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言語化が生み出すカテゴライゼーションの是非

はじめに・背景

私たちは何かの概念や思ったこと、考えたことを言語化し、相手に伝達することによって人は理解をします。言語化には、口を使って話すという行為があったり、書くという行為であったり、手話や映像といったビジュアルでの行為があったりします。

しかしながら、言語化をすることによる弊害はあります。

それは、言語化によって"ウチ""ソト"との概念が生まれてしまうことです。

たとえば、「日本人」という言葉が存在するのは、日本人であると一般的に認識されている人とそうでない人を分けています。

IUEO株式会社の田中さんは、IUEO株式会社に所属する人であり、それ以外の人はIUEO株式会社には所属して"いない"ということを決定しています。

私たち人間は、何かを言語化することによって、共通の概念を一つのその言語の中に閉じ込めて、うまく整理しようとしています。

一方で、言語化をすることによって、ウチとソトの概念が生まれてしまい、時にはそのウチとソトの境界線の仕方がおかしかったり、時代にそぐわなくなったりしています。

最近では、肩書きなんかあまり重要ではない、となったり、たとえば男性や女性といった性別についても触れられることもあります。

言語は不完全なものであると認識しなければなりません。

しかし、私たち人間の最大の発明は"言語"です。

"学び"のすべての根源にあるのは、言語であり、学びを考える上では言語は切っても切り離せない概念です。

こちらのブログでも紹介しましたが、今井むつみ著の『学びとは何か』において、以下のような表現をしています。

子供の言語の習得の過程とは知識の断片を貯めていく過程ではなく、知識をシステムとして作り上げていく過程に他ならない。
<今井むつみ 著『学びとは何か』本文より>

私たちは言語を操ることによって、脳に知識を記憶することができ、そしてまた誰かに何かを伝え、その伝えたことを保存することができるのは、言語があるからです。

また、ユヴァル・ノア・ハラリ著のサピエンス全史では、ホモサピエンスがネアンデルタール人との戦いの中で、ホモサピエンスが存続した理由について「虚構を共有する」ことができたからと述べられています。簡単に言うとお互いが思っていること、描いていることを共有することができるので、私たちは組織をはじめとする他者との協働が可能になります。それも別々の役割を設けて。これは間違いなく言語でのコミュニケーションや概念を理解することによって、できる限り自分の思っていることを相手に伝えることができるため、人間はいまや哺乳類界のボスに君臨しているわけです。

一方で、この言語化をするという行為について、色々と思ってしまうことがあります。それがまさに”ウチ"と"ソト"の概念を作り出してしまうと言うことです。

今回、ブログに言語化をすることによってカテゴライゼーションを生み出すということを書こうと思ったのは、言語がもたらす恩恵と弊害について考えたいからです。

言語化をすることはわかりやすい、ただ排他的になる

何かのミーティングでよくこう言います。

なかなか言語化できないのですけれど。。。〇〇は〇〇で。。。

このようなシチュエーションはありませんか?私もよくこのような局面に遭遇します。そして私たち人間は、必死に言語化しようとしています。

段々と言葉にしていくと、相手は「あー、なんとなく言わんとしていることはわかった」、とこんな感じになります。

しかし、100%あなたが思っているそのままの概念を伝えることは成功しているわけではありません。

ある程度の情報は伝えられているという事実は素晴らしいことなのですが、実は言語化をすることによって、「言語化されたもの」、と「言語化されなかったもの」、が存在するわけです。

そして、受けては言語化されたもののみを捉え、言語化されなかったものは無視されてしまうのです。

確かに8割程度の理解を求めるのであれば、それで良いのかもしれません。

しかし、10割は伝わっているわけではありません。

特に日々のコミュニケーションにおいて、相手に伝わりやすい、わかりやすい、というのは、様々な複雑な概念を"簡略化"してしまっています。

たとえば映画館でみた話題の映画のあらすじを相手に伝えようとする時、みなさんはどのように紹介するでしょうか。

これは私はいつも迷ってしまうのですが、最初の登場人物の背景も話すべきなのか、それともいきなり結末から入るのか、ネタバレするところまで話すのか、そうでないのか。

やがて私はこう言います。

「ざっくり言うと」

この言葉は確かに便利で、この後に続く内容を伝えると、ああなるほど、となるのですが、正直本当の内容を理解するための1割にも満たないことが多いわけです。

そして、あらすじの説明が下手だと、なんか映画面白くなさそうだな、となります。それは受け手が発信者から受け取る言語情報のみを頼りにし、それ以外の内容がどのようなものか、を全く考えなくなってしまうからです。

わかりやすさ vs 正確な言語表現

上で述べてきたように、わかりやすさと正確な言語表現は永遠のテーマです。

正確に伝えようとすれば、わかりづらくなりますし、わかりやすさを求めるとそれは正確から遠くなります。

そして、そもそも私たちが見ているもの、聞いたもの、触ったもの、などつまり非言語的なものに関しては、100%忠実に言語によって、その人が感じた内容を言語化することは不可能です。

それでもなお私たち人間は言語化をすることによって、できるだけ相手に情報を伝えようとします。


だいぶ前に購入をしておきながら、まだちょっと読めていないのですが川内有緒著の『目の見えない白鳥さんとアートを見に行く』という著書はまさにどのようにアートを言語化するか、ということについてフォーカスを置いた本になりますし、自分たちがみたビジュアルの情報は相手もその情報や前提を知っているという無意識下のバイアスがあったりするわけです。

それでもなお、私たちは言語活動をやめない

それでもなお、私はこうしてブログにして自分の感じたこと、考えたことを言語化します。

皆さんも日々何かを書き、何かを言葉で発したり、合図をして、自分が伝えたいことを伝えようとしています。

この行為が実は人間の根幹にある活動なのかもしれないし、永遠に解けない複雑なパズルに挑戦しているような、そんな気さえもしてきます。

確かに言語化をすることによって分断を生んでしまいます。

女性と男性と表現をしてしまえば、女性はどんな属性か、男性はどんな属性か、と意識がいってしまいますし、「インクルーシブであることが大事」、と表現すると言うことは、すなわち「インクルーシブでない」ことがそもそもの概念として存在することを暗示しています。

こうして私たちは言語を扱うことによって相手に思考や感情を伝達できる一方で、概念の分断化も生んでしまっています。

ただし私たちは言語を用いなければ、何かを伝えることができないし、何かを共同作業することも、助け合うこともできません。

そんな魅力的な言語についてこれからも考えていきながらも、言語化をすることによって"ソト"を作ってしまっていることを意識することが大事だなと思います。

そして、時代の変化とともにどのように言語化をすることが望ましいのかを考え、これまでの言語化されてきた枠組みを破壊して、再構築することが必要なのではないでしょうか。

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