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#学びを止めないに対する違和感。そもそも学びって止まるんですか?

新型コロナウイルスが日本国内で話題になりだした、2月ごろ。経産省から、#学びを止めない未来の教室 というパワーワードのもと、多くの教育関係企業が一部サービスの無償提供などをはじめました。

GIGA構想も先日、補正予算の申請が承認されたりと、ここにきて一気に教育のICT化が進んできています。

一方で、#学びをとめない というワードに対して、個人的に違和感があります。学校がないと学びは止まるのか。ということです。課題がなければ学ばないのか。授業がなければ学ばないのか。本当にそうでしょうか。

正直、学びは止まることはない、と考えています。私が定義する学びはもっと広いところにあると思っています。

そもそも「学び」とは何なのでしょうか?そこで学びについて調べてみると以下の書籍と出会いました。すぐにAmazonでポチり、この週末に読み進めました。

認知心理学の観点から学びについて記述がされており、非常に興味深い内容でした。今度こちらの書籍について別のエントリーで詳細に書きますが、今回は定義だけにフォーカスして書くと、以下の記述があります。

「学ぶ」ということは「覚える」ということと深い関わりがある。そこで、学習を「記憶」と結びつけて語る人は多い。一方で、「知識」もまた、「学ぶ」ということにとって重要である。
<今井むつみ 著『学びとは何か』本文より>

なかなか深いです。「記憶」「知識」が学びには親密な関係性であることが伺えます。そもそも二つの熟語は、どう違うのか、というのも事例をあげながら述べられています。(これも非常に面白い)

端的に言えば、

知識と記憶とをスパッと二つに分けたら、覚えたことが「役に立つ」か、「役に立たない」かの線引きの基準にできるかもしれない。
<今井むつみ 著『学びとは何か』本文より>

と述べられています。

では、ここで改めて、「学びをとめない。」ために努力する学校や教育関連企業は、学びを提供しているのか?

答えは、Yesだと思います。皆さんどのようにすれば学びを供給できるのか、本当に懸命に動いてくれています。本当に素晴らしく、日本教育がここまで高い質を保ってきた所以が発揮されていると思います。一方で、書籍での定義を使うと授業での学びは記憶寄りか、知識寄りかでいえば、実生活や将来よりも、テストのため、単元のため、と近視眼的に切り取れば「記憶」の意味づけが大きい部分かと思います。

しかしながら、彼らの努力があってしても、休校の措置の中で、供給の観点でいうと十分ではありません。公立学校は、郵送で課題を2週間分送っていたりしますし、オンライン化が進んでいる私立学校でさえ、週に15時間程度の学習時間の確保。1日換算すると3時間です。お世辞にも足りているとは言えません。それが現実であり、先生も生徒もこれが今の限界です。

では、ここでもう一つ質問です。それ以外の時間は、学びが止まっている状態なのでしょうか。

答えは、Noだと思います。生きていること自体が、何らかの学びに繋がっていますし、今回のコロナで外出自粛が強いられている中で、工夫して何かをすることは学びの一環でありますつまり、これは知識寄りの考え方です。こう考えると、そもそも学びが止まるなんてことはありえないです。もちろんぼーっと過ごす生徒もいますが、特にこういう行動が制限されている状況下では何らかの生活するための知恵は絞っている母数は夏休みなどに比べればではないかなと思います。

では、こうした現状の中で、より良い学びを提供するには、今後どのような学びを提供することが望ましいでしょうか。先ほど記載しましたが、今の時期は学校や外部から生徒へ課題を与えたり、授業を遠隔で提供するには限界があります。

であるならば、役に立つ知識習得のために今は時間を割いたほうがいいのではないかと考えます。

では、役に立つ知識とは何でしょうか。それは、人によって違います。例えば、サッカー部に所属している生徒と吹奏楽部に所属している生徒とでは、役に立つ記憶はそれぞれの部活において全く異なります。将来の夢だってみなさんバラバラです。つまり、自分にとって役に立つ知識は、違うのです。

そして、そのようなものは意識するわけではなく、普段の日常の中で無意識のうちに個々人は自分の役に立つ記憶を習得したいと潜在的に思っており、熱心に打ち込みます。おそらく自粛を強いられる環境下であっても、先生や親が強制しなくても打ち込んでいるでしょう。

しかし、それはすでに役に立つと自覚している、もしくは意識がある時点で、自分がその道に進むと決めたことや興味のあることであることを指します。何が言いたいのかというと、過去にあった何らかのきっかけや経験により、既に極めていくための基盤ができているということです。学び方を知っているため、あとはそれを蓄積していけばいいわけです。書籍では、例えば幼児が言葉を発しない状況から母国語を習得から始まり、その言語を駆使してさらなる知識を獲得していくことがそれにあたると述べられています。ようは情報を知識としてペタペタ貼っていくのではなくて、知識を集約するためのプラットフォーム=素地を作ることが重要です。

子供の言語の習得の過程とは知識の断片を貯めていく過程ではなく、知識をシステムとして作り上げていく過程に他ならない。
<今井むつみ 著『学びとは何か』本文より>

こうした素地のことを、書籍では、「知識システム」と定義しています。なるほどなあと。

話を戻しますが、では、今の休校の時期に何をすべきなのか。と考えた時に、従来型の各教科に必要な「記憶」の習得に加えて、「新しい知識システム」の構築に関すること、をするのがいいのではないかなと思っています。つまり、まだ意識のない分野への挑戦のことを指します。

どういうことかイマイチよくわからないかもしれませんが、簡単に言えば、「新しく個々人が何かに打ち込めるものを探せる機会を提供する」、ということです。

もちろん、簡単に探せるものではありません。生徒一人一人趣味嗜好は異なりますし、いつそんな自分の打ち込めることをみつけられるか、なんてわかりません。しかし、探しに行こうとすれば・そこに時間を割くことを増やせば、早く自分の打ち込める何かを見つけることができます。普段、学校があり、授業があり、部活があり、塾があると、なかなか自分について見つめ直す時間はありません。

今は、比較的時間がある中で、学校として、生徒一人一人にとって新しい知識システムが構築できるような、質問や課題を出してあげるといいのではないかなと思います。

その一つが、探究だと考えます。様々なテーマや質問、課題を用意し、それについて、好きなように調べて、好きなように行動させる。もちろん生徒の考えるフレームワークは限られているものだと思うので、ファシリテーションやコーチングは非常に重要となりますが、最終的には当人しかその問題に立ち向かうことはできません。ですから、生徒に対して課題配信や学習サポートが十分に対応できない現状においては相性がいいのではないかと考えています。

少々まとまりのない、文章に終始なってしまいましたが、この期間を使ってよりクリエイティブに、学びたい意欲を掻き立てるように、普段の授業とは全く違った観点からアプローチしてみては面白いのではないかなと思います。

ある意味とても変則的な日常に変化している現状において、本来はこうあるべきと捉えるのではなく、今しかできないことは何か。に焦点を当てて学びを実現していってはいかがでしょうか。





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