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【絵本エッセイ】うちの絵本箱#11「犬が主人公の温かく愉快で深い古典的傑作~『どろんこハリー~』」【絵本くんたちとの一期一会:絵本を真剣に読む大人による絵本本格評論】

0.はじめに

とうとう十号台に入りました。思っていた以上によく続いており、自分でも嬉しいですが、これもまずは皆様の温かいご支援のおかげであり、心からの感謝を申し上げます。そもそも、自宅に眠っている絵本について思うさまを存分に展開してみようというのが、企画を立ち上げたもともとの趣旨でしたが、小特集などを含めると、かなり手広く扱っております。小特集に限っては、近くの図書館の本なども使わせていただいているので、いささか「看板に偽りあり」かもしれませんが、皆様には引き続きご愛顧いただければと願っております。

さて、今回は、アメリカの往年のゴールデンコンビ(ジーン・ジオン&マーガレット・ブロイ・グレアム夫妻)による名作、『どろんこハリー』を取り上げます。前回猫の本だったので(佐野洋子作『一〇〇万回生きたねこ』)、今回なんとなく犬の絵本にしたくなったのかもしれませんが、この作品は、私自身よりもむしろ娘が気に入っていて、私が最初に図書館から借りて来た時から、何度も何度も読んでくれとせがみ、さらに私が買ってくると、自分で読めるほどに覚えてしまった、思い入れの深い作品です。大人の私からすると、最初はテクストが平凡な平均的家庭を舞台としているので、いささか物足りない気もしましたが、どうやら子供には得がたい魅力を放つようです。娘は最初から夢中でした。この子供たちの大好きな本を、なんとか大人にもわかるように読み解きたいと思います。とはいえ、一見シンプルなストーリーなので、どこから手を付けていいやらわかりません。なので、まず、手を付けやすい訳者の紹介から始めたいと思います。


1.渡辺茂男訳のすごさ

この作品は、アメリカの傑出した絵本作家の夫妻による作品ですが、日本の訳者もかなりの天才肌の人でした。一体どんな人物だったのでしょうか。


渡辺茂男について

 日本語の訳者は渡辺茂男(一九二八―二〇〇六)といいます。高名な児童文学作家、翻訳家で、日本の児童文学の世界ではかなり著名な人物です。生まれは、静岡で写真屋を営んでいた、十二人兄弟のあまり裕福ではない家庭で、敗戦を十七歳で迎える逆境に育ちましたが、戦後は単身渡米し、ウェスタン・リザーヴ大学で図書館学を修めました。その後もニューヨーク公共図書館児童部などに勤務し、帰国後、その経験を活かして、欧米の児童書の紹介と翻訳に尽力し、多方面で活躍します。主な翻訳作品に、あの名作『エルマーのぼうけん』や今回の『どろんこハリー』、創作絵本に『しょうぼうじどうしゃじぷた』(以上、福音館書店)などがあります(参考文献1参照)。親しかった児童書編集者(註:元福音館書店会長)の松井直さんによると、アメリカの公共図書館勤務での子供への読み聞かせの経験が大いに役立っていたそうです。ISUMI会(石井桃子、瀬田貞二、鈴木晋一、松居直、いぬいとみこが参加)というサークルに所属するなど、名だたる児童文学関係者とも親しく交流していました。正式な肩書としては、慶応義塾大学の教授でもありました。
 さて、こうした通り一遍の経歴だけでは何も語ったことにはならないでしょうから、どんなところが一流の翻訳者なのか、実際に『どろんこハリー』の原文と訳文とを照らし合わせながらみていくことにしましょう。


個々の個所について

まず、タイトルです。“Harry the dirty dog”が「どろんこハリー」になります。「汚いハリー」ではまったく感じが出ませんね。「汚い」→「どろんこ」、このじっとりとした、触覚を刺激する、具体的でポジティブな質感が、いい訳ですね。

続いて、ハリーがだんだん汚れていく過程の表現です。“He…got even dirtier.”が「すすだらけになりました」になります。ここも「ハリーはだんだん汚くなりさえしました」といった直訳ではなく、日本語として具体的な、はっきりとしたイメージの湧く表現になっています。「汚い」より、ずっと語感もいいです。

次に、「ハリーだ」とわかってもらえないハリーが、自分だと知らせるために一生懸命して見せた仕草についてです。“his old, clever tricks”が「しっているげいとう」と訳されています。「げいとう」という単語がなかなか思いつかない言葉であるような気がします。教養のなせる業なのでしょうか。ちなみに、厳しいことを言えば、「old」と「clever」に関しては、英語の方がより生き生きとしている気もします。きっと日本語の限界だったのでしょうね。

ハリーがして見せた芸当についての原文は、面白い表現で、“He flip-flopped and he flop-flipped.”となっていて、これは「ぴょんと さかだち すっとんと ちゅうがえり」と訳されます。なんと巧みな擬音語の使い方でしょう。「さかだち」「ちゅうがえり」の意訳も含め、とても愉快な響きです。続いての部分は、“He rolled over and played dead.”は「ころりところげて しんだまね。」になります。これはぴったりの訳ではないでしょうか。英語のリズミカルなセンテンスが、そのまま日本語にも響きよく移し替えられています。続く“He danced and he sang.”は「ダンスやうたも やりました。」です。これも英語から日本語への転換が、ごく自然になされている模範的な例ではないでしょうか。

「げいとう」が無駄だったくだりは、“Oh no, it couldn’t be Harry.”が、「なんだか ハリーみたいだけど、これは ハリーじゃないよ」とかなりの意訳になっていますが、臨場感がとてもよく出ています。よく言葉が選ばれていると思います。

次のブラシを探し出して、洗ってもらおうとおねだりする場面は、“He … sat up begging,”が「あらってくださいと ちんちんしました。」となっています。英語が完全に日本語化されていますし、ユーモラスでいいですね。

石鹸で洗ってもらったハリーの様子については、“Harry’s bath was the soapiest one he’d ever had.”が 「ハリーは、こんなに せっけんだらけに なったのは、はじめてです。」となります。「せっけんだらけ」というのが名訳だと思いますが、「soapy」という英単語が存在することすら、英語が苦手な私は知りませんでした。ハリーが泡だらけになっている様子が、目に浮かぶようです。続く“It worked like magic.” は「まるで まほうみたいに よごれが おちます。」になります。“work”というのは訳すのが難しい単語ですが、日本語的にすんなりとした表現に落ち着いています。「よごれがおちる」をつけたしたのがよかったのでしょう。

そして、洗い終わったハリーを見たときのみんなの反応です。“…, they cried.”が「みんな こえを そろえて いいました。」と、かなり意訳されています。これも言葉を相当補ったのが、功を奏して、臨場感を際立たせます。“Harry wagged his tail”も「ハリーは、しっぽを ぶるん ぶるん ふりました。」と、擬音語が効果を上げています。

最後に、“It was wonderful to be home.” が「じぶんのうちって なんて いいんでしょう。ほんとに すてきな きもちです。」です。日本語は二文になっていますが、名訳でしょう。詩人のような創作的センスで、心地よいという気持ちがよく表現されています。そして、“…, happily dreaming of how much fun it had been getting dirty.”の「そして、どろんこになって とっても たのしかったゆめを みました。」への翻訳。難しい構文なのに、とても軽やかにすっきりした訳になっています。これも直訳でありながら、かつ意訳である、ぴったりの訳だと思います。 完全に日本語の文章となりきっています。

 さて、いかがでしたでしょうか。このように、個々の個所を見てみると、渡辺茂男訳の良さが分かってくると思います。英語が一度解体されて、完全に日本語になりきっています。ずばり、正しく、なおかつわかりやすく、明るく楽しい訳なのです。アメリカの家庭生活の良さもどろんこの楽しさも犬の元気の良さも、自然にいきいきと伝わってくるのです。これぞ名訳ではないでしょうか!

それでは、次の節では、少々回り道ですが、この物語をより深く理解するのに、きっと役に立つと思われる、物語の背景としてのアメリカの五十年代の平均的家族の家庭生活について探っていきたいと思います。


2.一九五〇年代のアメリカの平均的家庭生活:物語の背景として

さて、先にも言いました通り、ここで少し回り道をして、物語の背景として、『どろんこハリー』が書かれた一九五〇年代のアメリカの平均的家族の家庭生活について、調べられた限りのことを書いてみようかと思います。

アメリカの一九五〇年代の家庭生活の動向

 『どろんこハリー』は一九五六年に出版されているようですが、少々調べてみると、どうやらこの五十年代のアメリカで、初めてサラリーマンの父親と専業主婦の母親との間に子供が複数人いて、郊外に一戸建てを作り、自然の中で安心して暮らすという平均的核家族の家庭のスタイルが普及したようです。『どろんこハリー』は、まさにこの時期を代表する作品であり、その時代を映す生きた鏡となっているといえるのではないでしょうか。

 さて、改めて一九五〇年代とはどんな時期であったのか、まとめなおすと、それは核家族化が進行し、郊外へと家族がどんどん進出していく時代であったといえるようです。

まず、第二次大戦直後から、復員軍人とその家族のために、フォードの車と道路網の普及の効果もあって、建築ラッシュが始まりますが(参考文献2参照)、特に一九五〇年代に入ると、郊外への進出が始まります。一九五〇年だけで一三九万六千戸が新築されました(参考文献3参照)。また、郊外に出る主な目的は、子供のための良い学校と地域社会の一員としての生活、健康に良い環境でしたが、ここで子供の数が一挙に増えます。一九五〇年には二四三〇万人だった五歳から十四歳までの子供が、一九六〇年には三五五〇万人にまで増加します。これらの家族は、祖父母と離れ、核家族となって、大都市郊外でさかんな向上心を発揮し、社会活動に参加して、新たな家族のスタイルを作り上げていくのです。その際に、サラリーマンの父親と専業主婦の母親、瀟洒な一戸建ての家と芝生付きの庭、複数の行儀のよい子供たち、というアメリカの典型的な家族イメージが出来上がったといいます。

 こうした家族像が、先にも言った通りの生きた時代の鏡としての『どろんこハリー』にもよく反映されています。『ハリー』に登場する家族は、サラリーマンの父親(スーツを着ています)と、どうやら専業主婦らしき母親(エプロンを締めています)と、行儀のよい(お父さんの言いつけによく従います。身なりもきちんとしています)二人の姉弟です。これは、先に挙げたような家族イメージとよく合致しています。

 また、これは調べがつかなかったのですが、おそらく、こうした豊かな生活の普及によって、ペットを持つ家庭が増えたということもいえるのではないでしょうか。ハリーのような犬や猫を飼う家庭も増えていったに違いありません。

 他に『ハリー』の挿絵からは、家に二階があり、手すり付きの階段から広い風呂場があること、大きな木の生えた柵付きの広い庭があること、などに気づきます。

 それ以外に、ことさらに五十年代を思わせるのは、機関車が走っていることと、工事現場が多く描かれていることです。機関車というと、時代を感じますし、工事現場は、先ほど書いた、建築ラッシュの様子を如実に語っているように思います。どちらも、当時の風景をいきいきと映し出しています。古典の絵本には、当時の風俗を風化させないという意義もあることが分かります(逆に、時代を超えたすばらしさが浮き彫りになるというののも、大切な要素となってくるとは思いますが)。

 今一つはっきりしないのは、ハリーがどろんこになる最後の場面で、大勢の野良犬が出てくる点です。当時は野良犬がいっぱいいたのでしょうか。今もそうなのかわかりませんが、まだ戦争の影響が残っていて、あまり衛生状態と治安が良くなかったのかもしれませんね。これは調べがつきませんでした。

 とりあえず、ペットとしてのワンちゃんを飼える家は、まだ少数であり、当時においてはアメリカン・ドリームの先であったのかもしれません。犬はかわいいものですよね。私の親戚にも犬を飼っている人がいますが、もうお歳で毎日の散歩が結構大変なのに、とてもかわいがっています。犬を飼えるのは、平和で豊かな証拠です。子供時代に犬と共に長く暮らせた人は、よっぽどの幸せ者に違いありません。『どろんこハリー』はそんな子供たちの夢と憧れをよくよくくみ取った作品であるのです。

 『どろんこハリー』の造形世界は、こうした夢や憧れを懐に抱きながら、大きな辛い戦争を経験した後の、平和を享受している希望に満ちた幸福な社会のイメージで成り立っているのではないでしょうか。私は、こうした幸福感に満ちた雰囲気とそれを成立させている背景としての家庭像が、『どろんこハリー』をことさらに子供たちが好む、大きな理由だと思うのです。

平和な家族の夢。なんて素敵な題材でしょう。子供たちは、きっと『ハリー』を読みながら、思いっきり平和で幸福なひと時を堪能するのです。まさに至福です…


3.結語:犬が主人公の温かく愉快で深い古典的傑作

それでは、第三節に入るにあたり、今までの議論を踏まえつつ、改めて一つの決まった切り口で、この作品の魅力についてまとめていきたいと思います。

 その切り口を一言でいうと、まさに主人公が「犬」だということです。つまり、この作品は、犬とは「忠実」な存在であるという至極プロトタイプ的なイメージに沿いつつ、「ハリー」という、特別な名犬ではないという意味で平凡だけれども、愉快なワンちゃんを主人公にすることで、より子供に好かれるような、感情移入しやすい作品にすることに成功しているのです。

 そもそも、犬嫌いの子供は少ないのではないでしょうか。犬はいつでもハアハアと荒い息をし、尻尾を振っている元気な動物ですが、同時に飼い主に忠実で、かわいい動物です。大体の子供たちは、そんな元気でかわいい犬が大好きなのではないでしょうか。

 個人的な話で恐縮ですが、基本的には猫派の私も、犬のかわいさがわかります。先ほども少し書きましたが、親戚にトイプードルを飼っている人がいて、しょっちゅう、近所で散歩する姿に出会い、なじみのない私にすら飛びついてくるワンちゃんの姿に、胸が熱くなるからです。犬もまた猫と違った魅力の、人懐っこくてかわいい動物だと思うのです。

 私のようなクールな大人ですら、犬がかわいいのですから、動き回る小さな生き物が大好きな子供には犬の魅力はたまらないものでしょう。『どろんこハリー』には、その犬の魅力が、ふんだんに生かされていると思います。ハリーも元気で、遊びまわり、さまざまな芸当をし、家族に愛され、家族を愛しています。大変犬らしいのではないでしょうか。

その上で、この主人公ハリーには、さらに感情移入しやすいような性格が付与されています。特別な血統書付きの名犬ではないという意味で、「普通」ですが、愉快なかわいいワンちゃんでもあります。特に、お風呂ギライなところは、同様な傾向の子供の気持ちの代弁をしているのではないでしょうか。

どういうことかというと、よく犬や猫だけではなく、子供にもお風呂を面倒くさがる子がいますよね。私の娘も昔そうだったのですが、お風呂に無理やり連れて行こうとすると、どうしても「いやいや」をしました。これは、水を怖がる陸の生物の本能なのかもしれませんし、あるいは単に、毎日同じことを繰り返すのが面倒な人間の性なのかもしれませんが、お風呂嫌いの子にとっては、毎日のお風呂は苦行のようなもののようです。ですから、ハリーのようにお風呂嫌いという性格は、とても感情移入しやすいのではないでしょうか。つまり、ハリーはお風呂が苦手な子供たちの気持ちの代弁者として、心をわしづかみにしているのです。

 また、ブラシを隠すという行為も、いたずら好きで頭がいい証拠であり、犬らしく、感情移入しやすい要素になっているのではないでしょうか。かわいいし、賢くて、感心します。そんなハリーを子供はますます気に入ると思われるのです。

次の、遊びまわって、どろんこになったという行動も、子供のテンションをかなり上げるのではないでしょうか。特に、「どろんこ」については、あまりに腕白な行動で、いけないことをしているというドキドキ感の魅力がある気がします。少なくとも、大人にとってはただの汚い子供の遊びにすぎないかもしれませんが、子供にとってどろんこは、度を過ぎてはいけないとわかっているのに、ついついはまってしまう、大好きな遊びの一つではないでしょうか。

 特に、どろんこのドロドロまたサクサクした手触りと温もり、固めても固めても崩れてしまうお団子の面白さ、山やトンネルをつくるときのわくわくした高揚感、そのトンネルに水を流すときのドキドキとする達成感…どんな子でも夢中になるでしょう。どろんこ遊びのきらいな子供というものを、聞いたことがありません。そこは汚いといって避けてしまいがちな大人とは違う、子供だけのきらきらした王国の一部なのでしょう。きっと大人には足を踏みいれることの許されない、子供だけの聖域なのです。

 続いて、家族の人にわかってもらえなくなって、いろいろな芸当をしたという件です。犬らしいですし、これも、かなり芸達者で、賢いなあと感心させられます。死んだ真似というのは珍しいですし、歌やダンスってどうやるのでしょう。単純に興味が湧いてきます。

 そんな愉快で愛嬌のあるハリーは、やはり家族の人に大変愛されています。ブラシを掘り出すという機転を利かせると、家族の人たちはみんな、すぐにハリーだとわかってくれました。よほどかわいがられているし、ハリーも家族の人たちが大好きなのだなとわかります。いいワンちゃんであり、ペットと飼い主として最高の関係ですよね。こうした要素も、子供にはかなりの好印象でしょう。

 最後に、昼寝好きという、のんびりとしたところ。至極普通で、のんびりとしていて、等身大の主人公として、もっとも感情移入しやすい性格かもしれません。物語の結末、落ちとしても、軽くて優しくていいですよね。

 このように、ハリーが主人公として犬であることが、大変大きな効果をもたらしていることが明らかになったかと思います。つまり、主人公がかわいい犬であり、等身大かつ愉快なハリーであること、この二つの要素の絶妙なバランスが、物語全体を非常に明るく、穏やかで、かつ、楽しく、温かいものにしていると思われるのです。

 さて、それでは、この物語の魅力として、他に軽く二点ほど指摘して、まとめに入りたいと思います。

第一に、起承転結がはっきりしている、プロットの良さという点。そして、第二に、わかりやすいメッセージが隠されているというメッセージ性の点です。

 まず、起承転結についてですが、シンプルで自然だけれど、静かな波乱に満ちた王道的な展開になっていることが指摘できます。ハリーがお風呂嫌いという感情移入しやすい設定ではじまり、ブラシを庭に埋めてしまうという、愉快な「起」、遊びまくってどろんこになり、白いぶちの黒い犬になるというあっと言わせる展開の「承」、そのせいで家族にも自分をわかってもらえなくなるという、ハラハラドキドキの「転」、最後に最初の埋めていたブラシを掘り出してくるという機転のおかげで、体を洗ってもらい、元の黒いぶちの白い犬に戻れて、家族の人にもわかってもらえたという、スリルと幸福感に満ちたすばらしい「結」。英米の作品を日本的起承転結でまとめるのは、いささか不合理かもしれませんが、改めて当てはめてみると、ぴったりはまるのです。

また、プロットということでいえば、白と黒の色が逆になるという発想は、大変巧妙ですし、ブラシがある意味の伏線になっている点も、最後でそれが見事に回収され、大変爽快です。このように、一見シンプルに見えますが、なかなか凝った筋立てになっていることが分かります。

 次に、わかりやすいメッセージ性という点です。まず、お風呂に入ること、清潔が大切だということが、あまり押しつけがましくない形で、学べるようになっています。汚いままだと、ひどい目に合うよ、ということが、さらっと描かれているといっていいと思います。また、ハリーが自分だとわかってもらえなくなった件からは、人は見かけに騙されやすいこと、さらに、大切な人に自分だということがわかってもらえなくなるのは悲しいこと、がそれとなく伝わってきます。特に、最後の点については、ある意味で深刻なアイデンティティーの危機であり、誰にも必要な(家族の)愛情の問題にさらりと触れられていることが分かります。このように、結構深刻なメッセージというか、真理というか、深いテーマが隠されているのです。    

 ただ、この点に関して注意しなければならないのは、この作品が決して、高尚な道徳を説いた作品ではないということです。もしそんな高尚一辺倒な作品だったら、子供たちはついてこないでしょう。あくまでもかわいい普通のワンちゃんが経験した「お話」なのです。そこは、間違ってはならない点だと思います。

 と言いつつ、こうした点をすべて含めて考えていくと、この作品のすばらしさを次の三点にまとめられると思いました。第一に、第一節でみたような、優れた訳者の手になる、のびのびした自由な文体と、これは、初めて言及しますが、すばらしくほほえましく愛らしく、いきいきとした絵です。第二に、第二節で述べたような、五十年代のアメリカの平均的核家庭を舞台とした、明るく温かで平和なホームドラマという安定した温かな世界観。第三に、第三節で述べたように、かわいい犬であり、愉快かつ等身大の、感情移入しやすい主人公と起承転結のはっきりした物語、わかりやすいメッセージ性です。

 私は、こうしたすべてを考え合わせると、この作品を一言でまとめるならば、「犬が主人公の温かく愉快で深い古典的傑作」とまとめる事が出来ると思いました。絵も世界観も温かく、プロットもキャラクターも文体も愉快で、メッセージ性も含むという意味で深い、やはり古典中の古典なのです。

さらに、多少の牽強付会を承知でいうならば、このように、色が逆になるという面白い発想やブラシという伏線、自分の居場所を失うかもしれない危機という波乱の展開だけでなく、特に平凡な主人公が、未知の冒険を経験した後、最後に幸福感に満ちた結末を迎える点で、一見シンプルですが、瀬田貞二の言うような一種の「往きて還りし」の冒険物語である、と言えるような気がするのです。その意味で、この『どろんこハリー』は、子供たちに夢と希望を与える児童文学の王道を行っているのではないでしょうか。少し飛躍してしまいましたが、私は以上のようなことも想像してみました。

 それでは、本当に最後になりますが、今回も、絵の魅力については、ほとんど触れることはできなかったと、大変残念に思っていることを、申し述べさせていただきたいと思います。いつもそうなのですが、絵本の研究である以上、絵についても言及しなければならないはずなのに、文学を偏向してきた人間ですので、どうしてもテクスト分析に偏りがちです。いつかこの悪癖を克服することを将来の課題にしたいと思います。

また、一見シンプルなので、かえって、山を貼りにくく、「語るに落ちる」という懸念が生じていたことを、正直に申し上げておきます。間違いなく長年愛され続けてきたにふさわしい名作でありながら、というか、であるからこそ、以前にもどこかで同じ表現を使ったような気がしますが、「静かなよどみは深い」のです。なかなか語りつくせないのです。今回も、切り口をきれいに一つにまとめ上げる事が出来ず、どこか散漫なものになってしまいました。ちょっと残念です。

どうして絵本ってこんなに難しいのでしょう。読んで眺めればただただ楽しいのに、語ろうとすると、途端に難しくなります。今回も、今書いた通り、「語るに落ちる」にならないように気を付けつつ、筆を擱きます。『ハリー』、本当に一見のんびりとほのぼのとしつつ、キリっとスキっとした結構の、名作ですよね。絵もかわいいし。今回も、中途半端ですが、絵本を読み味わう楽しみを真剣にとらえようとしている者の手になる、冒険的試みとして、お目こぼしいただければ、幸いです。


参考文献

1)松居直『翻訳絵本と海外児童文学との出会い:シリーズ・松居直の世界③』ミネルヴァ書房、二〇一四年

2)D・ハルバースタム著、金子宣子訳『ザ・フィフティーズ』上、新潮社、一九九七年

3)TIME-LIFE BOOKS編集部原著編集『赤狩りとプレスリー:アメリカの世紀⑦一九五〇―一九六〇』西武タイム、一九八五年

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