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50年前のITエンジニア ~単身で米国に乗り込んだ話~

株式会社アイネの安永です。
前回の記事では、私が米国人の会社に入社するまでの経緯や入社後の英語の特訓などを紹介した。

今回の記事では、私がアメリカでITエンジニアとして働いた経験を述べる。今でこそアメリカで活躍する日本人エンジニアは珍しくないが、当時はIT業界自体の規模がかなり小さかったこともあり、とても珍しいことであった。そんな貴重(?)な経験を皆さんに紹介したい。


1.米国での仕事を受注

入社2年目の1968年、待望の米国からの仕事を受注した。
米国企業が台湾電力公司から新設火力発電所のロギングシステムのソフトウェア開発を受注したので、その開発を支援するというのが私に任された仕事であった。
当初目的としていた「米国のソフトを日本で開発する」という仕事ではなかったが、ソフトウエア開発を米国から受注するという非常に珍しいケースであった。帰国後にメディアから取材を受けたほどであった。
なぜ、私に白羽の矢が立ったかは判らないが、「とにかく米国に行け」と言う社命であった。契約形態は現在で言われるSES契約で、仕事に関するノウハウもないまま、社長や同僚社員の見送りを受け、慌ただしく単身成田から出発した。
当時は海外出張が珍しかったため、会社の同僚、上司などが空港までお見送りに来る時代であった。ちなみに帰国時のお土産にはジョニ黒が必須であった。

2.米国Leeds & Northrup社へ

最初の目的地はロサンゼルスにある Cambria Adult School という学校であった(学校名は正確でないかもしれない)。米国に来た外国人に英語を教える学校であり、寮が完備されていた。大勢の日本人が来ており、英会話を勉強していた。しかし日本人同士でたむろしていても、普段は日本語で話をしてしまうので、英会話力の上達はおぼつかない。そこで、彼らと付き合うのを止めて、もっぱらロサンゼルス市内を歩き回り、現地に慣れることを優先した。そうこうして3ヶ月間、英会話の勉強をした後、仕事先であるペンシルバニア州ノースウェールズ(以下North Wales) の L&N(Leeds & Northrup)社に向かった。
NorthWalesと言うのはフィラデルフィアから電車で約1時間の所にあり、人口は約1000人で、農場と緑の丘に囲まれた小さな田舎町である。そこに L&Nの広大な工場とソフトウェア開発拠点であるテクニカルセンターがあった。通勤のため、私は隣町の Lansdale に家賃が月80ドルの家具付きアパートを借りた。日本から送られてくるのは月300ドル(当時は1ドル360円の固定相場)で、衣食住など生活費全てを賄うのである。こうして私のエンジニアとしての米国での生活が始まった。

Lnasdale駅

3.英語でコミュニケーションできようになるまで

いよいよソフトウェア開発の実際の仕事が始まったが、当初は英語での上司や同僚との意思疎通にとても苦労した。相手は英語がわかるという前提で私にペラペラと話しかけて来るが、さっぱり聞き取れない。伝えたいことを自分の頭の中で英作文して、口に出せばなんとか理解してくれる。しかしながら、相手の言うことがさっぱり聞き取れないのである。あれだけ日本やロサンゼルスで英語に慣れてきたはずなのに。
「もっとゆっくり話してくれ」「もう一度言ってくれ」を何度も繰り返して相手もうんざりしたと思うが、何とか付き合ってくれた。3ヶ月ぐらいした頃だろうか、耳がどうやら慣れてきて、相手の言うことがわかるようになって来た。ところが今度は喋れないのである。聞く方が慣れてくると、そのスピードで返事しようとしてしまい、頭の中で英作文する時間がないのである。結果、文法無視、単語を並べただけで返事してしまう。このようなトンチンカンな会話を3ヶ月ぐらい繰り返して、やっと正しい文法で正しい単語を並べた会話ができるようになってきた。6ヶ月目には日本語が頭の中に入り込む余地はなくなっていた。英語のままで聞いて考えて表現できるようになったのである。半年の間、一人の日本人にも会わず、全く日本語を使わず生活してきた。こうした環境に置かれたことと、私もまだ若かったので英会話をマスターできたのだと思う。もちろんIT用語を含めて語彙不足は明白なので、これは時間に解決して貰う必要があった。
ところで、そんなある日、私と同じ会社からテネシー大学に留学していた同僚が遊びに来た。会った最初は英語のあいさつが口に出てくるものの、日本語がなかなか出ない。相手は日本語、私は英語という滑稽な会話が暫く続き、やっと日本語の会話に戻った。英語脳を日本語脳に切り替えるのにそれだけ時間がかかったということである。その後は積もる話に花が咲いた。ちなみにこうした経験はこの1回だけで、その後は久し振りに日本人と会っても、最初から日本語で話ができた。

4.ソフトウェア開発の仕事

エンジニアとしての仕事のことを話す。
私が仕事場としたL&N社は、米国のGE(General Electric)や日本の三菱重工、三菱電機などと共同受注した火力発電所の計測システムを世界に向けて製作販売していた。火力発電所内の全ての計測機器データをリアルタイムで収集し、データ表示、警報発令、印刷などを行うシステムであり、ホストコンピュータはミニコンピュータであった。
私の最初の仕事はそのシステムの帳票作成プログラムをFORTRANで作ることであった。火力発電所によって異なるメッセージを帳票出力するのであるが、ベースとなるプログラムを台湾電力向けに改造するものである。最初はプロフラムの必要個所を一つ一つ手で修正していたが、同じ修正を各国のシステム用に修正して組み込んでいると聞き、それでは無駄が多すぎるのではないかと気づいた。そこで、変更となるメッセージ部分を文字配列のパラメータとし、プログラム自体の修正を抑えることを上司に提案した。そしてその変更を自分の担当プログラムに適用した。今となっては単純なことであるが、当然のことのように手修正していた同社のソフト作成に一石を投じることになった。上司のMarkは至極感激して,「日本のエンジニアがプログラム作成の効率化に貢献してくれた」と、その評価を社内報に書いてくれた。

帳票作成ソフトウェアの開発が終わると、今度はアセンブラでデータ収集ソフトを作るプロジェクトに参加した。データ収集機器のデータを加工処理するプログラムの開発であった。アセンブラプログラムをテストするためには、データ収集機器のデータを模擬したデータを紙テープで作成する必要があった。紙テープというのは、幅約1インチ(2.5センチ)の硬めのロール状の紙で、1列で最大9個まで(8ビット+パリティチェック用1個)の穴を開け、穴の有無で2進データを作っていた。
ある日、紙テープデータを読み込んでテストしていたが、何回やっても読み込みエラーが出てしまった。アセンブラのプログラムを調べても異常は見つからない、紙テープリーダー自体をテストしても正常であった。そこで紙テープ自体に問題があるのではと思い、穴を確認したら、そこにバグ(虫)がいたのである。どういうことかというと、本物の虫が紙テープに空いた穴の一つにミイラ状態で詰まっていたのである。1であるはずのビットが0になっていたので、パリティエラーが発生していたのである。本当の意味でデバッグ(虫取り)した体験であった。

紙テープリーダー&パンチャー
引用元:Wikipedia(Punched tape)
(https://en.wikipedia.org/wiki/Punched_tape)

5.日米の仕事のやり方の違いで感じたこと

当時の私は日本での勤務経験がほとんどなかったが、米国のマネージャクラスの仕事ぶりと平社員クラスの仕事ぶりは、日本とはかなり違うように思えた。マネージャクラスは夜10時、11時になっても仕事をしているが、平社員クラスは夕方5時ぴったりに定時退社する。夏時間だと日没が夜9時頃なので、退社後も3時間以上が明るい時間となる。スポーツやショッピングなどで楽しんでいたようである。もちろん、仕事が終わらないと平社員も1,2時間ぐらいの残業はするが、あまり見かけることはなかった。
私はどちらかというと自由に勤務していたので、仕事の区切りまで頑張ったり、マネージャと遅くまで付き合って仕事をすることもあった。逆に皆よりも早く帰ったりすることもあった。
金曜日にもなると昼食は皆で連れ合って、近くのレストランに行った。そこでワインを飲みながら時間をかけて食事して、"Let's call it a day! "(これで今日は終わり)と赤い顔で退社していったものだった。なお、マネージャはもちろん居残りであった。

今度は台湾へ

米国でのソフトウェア開発は主に言葉の問題で苦労したが、何とか納期までにプログラムを完成させた。
そして、今度は帳票プログラムをインストールしに台湾の火力発電所に行くことになる。そこでは運命的な出逢いもあったが、その話は次回に。


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