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【神護寺】 空海と安倍晴明も?!高雄山の神仏習合パワー 《修験の祈祷遺跡‥修験道メッカ愛宕山‥八幡神》


神護寺の歴史や文化財を知る中で、今まで知らなかった神と仏がミックスされた話がたくさん出てくる。こんなに神と仏の線引きがなかったの?!と驚いている。あまり気にとめず”ぼんやり曖昧”にしてきた神仏習合的キーワードを整理したくなった
 ⚫︎八幡、八幡神、八幡大菩薩 神なの仏なの?
 ⚫︎山岳信仰、権現、修験道、
 ⚫︎山岳仏教(真言宗/天台宗)
 ⚫︎仏教、神道、陰陽道、修験道の関係性
 ⚫︎空海の真言密教がそもそも神仏習合?!
 ⚫︎陰陽道はイメージ的には神道だけれど実際は?
 ⚫︎本地垂迹ほんじすいじゃく


このあたりに関わる情報の整理と、「陰陽師や修験道と神護寺との関わり」について興味深いレアエピソードを神護寺ご住職(貫主)谷内弘照さんの講演で聞いてきたのでまとめ

東京国立博物館
創建1200年記念 
特別展神護寺 ―空海と真言密教のはじまり―
2024年7月17日(水)~2024年9月8日(日)



パワーの源 高雄山に建つ神護寺 位置が重要

上が北

【北西】愛宕山(標高924m)▶︎戌亥の方角    
 神護寺 かわらけ投げ発祥の地     
  ※高雄山は愛宕山系
【北東】比叡山(標高848m)▶︎鬼門の方角    
 延暦寺 おみくじ発祥の地
【南】 東寺と西寺(西寺は現存せず)  

ー1000年の都 京都 磐石な布陣ー
愛宕山は比叡山と並び霊山として古くから信仰対象の山とされ、全国的には比叡山に比べると知名度が無いものの、京都の方にとっては一生に一度は登る山だという。
神護寺の前身の高雄山寺は、その信仰対象の山であり、山岳修行の場であった場所に建てられたお寺


そもそも…神仏習合のキーワードの意味

Wikipediaによると…

修験道とは
古代日本において山岳信仰に仏教(密教)や道教九字切り)等の要素が混ざりながら成立した、日本独自の宗教・信仰形態。山へ籠もって厳しい修行を行うことで悟りを得ることを目的とする。仏教(密教)の一派として扱われて修験宗と表現されることもある

神仏習合とは
神と仏とを調和させ同一視する思想で,神道と仏教の同化を示すもの。 奈良時代に起源をもち,神宮寺の建立が行われ神のための納経があった。 平安初期には神前読経や神に菩薩号をつけるようになった(八幡大菩薩など)

本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは 
仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、神道の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。仏本神迹説と呼ばれる場合もある。 -要するに神の皮を被った仏ということか-



明治の廃仏毀釈まで存在した愛宕権現

Wikipediaによると

愛宕権現とは
愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神号で、イザナミを垂迹神として地蔵菩薩を本地仏とする。※地蔵菩薩(仏)がイザナミ(神)を仮の姿とし現れたものということ

愛宕権現の始まり
飛鳥時代にあたる大宝年間、修験道の役小角えんの おづぬ/別名 役行者えんのぎょうじゃ泰澄たいちょうが山城国愛宕山に登った時に天狗(愛宕山太郎坊)の神験に遭って朝日峰に神廟を設立したのが、霊山愛宕山の開基と伝わる 

(脱線)役小角は奈良•吉野の金峯山の開祖でもある
役小角/役行者が関係するのは京都•愛宕山の愛宕権現だけではなかった。奈良•吉野の標高1719メートル大峯山系の山上ヶ岳にある金峯山の修験道は今から1350年程前の白鳳時代に役小角が金剛蔵王権現を感得(悟りを得ること)したことが始まりであるという。 大河ドラマ「光る君へ」35回で藤原道長が金峯山に御嶽詣みたけもうでに行っていたほど貴族や民衆から崇敬を受け栄えていた。↓平安時代中期の御嶽詣のとても詳しい解説


愛宕山に建てられた五つの寺(愛宕五坊)あたごごぼうのうちの一つだった神護寺

◎この時からすでに神仏習合
天応元年(781年)光仁天皇の勅(依頼)によって、和気清麻呂と慶後僧都によって、唐の五台山に倣って五つの寺《愛宕五坊》が建てられる
⚫︎愛宕権現白雲寺 
 ※中世は隆盛をきわめ6宿坊もあり、
  真言宗・天台宗 両義の坊も(まさかの共存)
 ※将軍地蔵が本尊 軍神として武士から信仰される
 ※神仏分離で白雲寺は廃絶、愛宕神社となった
⚫︎月輪寺 
⚫︎神護寺(高雄山寺)
⚫︎日輪寺    ※廃仏毀釈で現在は無い
⚫︎伝法寺    ※廃仏毀釈で現在は無い 

慶応4年(1868年)神仏分離令・廃仏毀釈で修験道による愛宕権現は廃止され、現在残っているのは月輪寺神護寺

山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の愛宕権現も含まれる愛宕五坊の一つ神護寺…神仏習合に至るのは自然
愛宕権現白雲寺は神も仏も宗派(真言宗と天台宗)もミックス。ハイブリッド過ぎる

飛鳥時代からの古い歴史があるにもかかわらず明治維新の廃仏毀釈で愛宕権現は廃絶されてしまい、武士から信仰された愛宕権現白雲寺の将軍地蔵は海外に流出して現在フランスのギメ東洋美術館にある模様…  
廃仏毀釈なんという政策だったんだ、もったいない…

↓明智光秀も信仰していた愛宕山。将軍地蔵のことや愛宕山の神仏習合のことについて分かりやすい記事

愛宕権現白雲寺の惣門は残っている↓
愛宕山登ってみたい



神護寺にまつわる神仏習合的エピソード

【奈良時代後期】769年

①神護寺の前身寺院の創建者「和気清麻呂公わけのきよまろこう」が八幡神のお告げを受けて天皇乗っ取りを阻止

《宇佐八幡宮神託しんたく事件》

和気清麻呂公は神護景雲じんごけいうん三年、怪僧号弓削道鏡が皇位を奪おうとしたとき、宇佐八幡宮の神託によってその野望を挫かれた

↑検索して出てきた文章
前提知識が無いと何のことかさっぱり分からない

↓さらに調べて内容を分かりやすくしたもの
この事件についてはなぜなのかだいたいの説明が分かりにくい〜


称徳天皇しょうとくてんのう(女帝)に仕え政治に介入していた道鏡どうきょうは天皇の皇位を狙っていた。そんな中で、称徳天皇に対して「宇佐八幡から道鏡が皇位につくようにというお告げ(神託)があった」という報告するものがいたため、天皇は和気清麻呂公に「本当なのか確かめてくるように」と依頼。和気清麻呂公は宇佐八幡(大分県)まで行き、八幡神に本当なのかを確認したところ「天皇になれるのは皇族だけ」というお告げ(神託)を受け、道鏡による日本史上唯一の天皇乗っ取り計画が阻止された

明治時代に明治天皇の意向で神護寺の境内から京都御所の横に移された和気清麻呂公を祀る護王神社に掲示されていたもの

和気清麻呂公の物語
宇佐八幡神からお告げを受ける場面



②八幡神が「お寺作るように」と依頼 神護寺ルーツ

神護寺の前身のお寺の一つ神願寺は八幡神から「寺院を作るように」とお告げを聞いた和気清麻呂公が建立 
宝亀11年(780年)光仁天皇に神願寺建立を願う
天応元年(781年)桓武天皇に神願寺建立を許される

神様からの依頼が発端のお寺 
神に願う寺と書いて神願寺

→お寺の始まりの始まりルーツががっつり神仏習合
神様が神社ではなく「お寺を作って」と依頼することがあることを初めて知る



③神護寺ご本尊「神仏習合的」特殊なお顔

和気清麻呂公が建立した神願寺もしくは高雄山寺から伝わったとされ、空海も祈っていた神護寺ご本尊(国宝)薬師如来立像について
【静嘉堂文庫美術館の館長ブログ】
東京国立博物館「神護寺」(1  2  3  4  5  6  7 )
の記事にて神仏習合を背景とした仏像であることを詳しく語られていて興味深かったので内容要約

《歴史的背景》
⚫︎古くから高雄は山岳信仰の盛んな霊地で、その地に建立された高雄山寺の本尊であったという説も魅力的(神願寺本尊説が定説のようだけれど)
⚫︎清麻呂が信仰し帰依していた宇佐八幡と密接に結びついていたことは明らか
⚫︎仏教と宇佐八幡は早くから不即不離の関係に結ばれていた
⚫︎神護寺薬師の場合、創建の経緯からみて宇佐八幡神との関係は濃厚

※ちなみに、あの東大寺毘盧遮那仏(奈良大仏)も神のお告げで作られた仏像で、大仏建立を発願した聖武天皇は、はるばる大分の宇佐八幡へ祈願の勅使を派遣して八幡神から「大仏をつくりなさい」と神託(お告げ)を得て、完成の暁には宇佐八幡神を勧請かんじょうして東大寺の守護神としたという。(八幡神に奈良まで来てもらい守護神になってもらったというニュアンスか)

《最初に神護寺薬師を拝んだときの第一印象》
第一印象が異常発酵した結果生まれた独断と偏見による見解とのこと笑
⚫︎森厳なるお顔が神像彫刻を思わせる
⚫︎薬師如来(仏)のうちに宇佐八幡(神)が宿っているといった感じ
⚫︎直感的に慈愛に満ちた仏様よりも、畏怖すべき神様のように感じられた。一言でいえば神々しかった
⚫︎畏怖すべき尊顔を、武神・軍神・弓矢神として尊崇された八幡神と結び付けたい誘惑にも駆られる

↓神護寺の(国宝)薬師如来立像はどういった仏像か




【平安時代初期】

④空海 入唐前と帰国後に宇佐八幡にお参り

大分の宇佐八幡に入唐前に航海の無事を祈り、帰ってからはお礼参りをしたと伝わるという
(空海と密教 解剖図鑑 P77より)

仏ではなく神に祈っていたのが意外。宇佐八幡は古代では伊勢神宮と並ぶニ所宗廟(皇室の祖先をまつるみたまや)だったようなので、安心と信頼の宇佐八幡にお参りしたのかもしれない。これをふまえると後の空海と八幡神との関係が腑に落ちる


⑤空海の真言密教は神仏習合だった

◼️八幡(神)と密教(仏)に共通するミッション

⚫︎八幡神
八幡神は宇佐の神であるが聖武天皇の東大寺建立から、
日本国土天皇の守護神と考えられるように

⚫︎密教
空海が唐から持ち帰った密教の重要ミッションは「鎮護国家」仏教で国土を守り皇室(天皇)の安泰や国民の平和・興隆を祈る 

↓ 自然な流れで融合

⚫︎神仏習合の寺 高雄山寺(後の神護寺)
唐から帰ってきた空海が、八幡神のお告げで建立されたというルーツを待ち、山岳信仰の盛んな霊地に建つ高雄山寺の住職となる
⚫︎八幡神の力を新しい方法(密教)で運用
空海は各地に寺院を建立・改修していき、その境内には必ず八幡神が祀られている
(空海と密教 解剖図鑑 P84より)

密教は仏教なので、祀るのは仏だけと思っていたけれど、八幡神を取り入れて神仏習合していた。八幡神と密教はミッションが同じであることや、密教は全てを包含する性質をもつので、神仏両方の力を使ってフルパワーでミッションを果たすということになったのだろうな。なるほど〜


◼️八幡神と空海さん似顔絵描き合う仲良し

八幡神と空海さんがお互いの似顔絵を描きあったという伝説があり、「八幡神像」「弘法大師像」をワンセットとして互御影たがいのみえいと呼んで伝わる。平安時代初期に空海が描いたとされる八幡神の肖像は、一時神護寺から離れ鳥羽離宮の宝蔵にあったものを後宇多天皇が鎌倉時代後期に神護寺に戻し、その時の書状(後宇多上皇施入状)も残っている。その時点で空海筆の絵は残っていたが現在はせず。鎌倉時代に描かれた神護寺所蔵のものが最古

空海が描いた八幡神像は、神護寺から離れていた時期に石清水八幡宮と東大寺と神護寺でどこが所有するかの競合が起こったという 

↓以下はイメージとして浄光明寺所蔵の互御影
左)僧のお姿をした八幡神   右)弘法大師
元は弘法大師像は八幡神が描いたものがあり、八幡神像は空海が描いたものが鎌倉時代には存在していたとされ、天皇や文覚上人の文書上にしっかり残っている。神話の時代のような話しだけれど現実?!という不思議なエピソード

神と仏教の空海さんがそのような交流していたことを神護寺展で初めて知って、意外すぎて「なぜ神と仏教?」と不思議でたまらなかった。背景を知って納得

神護寺展ではこのエピソードに関連する展示がけっこうな量出ていた。これ以外にもあったかもしれない
⚫︎弘法大師像(互御影)後期展示 展示室A
 神護寺所蔵 鎌倉時代   ※前期は南北朝時代のもの
⚫︎僧形八幡神像(互御影)後期展示 展示室c
 
神護寺所蔵 鎌倉時代    ※前期は南北朝時代のもの
 元の空海筆の八幡神像を元に書いたと思われるもの
⚫︎弘法大師行状絵 巻第六 前期展示(互御影のシーン)
 東寺所蔵 重要文化財 南北朝時代
 空海さんと八幡神が似顔絵描きあってるところ
⚫︎文覚上人書状案  前期展示
 神護寺所蔵 重要文化財 鎌倉時代
 空海筆の八幡神像の行方を憂い、訴えている書状
⚫︎後宇多上皇施入状 後期展示
 神護寺所蔵 重要文化財 鎌倉時代
 神護寺が元々所有していた空海筆の八幡神像を
 神護寺に戻しますby後宇多上皇 

伝説のような話だけれど、空海筆といわれる八幡神像は鎌倉時代には存在していたことが分かる。空海が描いた八幡神の似顔絵と八幡神が描いた空海の似顔絵の原本どこに行ってしまったのぉぉ 



【平安時代中期】960年

⑥安倍晴明が火事で焼失した天皇家に伝わる霊剣修復のため神護寺で祭祀を行う

神護寺に安倍晴明?!そこに繋がるとはイメージ無かったので驚いたエピソード

天徳4年に内裏で火災が起こり百済から伝わった天皇家と国家にとって大事な霊剣が焼失。翌年に安倍晴明(40歳頃)が再鋳造した霊剣に霊力を宿す儀式「五帝祭」を神護寺で行った。この時、安倍晴明は天文得業生で陰陽師になるための学生の身分。儀式を執行するメインではなかったが、この功績が認められてその翌年に陰陽師に

謎解き!伝説のミステリー 平安時代に隠された7つの謎がわかる 神社仏閣2時間SP 2024年7月27日放送
安倍晴明が参加した五帝祭を昔の記録をもとに神護寺で実際に再現していてかなり興味深かった

神護寺の神仏習合の背景を知ると、陰陽道の儀式の場に選ばれるほどに、(八幡神)と(密教)と場所(霊山であり、空海が鎮護国家と天皇の健康を祈っていた)という総合エネルギーの信頼と実績ある場所なのだと納得

ちなみに平安時代の占星術は2種類あり、
陰陽師と宿曜師が活躍
◼️日本古来の占星術   陰陽道 陰陽師 安倍晴明
◼️インド天文学・占星術 九曜  宿曜師
 
九曜の漢訳版が宿曜。空海が唐から日本にもたらした
 
安倍晴明も宿曜を扱っていた可能性もあるらしい

このあたりも含めて、国の安定のためには垣根なく「取り入れられるものは柔軟に取り入れていた」のだなぁと

光る君へ 31回
寛弘元年(1004年)7月
深刻な干魃が続き当時83歳の安倍晴明が
雨乞いの五龍祭を行っていた
この時に剣を使っていたので、神護寺で霊力をやどした天皇家の霊剣なのか?と思ったけれど、天皇家に伝わるものは三種の神器レベルのようなのでおそらく違うのだろう

陰陽師の祈祷も、密教の修法(祈祷)も
国を守るための祈祷や雨乞いの祈祷をするなど共通している。陰陽師は国家公務員、国が運営する官寺に次ぐ寺格を持つ定額寺(神護寺は定額寺)はいわば半官半民の寺院。公的な立場も共通




【高雄山と陰陽師と修験道の関わりについて】

奈良国立博物館の「空海展」協賛企画 「神護寺の歴史と文化財」講演 @種智院大学の質疑応答の時間で、陰陽師と修験道の関わりについて調べている方から、
 ⚫︎神護寺の後ろには修験道のメッカの愛宕山
 ⚫︎その霊験あらたかなエリアに建っていたのが神護寺
 ⚫︎陰陽師の安倍晴明が神護寺へと大事な霊剣を修復するために来ていたと歴史的に記録が残っている
それらをふまえて神護寺と陰陽師と修験道の関わりについて情報があれば教えて欲しいとの質問があった

▼神護寺ご住職(貫主)谷内弘照さんからの回答

⚫︎愛宕山が信仰の地になった経緯
愛宕権現は鷹ヶ峰から移され、奈良時代に泰澄たいちょう(682-767)という人が修験道の大家としていて、その人が開いて信仰の地とした

⚫︎愛宕山系の高雄山 重要な位置
延暦寺のある比叡山が鬼門だと言われていて高雄山があるところは戌亥の方向にあるので、中国で言うところの天門にあたる。天門とは願いを叶える時に一番近いところ。曼荼羅の話などで出てくるような話としては、龍が出てくる。地中をずっと辿って伏見に辿り着く、そこが地門(?)。そしてずっともどってきて上がって行く時に願いを告げると龍が天に持っていってくれる。そういう意味合いがあって修験道場としてはひじょうに相応しかった


⚫︎修験の祭事跡が発掘される
発掘作業の当事者に直接お話は聞けなかったけれど、安倍晴明かどうかは分からないが、色んな人が祭事をした古い史跡が梅ヶ畑に見つかった。修験の方が誰か来て祈祷を行なった跡で、その場所は「弘法大師が祈祷を行なった跡もあるのか」という点については弘法大師の場合は高雄山で祈祷をやっていたのかもしれないので、そこではない別の場所かもしれない

平安時代以前の跡があるということで、修験を研究されている方がいて、この辺が史跡だと発掘された。梅ヶ畑の焼却炉の近くに祭事跡の史跡があって祭事に使う甕や銀貨?などが発掘された。残念なことに発掘した後にすぐに埋めることになったようで、あまり調べずに元に戻されたことを研究者が怒っていたというのは聞いている。なので、そういった修験道の祈祷のようなことを高雄の方でやっていたのは間違いない

このサイトの「奈良・平安時代の山岳祭祀遺跡としての梅ヶ畑」の箇所のことと思われる↓


天門にあたる高雄山から龍が地中をずっと辿って地門(?)の伏見に辿り着いて、そこからもどってきて天に上がって行く時に高雄山で願いを告げると龍が天に持っていってくれる
→イメージ的に京都を横断して助走をつけて(地のエネルギーをつけて?)天に登る感じを想像
とてもスケールが大きい祈り……凄い 

埋めてしまった遺跡がとても気になる。ロマンが埋もれている



鎌倉殿の13人の「八幡大菩薩」すっきり

ぼやかしていたことが分かった
大河ドラマで何度か出てきた「源氏の氏神 八幡神」
戦の際には「八幡大菩薩」と書かれた旗が何度も出てきてセリフにも登場。八幡+菩薩…名前から八幡神宮の何かだろうけど、よくよく考えると神?菩薩だから仏?どういう状態?→奈良時代に起こった神仏習合によって八幡神に対してつけられた菩薩の称号ということだった。なるほど〜

鎌倉殿の13人
梶原景時が源義経の無双状態に対して
「軍神 八幡大菩薩の化身のようだ」

空海八幡神源氏
繋がってると思わなかった組み合わせ。何でも包含する日本という感じでいいな


(脱線)映画ゴジラマイナスワンに巡洋艦「高雄」

太平洋戦争で使われていた「高雄」と「愛宕」という巡洋艦が存在していた。やはり高雄山と愛宕山パワーにあやかろうということだったのだろうなと。映画を見ていて「高雄」が出てきて「あの高雄?!」と反応してしまった。

巡洋艦「高雄」登場



(脱線)京都人 愛宕山の方面発生の豪雨を「丹波太郎」と人名呼び…が好きすぎる件

愛宕山を調べていたら今まで全く知らなかった「豪雨を発生源別に人の名前のように呼ぶ」という京都の文化を知った。発生場所によって5人もいる(五兄弟)!笑 

京都市は、全国的に見ても夏の雷が多い。古くから「丹波太郎」「山城次郎」「比叡三郎」と呼んで、突然の雷雨に注意を促している。「積乱雲3兄弟」はそれぞれ、名前の方角から京都をめがけて来襲し、激しい集中豪雨をもたらす。長男「丹波太郎」の歴史は古い。約340年前に書かれた井原西鶴(1642~1693)の代表作「好色一代男」に………      

くぅ…読めるのはここまで。つづきが気になる

京都新聞の記事より
京都人の方とっては切実なニュースなのに
「丹波太郎の来襲」に笑ってしまう
弟2人は最近誕生!
喜んでいいのか悪いのか
じわじわくる 
口に出して言ってみたい日本語




神仏習合…本地垂迹が分かり興味が派生

本地垂迹という言葉を初めて見たのは藤原定家の日記「明月記」を調べていた時だった。書籍の中に本地垂迹に関連しての記述が書かれ、前提知識が無さすぎて意味がわからず飛ばし読みしていた。神仏習合について少し理解が深まったので読み返してみたら…内容入ってくる〜。《藤原定家は本地垂迹説からの独立のために古今伝授を秘伝化・神事としようとしたのではないか…… 》これはまた別途深掘りしてみたくなってきた

仏教について調べ始めてから、今まで触れる機会の無かった単語を知った。他にもありそう
修法/勧請/本地垂迹/神託/霊剣/天門/互御影/宿曜/〇〇法親王

◼️神護寺に実際に行ってきました
神護寺の山登りの難易度の実態

◼️神護寺とはどんなお寺かをまとめたもの

◼️神護寺展 展示物 前期と後期の違い

◼️神護寺展の前期展示で特に良かったものまとめ

◼️空海における神仏習合思想https://teapot.lib.ocha.ac.jp/record/7527/files/23_112-116.pdf

◼️密教の仏と山における日本の神
https://www.jacp.org/wp-content/uploads/2016/04/2007_34_hikaku_15_kumamoto.pdf


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