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残酷ではない「現実」の優しい側面に目を向けたい。

「現実」は決して険しい試練を突きつけてくるだけのものではないはず。  


「現実は残酷だ」
……なんて思った経験、いくらかはある。
そしてきっと、この先も幾度となく出会う。

そう考えると、現実って怖いと思う。

それでも、きっと私は「残酷な現実」に出会ったことが少ない。
ドキュメンタリーやニュースに影響を受けすぎているのだろうか、人の経験を見聞きしていると自分はなんて大した挫折のない人生なんだと思う。
そうして、将来自分に襲いかかるであろう試練に怯える。

今日この下に綴っていくのは、私が上の通りだからこそ考えられることなのかもしれない。


日常に溢れかえる悲しい「現実」

たとえば、高校生が部活動の大会に向けて全力で練習する様子やそのドキュメンタリーはメディアを通して度々見ることができる。
家族に支えられ、勉学とも両立し、日々競技やパフォーマンスを研究し、雨の日も風の日も練習やトレーニングを続け、一年に一度の大舞台に挑む。
その姿は勇ましく、誰の目から見ても輝いている。

それでも、それらの努力が必ず報われるとは限らない。
とある高校サッカー部のチームが過去2年連続全国大会の決勝で敗北を喫しているというシナリオを想定してみる。
3年生は過去2年の先輩たちの無念と涙を目の当たりにし、最後に自分たちが必ず先輩の分の雪辱も果たすと誓い、日々チームを鍛錬してきた。
それでも本番、全国大会はおろか県大会でまさかの敗退となることもあり得るのだ。

こんな敗北劇が起きてしまえば、「なんて現実は残酷なんだ」と思ってしまう。

他にも、「就職活動で手応えがあったにも関わらず第一希望の最終面接で落選する」、「結婚直前に婚約者の浮気が発覚する」、「夢を見つけて専門学校に進学した直後ステージ4のがんが見つかる」など、実際に起こる可能性に差はあれど、現実の残酷さを思い知らされるようなシナリオは無数に存在する。


そして現実の悲観視は過去だけでなく、未来についても存在する。

将来、やりたいことがいろいろある。理想の暮らしがある。
それでも、自分の未来を考えるとき、「もっと現実を考えなきゃ」って思ってしまう。
「老後2000万円問題」やそれに伴う不安なんかはまさに代表的な例だ。

そしてそういったマインドは他者に植えつけられることだってある。
受験期に志望校を相談すれば、現状の成績を品定めした担任や親が「もっと現実的な進学先を考えなさい」と言う。
仕事で企画書を提出すれば「現実そんなに甘くいかないんだよ」と跳ね返される。
ちょっと夢を語っただけなのに、「現実を見なさい」だなんて叱責を喰らう。


ネガティブな「現実」を意識せざるを得ない場面は人生に溢れているはず。



「現実」は本当はニュートラルなはず

でもここで、よく考えてみたい。
「現実」とは、単なるリアル。
別に我々の生活からプラスな部分だけ切り取ったものでも、マイナスな部分だけ切り取ったものでもない。どちらも含む、我々の実生活そのものをくくり上げたものが「現実」のはずだ。

たとえば、先ほど「残酷な現実」の簡単な例としてサッカー部の話を挙げた。
だけどもしも彼らが全国大会の決勝で因縁のライバルに勝利し、優勝を納めたら、「夢が叶った」という。
しかし、これだって現実だ。
成し遂げる前は理想となる「夢」でも、それが達成された瞬間に事実となり、「現実」と表せる。「夢が現実になる」っていうのは、まさにこういうことだと思う。


現実なんて実際に発生する事象そのものであり、それが喜劇か悲劇かなんて関係ないはず。
だから、本当の「現実」の姿は、至極ニュートラルなんじゃないかと思う。

なのに、「現実」って言うと、なんとなくネガティブなイメージを帯びてしまう場面も少なくない。



ポジティブな「現実」を感じたい

この記事で私は何が言いたいのか?
なんだろな。
「現実を見ろ」って言われても私はピンと来ないよ、ってことかな。

いやわかる、わかるんだよ、言いたいことのニュアンスは。
「そんな楽観的な空想ばっかしてないで、実際は思い描いているほど物事が上手くいきはしないことを理解してくれ」ってところでしょう?
確かに実現可能性を考慮しなければならない局面なんてたくさんある。
伝え方はいろいろあるが、客観的で批判的な思考を促すこと自体はむしろ良いことだと思う。

それに、「現実」という単語ひとつに、意味がひとつである必要などないこともわかっている。
辞書で単語ひとつ調べてみても、①②③......って、複数の意味が掲載されているものだし、私たちもたくさんの意味を持つ単語を使い分けている。
ニュートラルな事実としての「現実」という言葉があるが、それとは別に「夢」の対義語としての「現実」という言葉があっていいのだろう。


だから、いわゆる「現実を見ろ」という言葉に込められたメッセージそのものを否定したいわけではない。
ただ、その意を表す言葉として、「現実」という単語を使うのは本当に適切なのかが気になるのだ。


「現実を見ろ」って言われるとき、その理由に納得すれば「ちゃんと考え直さなきゃ」と思うけど、ただ頭ごなしに言われても否定された気持ちになるだけ。
少なくともこれ言われて嬉しくなることなんてないし、ネガティブな言葉であることこの上ない。

身も蓋もない言い方をすれば「そんな理想きっと叶わないんだから考え直せ」と伝えたいときに「現実を見ろ」と言うのだから。

そんな文脈でばかり「現実」という言葉に出会っていると、「現実は厳しいものなんだ」と思わざるを得なくなる気がする。
「現実」と聞けば、理想に反する残酷な事態を連想するようになる気がする。
本当の意味での「現実」はニュートラルで、ポジティブな出来事もネガティブな出来事も含まれるはずなのに、そうは思えなくなる気がする。


だからやっぱり、「思い通りにはいかない厳しいこと」を「現実」という単語で表してしまうのはなんだかすごく悲しい。

「現実」の中に生まれる楽しさ、喜び、奇跡を、忘れたくない。


なんでも、結局のところ我々は現実の中に生きる。
もちろん、人生の100%現実に生きろだなんて変だし、いっぱい夢見て生きるのも素敵だと思う。
それでも、等身大の私たちは現実を完全に切り離すことなどできない。
だったら、「現実」は決して悪いものではないと信じたいじゃないか。


「現実」が「夢」と対を為す概念というのなら。
いくらでもポジティブな理想を語れる「夢」と比べてしまうから、「現実」が厳しく見えるというのなら。
もういっそのこと「夢」にネガティブな空想や予測も入れてしまってもいい。
「あんなこといいな、あったらいいな」だけじゃなくて、「こんなことになったら嫌だな」なんてのも、「夢」だと思っちゃえばいい。だって空想だもん。根拠はいらない。
そうしたら、「悪い夢も考えちゃったけど、現実以外となんとかなるな」なんて思う日も訪れるかもしれない。


「良い夢」をたくさん考えてしまえ。「悪い夢」ばかりで不安にならないように。
「悪い夢」もたくさん考えてしまえ。「現実」の優しい側面を見失わないように。

やはり現実に生きて幸せになりたいと思う以上、「現実は夢を砕く厳しいもの」と考えて生き続けるなんて私にはできない。

だから、「現実を見ろ」って言われても、いまいち響かないな。

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