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50年前のITエンジニア ~台湾最大の発電所システム稼働開始へ~

株式会社アイネの安永です。
前回、前々回の記事では、新卒で入社した頃の経験や初めて米国に出張し、台湾の火力発電所システムの開発に従事した経緯をお話しした。

今回の記事では、完成した台湾の火力発電所に赴任し、現場での模擬試験、実機試験、総合試験などを経て、システムの稼働に至るまでの話を紹介したい。


米国から今度は台湾へ

8ヶ月間の米国生活で台湾の発電所のシステムを開発し、帰国したのが1969年3月であった。米国から出荷された装置などが台湾に運搬されて、現地でインストールが完了するのが3ヶ月後であったため、私は暫く日本で待機となった。久しぶりに日本の空気を吸って、英気を養った。
そもそもこのプロジェクトは、会社社長の友人が米国のL&N(Leeds & Northrup)社に在籍していたことから始まったのであるが、いよいよ第2ステージを迎えることになった。

台湾最大の発電所、高雄大林発電所とは

私が開発したシステムが稼働する発電所は、台湾最大の発電所である高雄市の大林発電所であった。台湾南部の高雄市大林に計画されたこの発電所は台湾の最新鋭、最高出力の石炭火力発電所である(当時)。1,2号機共にそれぞれ300MWの発電規模を誇り、1967年に建設着工し、1969年の竣工を目指していた。
石炭を燃やして蒸気を発生させるボイラーが日本の三菱重工、蒸気を回転力に変えるタービンが米国のWH(WestingHouse)、回転力を電力に変える発電機が同じく米国のGE(GeneralElectric)、そして計装関連が私の所属した米国のL&N(Leeds&Northrup)という分担の共同受注のプロジェクトであった。

私が発電所で担当した作業

私が現場で作業を開始したのは1969年7月、米国で担当したソフトウェアの実地テストが私の最初の仕事になった。米国から準備してきた紙テープのテストデータを使用して、設置されていた計装機器のテストを開始した。各機器での模擬テスト後、実機データを使用してプログラムをテストした。
私の作業場所は、発電所の中央制御室の一角のコンピュータルームであった。担当していた計装機器は主にボイラーの温度、圧力などの計測器であり、各計測器からコンピュータにデータが送信される。実機データ試験では、制御盤上の計器の表示、プリンターへの印字が正確かどうかなどを確認した。正常時のデータ出力の他、異常データのアラーム表示、また現場の機器番号や名称の正確性なども確認した。また時には計測器の値を目視確認しなければならないこともあり、約50mの高さのボイラー最上段まで鉄製の階段を上ったこともあった。50mというと住居用マンションの15階に相当するので、かなりきつかった思い出がある。

発電所の商用稼働開始へ

自分が担当したプログラムや機器のテストが終了した後は、他社、あるいは米国本社とのコミュニケーションが主な仕事となった。ボイラー、タービン、発電機、送電システムの全てが完成して、商用稼働が開始されるまで、緊張の数ヶ月間であった。
各地の電力使用量が減る年末年始には、24時間待機してテストを実施した。私の担当箇所は発電に直接関わるものではなかったため、それほどの問題は発生しなかったが、他社製機器のテストも行うことになり、数日間は缶詰になった。また現場で初めて「トリップ」という言葉を知った。発電所が「トリップ」したとは、発電が止まるような大きな事故が発生したと言うことであり、そのようなトリップを何度か経験した。その都度、発電所内は大騒ぎであった。

そうしたこともあったが、大林発電所は1969年9月には竣工し、実稼働試験を経て1970年には無事商用稼働を開始した。
ちなみに、大林発電所は2021年に50年の耐用年数を迎え、解体されたと聞いている。その後、新たな発電所の建設を日本の共同体が受注したということである。

台湾での生活と再び言語の壁

話は変わるが、私の台湾での生活について話をさせて頂きたい。
高雄での生活は全てホテルの滞在となった。ホテルの費用や生活の実費は現地の会社の負担であった。同じホテルに滞在していた他社の技術者と一緒にマイクロバスで通勤し、夕食は皆で一緒に食べたり、個人で食べたりしていた。当時流行り始めたボーリングに通うことも度々あった。当時のボーリング機械は自動ではなく、一投の度に機械の裏から子供が降りてきて、飛ばされたピンを並べ直していた。並べ終えると次のボールを投げるのである。ピンを並べては飛ばされの繰り返しで子供には気の毒な気がしたが、それでお金になっていたのだろうから、割り切って考えていた。時にはウイスキーを賭けたりして毎晩のように通っていたので、アベレージ170ぐらいはあったと思う。

ところで、台湾でのコミュニケーションは基礎知識のない中国語(北京語)を使わなければならなかった。発電所での仕事中はほとんど英語だったので話が通じて全く問題はなかったが、ホテルに帰った後は英語と日本語は通じない。そこで、今度は中国語を何とかマスターしたいと思い、滞在したホテルの女性社員を先生にして耳学問と漢字の筆談で覚えることにした。
中国語の難しさは発音とイントネーションである。文法は英語に似ているので、それほど難しさは感じなかった。また台湾は日本と同じ旧来の漢字を用いており、現代中国語の簡体文字ではない。先生に会話文章を漢字で書いて貰って、発音を耳で繰り返し聞きながら、覚えていった。これはメロディと共に歌を覚える音楽と同じであり、学生時代にコーラス部に所属していた私にとっては全く苦にならなかった。これを滞在中毎日のように繰り返すことで、帰国するまでに一般的な日常会話はできるようになった。

最後に

1970年6月、大林発電所1,2号機は当時台湾最大の合計600MWの商用発電が軌道に乗り、約1年に渡る私の台湾滞在は終わった。米国でのシステム開発から約2年、私のプロジェクトは無事終了した。
ソフトウェア開発の技術向上だけでなく、英会話、中国語会話もマスターすることができた。それらに加えて最大の収穫(!)は、中国語会話を覚えるときに熱心に教えてくれた先生を妻に迎えたことである。
今年で結婚して52年になった。台湾では全て中国語で会話していたが、彼女が日本に来てからは全て日本語で会話した。彼女は日本語の会話力ゼロからのスタートとなり、かなり苦労したと思うが、今では完全に日本語をマスターすることになった。深く感謝している。

妻と著者

さて、帰国後は日本の某製作所でFORTRANコンパイラーを作ることになったが、5年後には再び米国のL&N(Leeds&Northrup)社から新しいプロジェクトの依頼を受けることになった。今度は計装関係ではなく、台湾全土のオンライン送配電(ディスパッチ)システムの開発である。ディスパッチシステムというのは私にとって未経験の分野であり、一からの挑戦となった。今度は米国、台湾を約5年で回るビッグプロジェクトである。但し、前回と違うのは最初から家族3人での訪米、訪台ができたことであり、1人の時とは全く異なる生活を送ることなった。このプロジェクトについては、また別の機会にお話しすることにしたい。


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