水谷修とハッピーピープル
私は通勤中や休みの日、ただ暇を簡単に潰したいというときは、大体Yahoo!のアプリを開いて気になる記事を見るか、漫画アプリを開くか、そして以前はYoutubeを見ていたのが最近はnoteを見るのにシフトチェンジしている。
私は記事を読んだあと、ついついその記事について他人がどんなコメントをつけているかを、必ず確認してしまう。
私は基本的に覗き屋だ。YoutubeやYahoo!といった、不特定多数が利用しているコンテンツでは今どき大概コメントできる機能がついているが、私はYoutubeやYahoo!でアカウントを持っていてもコメントをしたことが一度もない(もしかしたらちょっとあるかもしれないけれど、9.9割ないと思う)。稀に、うまいこと言うなあ、とか、笑ってしまったり、応援したいとか、粋だと感じたコメントにいいねをする程度。しかし、めっちゃ見ている。そして、ふふふ、みんな感じることは一緒ね…とか思いながら一人でにやついている。サイレントマジョリティーと言えばなんだか聞こえはいいが、単なる不気味な覗き屋である。
時々、そんな見ているだけの自分をずるいと思う。だからというわけではないのだけれど、最近、その覗き活動で考えさせられることがあったので、綴ろうと思う。
未成年の犯罪
もう何の事件だったが忘れてしまった。未成年の人が起こしてしまった犯罪のニュースを読んだ時だった。読んで印象に残ったのは、そのニュースの内容より、そこに同じくその記事を読んだ人たちが残したコメントだった。「凶悪な人間なのだから、少年法なんて廃止すべき」といった論調が集中していたことに、私はすごくもやつき、考えさせられてしまった。
私は、その通りだとも、それは違うとも、思えなかったのだ。
そんなあいまいな気持ちになってしまった自分について、どうしてなのか思い起こした。その原因を探った。最終的に、ある本を紹介したいという答えが出た。そのためには、まず、この記事のタイトルである「水谷修とハッピーピープル」について語らなければならない。
ハッピーピープルって?
皆様は「ハッピーピープル」はご存知だろうか。「ハッピーピープル」とは、釋 英勝 (しゃく えいしょう)さんが書いた漫画のことである。私がこれを読んだのは10代だった。
私は若いころ、姉に多くの漫画を買い与えられ、成長した。今思えば、10代にハッピーピープルを読ませる姉は一体何を考えていたんだと感じている(補足をすると、王道系から古き良き少女漫画なども与えてくれた)。
というのも、結構過激な内容だからだ。人死ぬ。血が出る。内臓や脳みそ飛び出す。何より、その描写がリアル。一話完結ものがほとんどで、全体のコンセプトは、人間の闇、狂気や脆さかな、と私は今になって思う。
詳しく語るために今回電子書籍を買おうと思ったが、私が取り上げたいエピソードが含まれた巻は電子書籍化されていなかった。そのため、おぼろげな記憶による説明になることをお許しください。気になる方は自分で古本など探してみてください。※「新ハッピーピープル」というものもあるので、そっちかもしれないし、Wikipediaにも情報がなかったので調べられませんでした。
豚鼻の憎たらしい少年
とにかく、その漫画の中で、強烈に印象に残っているエピソードがあるのだ。それはまさしく「少年法」について問うもの。
主人公は確か平凡な男性。その男性の両親も登場する。そして、その両親は穏やかな人間性で描かれている。しかし、どういう経緯だったか忘れてしまったが、最終的にその両親が本来縁のなかった10代のぽっちゃり豚鼻で髪形センター分けの少年に絡まれ、不条理にも燃やし殺されてしまうのだ。叫び苦しみ死ぬ老夫婦。そして、最後、丸々1ページを使って、そのぽっちゃり豚鼻センター分けのドアップが「捕まったらどうせ少年法が守ってくれるさ」と、にやつきながらほざいて話は完結するのである。
読後は、言わずもがな、このぽっちゃり豚鼻センター分けが憎たらしくてしょうがないのである。少年法って何なの!?と当時の私は憤ったものだ。
人の命を弄ぶ者に、若者であろうと、生きる猶予を与える価値なんてあるのか。そう思わずにはいられなかった。
水谷修さんの講演会に誘われる
時を経て、今度は20代の時の話。あらゆるストレスで自分が適応障害と診断され、精神的にくすぶっていた時、母親が水谷修さんの講演会が無料で観れるチケットが当たったから、一緒に行かない?と誘われたときのこと。当時何を観させられるのかわからなかったが、断る理由も特にないので、ついて行った。
水谷修さんは、「夜回り先生」という愛称で呼ばれている元教師で、現在は虐待に困窮する子どもや、夜中にたむろするような非行少年少女のケアをする活動をし続けている活動家で、たまにテレビでもコメンテーターとして出演することもある方だ。
公演当日、地元の駅近のビルの3Fぐらいが会場で、先に母は到着していた。あとから駆けつけた私は、偶然にも、公演直前だったからか、水谷修さんご本人と居合わせ、エレベーターに一緒に乗った。至近距離で感じたその時の佇まい、立ち振る舞いから感じた大きなオーラは今も忘れない。
公演の内容は、水谷先生が関わってきた子どもたちと自身とのエピソードを体全身を使ってまるで昨日の出来事かのように話す、いたってシンプルなものだった。シンナーに体を侵され、その病から立ち直ろうとする少年が、最期は車に引かれて死んでしまう。火葬しても骨まで毒に侵されてしまったため灰にも残らなかったという話の結末には、皆シクシクと、私も含めていろいろな人のすすり泣く声が聞こえた。
逆境に苦しむ子どものために、こんな活動をしている人間が現実に居たのか、と衝撃を受けた。生身の水谷先生を目の当たりにし、私は、圧倒された。精神的に不安定な状況から目が開くような思いだった。
今は亡き漫画家土田世紀さんが、夜回り先生という漫画を出版している。
水谷先生への取材から、様々なエピソードを再現している。虚言壁のある少年や、実の親からレイプされた少女の話など、事実に基づく話が盛りだくさんに描かれている。講演会には行けないけれど、触れてみたいと感じた人は、漫画を読んでみてはいかが。
人によっては水谷先生のことを偽善者と言うかもしれない。でも自分は同じことができるかと問いかければ、皆尻込みしてしまうだろう。私は尻込みしてしまう側の一人だ。
水谷先生にとって、犯罪を犯すか犯さないか、生きるか死ぬかの瀬戸際に居る少年少女は守るべき存在なのである。
話は戻る
「凶悪な人間なのだから、少年法なんて廃止すべき」というコメントを見たとき、私は豚鼻センター分けのアイツと、水谷先生が守ろうとする逆境に苦しむ少年少女の両方が思い浮かんで、ふたつがせめぎ合った。
私にとっては、前者はフィクションであり、後者はノンフィクションである。
ならばノンフィクションに寄り添うべきなのでは、と思った。だってニュースで見た犯罪者の背景について、私たちは知らないじゃないか。
しかし、釋 英勝さんは時事問題に触れた物語も多いことから、現実のニュースに基づいた釋 英勝さんなりの問題提起だったのかもしれない。ノンフィクションの要素もあるのかもしれない。
そもそも、私自身は凶悪だと思われる人と関わる当事者になったことがない。身近な人が殺された経験などない。身近な人から犯罪者が生まれたこともない。だからわかったつもりになって、少年法がどうのこうのと私が意見を言っていいのか。
じゃあ、自分自身に狂気はないかと問いかければ、ないと言えば嘘に感じる自分がいる。人はストレスで思いもよらない事をしてしまう危うさをはらんでいることも理解できる。
なので、何が正解か分からず、どうどう巡りにもやもやと答えが出なかったのである。
「空が青いから白をえらんだのです」
そこで私が最初に述べた、紹介したくなった本の登場だ。
「空が青いから白をえらんだのです」
サブタイトルには「奈良少年刑務所詩集」とある。
ズバリ、奈良少年刑務所の少年(20代のものもいる)たちが書いた、詩集である。
この本を手に取ったのは、数年前統合失調症で入院した数ヶ月前になんとなく立ち寄った本屋で見かけて、「買わなければならない」と思ったからだ。当時、妄想の中で、この本が光り輝いて見えたのだ。
買った日、帰ってすぐ読み、ベッドの上で号泣したのを覚えている。
私はnoteを使い始めてそろそろ2ヶ月となるが、これまでいろいろな方の文章を読んでは癒されている。その人のありのままの、私はこのことをこう思ったという丁寧で正直な気持ち、考え方に触れると、いいなあ、と感じる。
自分も、今度は何を書こうかなと思っていると、今回のもやもやについて書こうかな、と思い始めた。そこでふと、ビョーキの時に買ったこの本がまた呼んでいるような気がしたのだ。
読み直すと、この詩集に集められた子どもたちが書いた言葉は、noteと同じよう私を癒した。
いくつか、中身を紹介しよう。
彼らは犯罪を犯したから収監されている犯罪者である。本の後半では、収監者に詩を書かせるプログラムが始まった経緯や、どのように詩を書かせるアプローチをするかなど詳しく書かれているが、そのプログラムを受講する人の中には、強盗、殺人、レイプなどの重罪を犯している人もいるという。
この本では、いちいち、この詩を書いた人はこういう犯罪を犯しましたという説明はない。あるのは、書き手の人の背景についての説明が少し添えられている程度だ。
なんの先入観もなく読んでいると、noteで言葉を書き連ねる私たちと、彼らが生み出す言葉とで、「差」はあるのかと、感じる。
違いなんて、あるのか。
彼らは犯罪を犯した。犯罪とは、「他者の大切なものを奪う行為」と言っていいかもしれない。それを彼らはしてしまったから、収監されている。
この本の編集をされた寮美千代さんは、外務省へ勤務した後コピーライターなどの経歴を経て童話作家になった人物だか、その寮さんに収監者に詩を書かせる「社会性涵養プログラム」というプログラムを依頼した責任者は、寮さんにこのように依頼した。
寮さんは、「これは大変な仕事だと思った」と綴っている。しかし、その依頼を引き受けた決め手は、その収監者と日々接している教育統括の担当者の、受刑者たちの更生を願う深い愛情を感じた事だったそうだ。
そうして立ち上げたプログラムを経て、最後の宿題として詩を書かせて出来上がってきたのが、先ほどのような言葉達だ。ほかにも、素朴で美しい詩がたくさんある。
寮さんはプログラムの回を重ねて実感したことを、こうも綴っている。
私は、この言葉を信じる側でいたいと思った。
犯罪という概念が「大切なものを奪う行為」であれば、更生して、なんとか生きていこうと立ち返るべきチャンスである「少年法」を、いらないと簡単に言ってしまう私たちの言葉もまた、「大切なものを奪う行為」と同じではないのか。
それともやはり、目には目を、歯には歯を。因果応報と、関係ないあなたは論じるだろうか。
私も、本当は、どちらが正しいかなんて、わからない。
だから、少年法はいらないなんて、私には、書けない。
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