ねないこだれだ (6)
【 10 】
翌日の正午少し前に、久慈がマンションを再び訪ねてきた。
玄関の扉を開けて招き入れるなり、久慈は険しい表情でわたしに告げた。事件に進展があった。詳しい話を聞きたいので署まで同行のお願いにきた、と。驚いたことに、拒むようであれば強硬手段にでるとまで言われた。こんなにも早く警察が真相を突きとめたとは思えない。きっとなにかの間違いだ。そうとしか思えなかった。
昨夜、わたしは一睡もせずに考え続けてミスらしきミスは犯していないとの結論に達したのだ。わたしは完璧に遂行した。遼の殺害を。現場までの往復も。着ていた服と凶器は上手く処分したし、もし現場になにかしらの証拠を残していたとしても、降っていた雨が綺麗に洗い流してくれたはずである。ただ一点、ラバーダックの件は気になるところではあるが、わたしが犯人であると特定するに至るものではない。
「説明してください」強気な態度でわたしは反論した。「納得できる説明を聞かせていただかないことには、同意などできません」慣れぬ取調室での応答はごめんだ。余計なことを口にしてしまいそうだし、久慈の狙いが〝自供を引きだすこと〟だった場合には、なにかしらのトラップが仕掛けられているおそれがある――とはいえ、やはり考え難い。
このタイミングでわたしが容疑者として扱われるなんて考え難いことだ。
「アミューズメント施設の防犯カメラに、姿がはっきりと映っていたんです」
「――え?」
いま、なんと言った? 久慈は。いま、なんと?
「それだけではありません。こちらのマンションの防犯カメラ映像を調べたところ、犯行があった時間の前後に、建物から出入りしている姿がとらえられていたんです」
「……まさか」嘘だ。
そんなはずはない。
わたしはエントランスを避けて、駐輪場から外へとでたのだ。
絶対に、カメラに映っていたはずはない。
「ば、馬鹿なこといわないでください。あの夜は一度も、一度も部屋から――」
テレビを観ていた。深夜のバラエティー番組を。どんな内容だったか憶えている。話すことができる。正確にちゃんと話すことができる。だから、だからわたしは――
「…………」
なんなのだ。
なにを言ってるのだ、わたしは。
無意味なアリバイ工作を口にしたところでなんになる。久慈の話が事実なら、わたしにはもう選択肢などない。あろうはずもなかった。
――撮られていたのだろうか。ほかにあったのだろうか。エントランスとは別のところに。マンション内のどこか、わたしが知らなかった場所に、防犯カメラが設置されていてたのだろうか。
「お願いします。呼んできていただけますか」諭すような声で、久慈が言った。
わたしは顔をあげる。顔をあげて久慈を見つめ返す。唇を開き、声を発しようと思ったのに声帯は震えてくれなかった。
認めるしかないのか。
認めるしかないのだろう。わたし、わたしが遼を――
「……え?」待って。なに?
いま、なんと言った?
久慈はわたしになんと言った。
「よろしくお願いします」久慈は頭をさげて、詫びるように言った。「トウマくんを呼んできていただけますか」
【 11 】
わたしは玄関に背を向け、リビングの真ん中に置かれたテーブルの上を見つめている。
いまになってようやくわかった。気になっていたことが。引っかかっていたものが。
テーブルには財布が載っている。指紋を拭き取った五枚の一万円札が入った財布である。五枚だ。五枚しかなかった。中には遼に渡した五枚しか入っていなかった。銀行で七万円引きだして、スーパーに立ち寄っただけなのに、五枚しかなかった。
聴取された女性警察官の話を思いだす。アミューズメント施設の西側入り口あたりで見た光景を思いだす。犯行後にわたしがとった行動を思いだす。遠回りして会崎大池公園へ寄ったことを思いだす。わたしは――わたしのことだけしか考えていなかった。
トウマの顔が脳裏に浮かんだ。トウマの眉尻には絆創膏が貼ってあった。頻繁に鳴っていたメッセージの着信音が再生される。その度にトウマが困った顔をみせる。
どうして。
どうしてわたしは気づかなかった?
トウマと暮らしていたのに。毎日顔をあわせて言葉を交わしていたのになぜ気づくことができなかった? トウマのため。家族のため。そんな言葉を頻繁に口にしていたけれども嘘だ。大嘘だった。
「トウマくんを呼んできていただけますか」
呼びかけられて、慌てて振り返る。
玄関にコートを着た中年男性が立っていた。
誰だ?
誰だっけ。
あぁ、そうだ――警察官だ。
刑事、と言ったほうがいいのだろうか。
名前は久慈。久慈刑事。
久慈はトウマを連れて行こうとしている。
殺したのはわたしだ。わたしが遼を殺した。自己の利益を重視して、遼を殺すと決めたのだ。そして実行した。様々な策を練って。それなのに、なぜトウマが連れて行かれる?
トウマはずっと苦しんでいたというのに。いまも部屋にこもって苦しんでいるというのに。わたしはドアをノックしようともしなかった。耳を傾けようとも。尋ねようとすらしなかった――
愚かだ。
わたしは愚鈍極まりない母親だった。
久慈と対峙して、噛んでいた唇を開く。一歩前へ、足を踏みだす。
これ以上トウマに重荷を背負わすようなことは、あってはならない。
「――わたしです」ほかに選択肢などあろうはずもない。「わたしが殺しました」
*
背後から物音が聞こえた。
顔を向けると扉が開いていた。
自室からでてきたトウマが、不安げな顔でわたしを見つめていた。
「おかあさん?」
呼ばれた途端に唇が震えだした。腰に力が入らなくなってへたり込み、震え続けている指でパンツの裾を掴んだ。鼓動が早い。上手く息を吸えない。トウマが近づいてくる。可愛らしい足音が中耳で響く。トウマの姿はぼやけて見えた。
「おかあさん」
左肘にトウマが触れた。わたしはトウマを引き寄せて縋るように抱きしめた。そして気がついた。いまさらながらに気がついてしまった。間違っていたことに。犯してしまったあやまちに。トウマを守るつもりが、家族を守るつもりが、完膚なきまでにすべてを崩壊する最悪の選択をしてしまったことに気がついてしまった。
――トウマ。
名前を呼びたかった。声にだして呼んでトウマを抱きしめたかった。それなのに喉の奥からは惨めな音の息がもれるばかりで、名前はおろか、言葉らしきものも紡ぎだすことができない。
誤った。
選択を誤ってしまった。
告げてしまったからには、手にかけることができない。トウマを苦しめていた誰かを。アミューズメント施設へ呼びだした何者かを。殺さなければならない相手は、ほかにもいたというのに。
わたしは、もう少しだけ、告白するのを待つべきだった。
『ねないこだれだ』――了
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