ディベート甲子園を問う
いきなりです。
皆さんは、弁論と討論の違いは御存じですか?
早速、広辞苑で調べてみましょう。
どうやら両者に違いはないように見えますね。
しかし、実は1つだけ弁論と討論には大きな違いが存在します。
それは弁論と討論それぞれの目的です。
弁論の目的は議論を通して何らかの事象に対して結論を出すことです。
これは弁論という単語が、法廷や弁論大会など勝敗を決する空間において多く使用されているということから主張することが可能なのではないかと思います。
一方で討論の目的とは何でしょう?
討論の目的は議論の中で何らかの事象に対して様々な視点から理解を深めることです。
つまり討論は議論自体が目的化されているわけです。
これは討論という単語が、討論会など双方の考えを理解すること自体が目的とされた空間において多く使用されているということから主張することが可能なのではないかと思います。
さて、ある程度弁論と討論の違いが分かってきたのではないでしょうか?
整理すると。
弁論と討論は議論を行っていることに違いはない。
一方でその目的が議論を通して何らかの事象に対して結論を出すことなのか、それとも議論の中で様々な視点から理解を深めることなのかという点において違いが存在する。
即ち、弁論と討論は議論をするという観点においては弁論≒討論であるもののその目的にまで注目すると弁論≠討論という関係にあると言えるわけです。
弁論と討論の違いを踏まえて、ここからは全国各地の弁論部やディベート部が参加するディベート甲子園について考えていきます。
ディベート甲子園とは毎年夏に行われる全国の中学校・高校の競技ディベート日本一を決める大会です。
つまりディベート甲子園では勝敗を決める弁論が行われているわけです。
と、ここでディベート甲子園の開催意義を公式HPではどのように表記しているかを見て見ましょう。
さて、長文の引用となってしまったので要点を回収していきます。
まずは直接的に大会の開催意義を明記している場所を探します。
直接的に大会の開催意義を明記しているのは最終行です。
ではこの困難な課題を乗り越えるために、どうして対話を用いることが求められるのか?
これは引用した文章の冒頭に明記されています。
つまり、自分と異なった考えを持ち異なる環境に置かれた他者と互いに理解する姿勢が求められているからだそうです。
ここで引っかかるのが、対話を用いる理由が自分と異なった考えを持ち異なる環境に置かれた他者と互いに理解することではなく、その姿勢であるという点です。
他にも引っかかる点があります。
引用した文章の冒頭では他にも求められているものが明記されています。
この文章の何が引っかかるのか。
それは正解の決まっていない問題であるにもかかわらず、答えを導こうとしているという点です。
この他にも引っかかる点がもう1つあります。
それはこれまで記してきた能力を獲得するための条件を提示している個所に明記されています。
この文章の引っかかる点は、説得的に説明することが必要とされている点です。
説得とは世間一般的に相手方の意見を説き伏せることを意味します。
果たして困難な課題も対話を通して共に乗り越えられる社会の実現をするにあたって、相手方の意見を説き伏せる形で説明を行うことが最善の手なのでしょうか?
これまで見てきて見つかった引っかかる点は、
対話を用いる理由が自分と異なった考えを持ち異なる環境に置かれた他者と互いに理解することではなく、その姿勢であるという点
正解の決まっていない問題であるにもかかわらず、答えを導こうとしているという点
説得的に説明することが必要とされている点
の3つです。
上記の項目とそもそもディベート大会が弁論を用いて勝敗を決める形で開催されていることを踏まえると、ディベート甲子園においては飽くまでも相手を説き伏せることで自身の考えを勝たせることが重要視されていることが分かります。
しかし、グローバル化や文化の接触が進み、多様な価値観に基づいた様々な考え方を持った人々によって構成される様になった現代社会において求められるのはその多様な価値観に基づいた様々な考え方それぞれを理解し、認め合うことです。
即ち、現代社会においては双方の意見を交わす議論において自身の考えを勝たせることを第一に考える弁論よりも、議論の中で双方の考えを理解すること自体が目的化された討論の方が求められていると言っても過言ではないでしょう。
その為、現状の勝敗を重視した弁論を行うディベート甲子園は、困難な課題も対話を通して共に乗り越えられる社会の実現を行うという開催目的を基に考えると適当な形とは言えないでしょう。
勝敗と言う観点ではなくとも議論自体に面白みを見出すことは可能である以上、ディベート甲子園は弁論という勝敗を付ける形にこだわり続ける必要はないのではないだろうか?
もし弁論という勝敗を付ける形にこだわり続ける必要はないのであるならば、本来の目的に沿った議論自体を重視した討論を用いたディベート活動にディベート甲子園は変えて行ったり、置き換えていく必要性が存在するのではなかろうか?
僕からのディベート甲子園への問いである
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