おまけの人生が伝えるもの。

”これからどう生きてゆけばいいのだろう”

そんな言葉を、文字だけポンと置き去りにすると、なんだかとても弱気で深刻そうに見えるけど、実際はただ、ぼんやりと、昼寝をするように思っているだけだ。

私の今の人生は、”おまけの人生なんだ”と思っている。

別に人生をあきらめているわけじゃない。むしろ、それは逆だろう。かつて私は、たまたま体調が悪くて病院で診てもらったときに、偶然にもある個所に、初期段階の腫瘍が見つかったことがある。もう、かなり昔のこと、妻がまだ、妊娠4ヶ月の頃のことだった。その翌日には緊急の手術をし、検査の結果を待ったが・・・

それは”悪性の腫瘍”だった。いわゆるガンだ。

ガラガラと何かが崩れ落ちるような感じがした。生まれてはじめて”自分は死ぬかもしれないんだ”と思った。その後も病室ではずっと、生とか死ばかり考えていた。妻にはただでさえ、妊娠中の心の不安定な時期に、随分と辛い思いをさせてしまった。何度、泣かせてしまったことか。

幸いなことに、その後、約5年間は検査を続けてきたが、転移による再発の兆候は見られず、今もこうして無事に生きている。

やや特殊なガンだった。私はあの頃の、まだその手術の技術がない時代であれば、とっくに死んでる存在だ。もしも神さまというものが、人の寿命を決めているとするなら、私はとっくに死ぬべき存在で、私のDNAも元からそうプログラムされていたのかもしれない。

だから、私が今を生きているのは、”おまけの人生”なのだと思う。だからといって、べつに悲観的に思っているわけじゃない。あぁ、なんだかよくわからないけど、日々ぼんやりと過ごすのはもったいなぁとそんなふうに、ただ、のん気に思い、感謝しているだけなのだ。

だから、どう生きようかといつも私は考える。私に何ができるだろうかと、ずっと思い続けている。だからこうして、私はエッセイや詩を書いている。愛とか恋とか涙とか、恥ずかしくなるようなそんな言葉も、ためらうことなく、自分に向けて、誰かに向けて、書きたいままに書いている。

人は病気や死を強く意識してしまうと、自分も途方に暮れてしまうし、家族や大切な人たちを悲しませ、なんて”不幸なんだ”と思ってしまうけど、不思議にそれと同様の幸せは、必ずどこかに用意されている。

人が”不幸”と嘆いている時は、必ずその近くに今まで見えなかった幸福があって、それがいつしか見えるようになったという事実に、まだ人は気付かないでいるだけなのだ。もしかしたら、その幸福は、私に出来た悲しみによって、はじめて心が生み出したものかもしれない。

私の場合、それに気がついたことが、この人生の大きな収穫だ。だから私は考える。この”おまけの人生”をこれからどう生きようかと。大切なのは、決してその長さではない。

もしも明日、予期せぬ事故や病気で、この命が尽きたとしても、それはそれで、このエッセイや詩や想い出たちが、私に代わって、私の大切な人たちに、そっと語ってくれるのだろう。

ありふれてはいるけれど
”私がどう生きたか”ということを。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一