南北朝時代のもの
元の空海筆の八幡神像を元に書いたと思われるもの
⚫︎弘法大師行状絵 巻第六 前期展示(互御影のシーン)
東寺所蔵 重要文化財 南北朝時代
空海さんと八幡神が似顔絵描きあってるところ
⚫︎文覚上人書状案 前期展示
神護寺所蔵 重要文化財 鎌倉時代
空海筆の八幡神像の行方を憂い、訴えている書状
⚫︎後宇多上皇施入状 後期展示
神護寺所蔵 重要文化財 鎌倉時代
神護寺が元々所有していた空海筆の八幡神像を
神護寺に戻しますby後宇多上皇
【平安時代中期】960年
⑥安倍晴明が火事で焼失した天皇家に伝わる霊剣修復のため神護寺で祭祀を行う
神護寺に安倍晴明?!そこに繋がるとはイメージ無かったので驚いたエピソード
天徳4年に内裏で火災が起こり百済から伝わった天皇家と国家にとって大事な霊剣が焼失。翌年に安倍晴明(40歳頃)が再鋳造した霊剣に霊力を宿す儀式「五帝祭」を神護寺で行った。この時、安倍晴明は天文得業生で陰陽師になるための学生の身分。儀式を執行するメインではなかったが、この功績が認められてその翌年に陰陽師に
謎解き!伝説のミステリー 平安時代に隠された7つの謎がわかる 神社仏閣2時間SP 2024年7月27日放送
安倍晴明が参加した五帝祭を昔の記録をもとに神護寺で実際に再現していてかなり興味深かった
ちなみに平安時代の占星術は2種類あり、
陰陽師と宿曜師が活躍
◼️日本古来の占星術 陰陽道 陰陽師 安倍晴明
◼️インド天文学・占星術 九曜 宿曜師
九曜の漢訳版が宿曜。空海が唐から日本にもたらした
安倍晴明も宿曜を扱っていた可能性もあるらしい
このあたりも含めて、国の安定のためには垣根なく「取り入れられるものは柔軟に取り入れていた」のだなぁと
【高雄山と陰陽師と修験道の関わりについて】
奈良国立博物館の「空海展」協賛企画 「神護寺の歴史と文化財」講演 @種智院大学の質疑応答の時間で、陰陽師と修験道の関わりについて調べている方から、
⚫︎神護寺の後ろには修験道のメッカの愛宕山
⚫︎その霊験あらたかなエリアに建っていたのが神護寺
⚫︎陰陽師の安倍晴明が神護寺へと大事な霊剣を修復するために来ていたと歴史的に記録が残っている
それらをふまえて神護寺と陰陽師と修験道の関わりについて情報があれば教えて欲しいとの質問があった
▼神護寺ご住職(貫主)谷内弘照さんからの回答
⚫︎愛宕山が信仰の地になった経緯
愛宕権現は鷹ヶ峰から移され、奈良時代に泰澄(682-767)という人が修験道の大家としていて、その人が開いて信仰の地とした
⚫︎愛宕山系の高雄山 重要な位置
延暦寺のある比叡山が鬼門だと言われていて高雄山があるところは戌亥の方向にあるので、中国で言うところの天門にあたる。天門とは願いを叶える時に一番近いところ。曼荼羅の話などで出てくるような話としては、龍が出てくる。地中をずっと辿って伏見に辿り着く、そこが地門(?)。そしてずっともどってきて上がって行く時に願いを告げると龍が天に持っていってくれる。そういう意味合いがあって修験道場としてはひじょうに相応しかった
⚫︎修験の祭事跡が発掘される
発掘作業の当事者に直接お話は聞けなかったけれど、安倍晴明かどうかは分からないが、色んな人が祭事をした古い史跡が梅ヶ畑に見つかった。修験の方が誰か来て祈祷を行なった跡で、その場所は「弘法大師が祈祷を行なった跡もあるのか」という点については弘法大師の場合は高雄山で祈祷をやっていたのかもしれないので、そこではない別の場所かもしれない
平安時代以前の跡があるということで、修験を研究されている方がいて、この辺が史跡だと発掘された。梅ヶ畑の焼却炉の近くに祭事跡の史跡があって祭事に使う甕や銀貨?などが発掘された。残念なことに発掘した後にすぐに埋めることになったようで、あまり調べずに元に戻されたことを研究者が怒っていたというのは聞いている。なので、そういった修験道の祈祷のようなことを高雄の方でやっていたのは間違いない
このサイトの「奈良・平安時代の山岳祭祀遺跡としての梅ヶ畑」の箇所のことと思われる↓
鎌倉殿の13人の「八幡大菩薩」すっきり
ぼやかしていたことが分かった
大河ドラマで何度か出てきた「源氏の氏神 八幡神」
戦の際には「八幡大菩薩」と書かれた旗が何度も出てきてセリフにも登場。八幡+菩薩…名前から八幡神宮の何かだろうけど、よくよく考えると神?菩薩だから仏?どういう状態?→奈良時代に起こった神仏習合によって八幡神に対してつけられた菩薩の称号ということだった。なるほど〜
(脱線)映画ゴジラマイナスワンに巡洋艦「高雄」
太平洋戦争で使われていた「高雄」と「愛宕」という巡洋艦が存在していた。やはり高雄山と愛宕山パワーにあやかろうということだったのだろうなと。映画を見ていて「高雄」が出てきて「あの高雄?!」と反応してしまった。
(脱線)京都人 愛宕山の方面発生の豪雨を「丹波太郎」と人名呼び…が好きすぎる件
愛宕山を調べていたら今まで全く知らなかった「豪雨を発生源別に人の名前のように呼ぶ」という京都の文化を知った。発生場所によって5人もいる(五兄弟)!笑
神仏習合…本地垂迹が分かり興味が派生
本地垂迹という言葉を初めて見たのは藤原定家の日記「明月記」を調べていた時だった。書籍の中に本地垂迹に関連しての記述が書かれ、前提知識が無さすぎて意味がわからず飛ばし読みしていた。神仏習合について少し理解が深まったので読み返してみたら…内容入ってくる〜。《藤原定家は本地垂迹説からの独立のために古今伝授を秘伝化・神事としようとしたのではないか…… 》これはまた別途深掘りしてみたくなってきた
仏教について調べ始めてから、今まで触れる機会の無かった単語を知った。他にもありそう
修法/勧請/本地垂迹/神託/霊剣/天門/互御影/宿曜/〇〇法親王
◼️神護寺に実際に行ってきました
神護寺の山登りの難易度の実態
◼️神護寺とはどんなお寺かをまとめたもの
◼️神護寺展 展示物 前期と後期の違い
◼️神護寺展の前期展示で特に良かったものまとめ
◼️空海における神仏習合思想https://teapot.lib.ocha.ac.jp/record/7527/files/23_112-116.pdf
◼️密教の仏と山における日本の神
https://www.jacp.org/wp-content/uploads/2016/04/2007_34_hikaku_15_kumamoto.pdf
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?