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008:もっと近くに。



 通話の余韻を感じながら、彼女に伝えたきょうの予定をひとつずつこなしていく。僕の言葉にケラケラと声を出して笑って、真似して同じ言葉を使う彼女の無邪気さがたまらなくかわいくて、思い出して笑みがこぼれた。
 次はいつになるんだろう。



 ”いま何してるの?

ちょっと作業してた。どうしたの?

 ”あぁ、邪魔してごめんね。

邪魔じゃないよ。

 ”ちょっとめそめそしてる。勝手にね。

 作業の手を止めて、彼女の話を聞くことにした。1年前に別れたという、恋人との話だった。彼女はその彼と結婚することまで考えていたのだという。突然、別れを切り出されてフラれたから、未練もあったけれど、いまは何とも思っていないこと。それでも、近くに住んでいる間は協力しようと決めて、彼に手を貸していること。そんな彼の引っ越しが決まって、引っ越しの手伝いをしていること。ただ、それで自分の一人の時間が減っていること。生活のペースが乱れていることで嫌になっていると話した。
 彼女の過去を知るたびに思っていた。僕だったら、彼女にそんな思いさせないのに。

 ”茜くんが近くにいたらいいのにね。

 見間違いか。いや、彼女からのメッセージで間違いない。すかさず”僕だったらそんな思いさせないのになって思ってた。”と返信をする。変わらず、彼女は気持ちをセーブさせようとしているのか、だめだよなんて言って、”かわいいね”とか、”素敵な人だね”とか、そんな言葉を向けた。僕から見て、もう、手遅れのような気がしたけれど、指摘はしないことにした。
 幾分か元気を取り戻したような彼女に安心すると、知らぬ間に眠ってしまっていた。”生活が落ち着いた頃、お互い大切な人ができてなかったら、会いたいと思っててもいいかなぁ。”というメッセージが届いていて、彼女らしい少し控えめで大胆な誘いに頬が緩む。お互いにその大切な人ができたときには報告しあうことを約束して、きょうもそれぞれの日常に溶けていく。



 ”まだ眠れなさそうだから、寝るまでお話付き合ってくれる?”メッセージには二つ返事で了承して、通話ボタンを押す。まだハリのある彼女の声がして、きょうもあの日のように他愛もない話で盛り上がる。そして、彼女はあの日のように僕の話でケラケラと声を出して笑った。
 彼女は、小さい子供がきょうの出来事を親に話すときのような、そんな話し方でのんびり話す。オチもなければ、楽しいのは自分だけのことが多い、この話し方がコンプレックスだと話した。彼女の周りで起こったどうってことない出来事の一部始終を聞かせたいという思いに、僕は寄り添っていたい。特別な出来事はもちもんだけど、日常の何でもないところを切り取って話したいと思える相手は大切な人だと思うから。
 この日から、1日の終わりに話をするのが日課になった。




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