見出し画像

向こう側を観る人

先日「歩く水のような人の形をしたもの」さんという、少し変わったハンドルネームの方からフォローをいただいた。
どういう記事を書いている方だろうと思い、最近の投稿をいくつか読ませていただいた。
アートに造詣の深い方らしい。芸術家のデイヴィッド・ホックニーについて書かれた記事があり、何気なく読み進み始めた。

デイヴィッド・ホックニーは、ついこの間まで東京都現代美術館で展覧会が開催されていたので、取り上げたnote記事もちらほら見かけていた。
ぼくはそれらを大して熱心には追いかけていなかった。
正直、ホックニーの絵は、それほど好みでなかったし。何なら「どこがそれほどよいのかピンとこない」とさえ思っていたくらいだ。そもそもポップアートというジャンル自体に関心が薄いのかもしれない。
でも「素晴らしかった」と書いている記事が多かったし、実物はきっと本当に素晴らしかったのだろうと、今では考え直している。

「歩く水のような人の形をしたもの」さんの話だった。
記事は長かった。かなり長かった。
そして、どうしても語らずにはいられない何かを深く熱く語っていることが、液晶モニタを介してはっきりと伝わってきた。
要旨としては、ホックニーの晩年(まだご存命だが。御年86歳)の作品と作風を通じて、《芸術とは何か》に肉薄しようとしている論評である。
絵を描くとはどういうことか。
具象とは。抽象とは。その区別を超えた先にあるものとは。
「自己表現」という救いがたい病に冒された近現代人の鬱屈。そこから離脱して行くホックニーの世界。

普段、ぼくが何となくぼんやり考えていた事柄が見事に論理化・言語化されていて、思わず唸らされた。
これからの自分の作品作りにひと筋の鋭い光が射し込む感覚に襲われた。
あえて「風景/光景」といった言葉の用い方をするところにも、「この人は物事をよくよく考えているな」と感じさせられるのだった。

「歩く水のような人の形をしたもの」さんが述べていたことに、さらに考えを継ぎ足すとしたら、これは主観と客観の問題でもあると思う。
つまり「観ること」と「在ること」の関係性をどう理解するか/直観するか/受容するか。
具象と抽象が互いに切り離されては存在し得ないように、主観と客観も「鏡の中の鏡」のような関係にあるのかもしれない。

鑑賞者やクリエイターによって少しずつ異なる切り口を、ホックニーの芸術世界は受け止めることができる。それだけの豊穣さを有しているのだとも言える。

興味を抱かれた方は、ぜひご一読を。
素晴らしい記事に出会えたことに感謝。

抽象は具象の対極ではない。抽象には具象の生と死が織り込まれ溶け込んでいる

当該記事より


いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!