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007:指と声。



 通話アプリはすぐには使われることなく、相変わらずメッセージでのやり取りが続いた。

 酔っぱらった彼女から、短いボイスメッセージが送られてきていて、朝に気づいて返信すると、反省文が届いたけれど、僕はただただ得した気分になっていた。

 負けず嫌いで、配信においても、現実世界においても、自分だけでいいだろうと思うことがあると話すと、”茜くんでいいじゃなくて、茜くんがいいって言ってくれる人にしなね。わたしも、わたしだけって人ほしい!”と言った。僕にしたらいいのにと思いながら、何とも思ってない風を装って、”いい人見つけなきゃねぇ。”と返信した。



 酔っぱらっているという彼女はいつもより、多めに好きと繰り返した。こんなに好きを伝えてくれるけれど、彼女は恋人ではなかった。恋愛感情と推しに対する感情のコントロールが上手くできないという彼女は、その気持ちを推しとして応援したいという気持ちの中に隠そうとしているように見えた。
 もう少し…。

 ”ねぇ、ちょっとだけお話したい。”初めての電話、誘ってくれたのは彼女の方からだった。そういえば、通話のために連絡先を交換するきっかけを作ってくれたのも彼女だった。いつも彼女が少し先を歩いているように思った。季節は春の手前。時刻は4時を過ぎていたけれど、朝の気配も感じられないほどの闇が、まだそこにあった。僕が睡魔に勝てるかも怪しい。どちらか先に寝たら切ることにして、通話を始めた。

 普段メッセージでのやり取りばかりだし、配信で声を聞くことはあっても、直接話すことができていることが、新鮮だった。どんな内容のことを話していたんだっけ。お互いの名前を呼びあうのすら、くすぐったいような、照れくさいような。いつかまだ恋とか、そういう感情にも疎かった頃の、甘酸っぱい気持ちになる。彼女も、『なんだか中学生に戻ったような気分』と言って優しく笑った。

 知らないうちに眠ってしまっていた。スマホに目をやるとまだ電話はつながったままだった。布団のこすれる音がして、『おはよう』と少しかすれた彼女の声がする。『おはよう』と返して、頭の中できょうの予定を組み立てる。
 いくら話していても、彼女との話は尽きなかった。あいさつを交わすと、さっきまで話していた会話の続きを話すように会話が始まる。彼女は本当によく笑った。配信で声出して笑っているというのも納得だ。
 時計は正午をとっくに過ぎていて、午後の日差しが心地いい。まだまだ、陽が沈むのが早いこの季節に、この時間まで布団の中で過ごすことには、ほんの少し罪悪感もある。でも、彼女も一緒だ。きょうの予定について話すと、通話終了ボタンを押す。
 ”お話して一緒に笑って楽しかった。とっても幸せな気持ち!ありがとうね!”と、メッセージが届いて、僕も”初めてちゃんとお話しできて楽しかったよ!”と返して、また電話することを約束した。




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