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転職を経て再び日本語教師へ|世界の日本語教師たち Vol.4(前編)|上本洋平さん

 このedukadoページでは「世界の日本語教師たち」というテーマで、毎週世界を股にかけて日本語を教える先生たちの現場のリアルな声を取材した記事を配信したいと思います。
 第4回では、” 転職の経験から再び日本語教師へ”と題してお届けします。


今回の日本語教師:上本洋平さん
大学で中国に留学。留学後に日本語教師のボランティアを行なったことをきっかけに、日本語教師養成講座を受講。シンガポールの日本語学校に就職。その後他の職業に転職するも、現在は再び日本語教師として都内の学校に勤務中。

インタビュアー:Jun
埼玉県在住のフラガール。国際観光専攻。趣味は海外ドラマとJ-popアイドル観賞。観光学を通じて世界を学ぶうちに、日本文化について深く知りたいと思いedukadoへインターンシップとして参画。現在はPRを担当。多くの日本語教師へ取材する傍ら、日本語教育を取り巻く環境を改善すべく活動中。

ちょうど就職氷河期であったために

  私は、祖父が満洲鉄道のエンジニアで、母も中国で生まれたため、子どもの頃から中国文化にふれることが多くありました。また、小さい頃に近くに中国語の先生が住んでいたこともあり、小学校4年生の時に中国語を勉強し始めました。こういった背景から大学を中国に留学することになりました。

—ウクライナ人留学生との出会いが教師へのきっかけに
  
  留学先の中国で、1年ほど広州の大学に通った際、ウクライナ人の留学生に出会いました。彼女の本当の専攻は日本文学で、日本語で会話をすることもあり、日本について質問をされたのですが、全然答えることができませんでした。彼女から日本語で「あなたは本当に日本人ですか?」と聞かれたほどです。その時に日本人として恥ずかしいなと思い、帰国して機会があればもう一度勉強し直してみようと思いました。
  
  ちょうどその時、住んでいた近くのおばさんが日本語教師のボランティアをしていました。「あなた中国語わかるなら手伝ってよ」と言われ、お手伝いしたことが、初めて外国人に日本語を教える経験になりました。

—420時間の養成講座に通う
  
  その後帰国しましたが、ちょうど就職氷河期であったためなかなか仕事も見つかりませんでした。 “ならばいっそのこと資格を取ろう”と日中は仕事をし、夕方から日本語教員向けの講座に通い資格を習得しました。当時働いていたところが、夢を持った人が集まる職場でした。芸術家を目指していたり、大学院で論文を書いていたりする人がいたのでそういう人たちに感化されて頑張っていました。早く教壇に立ちたいという思いも強かったです。

—シンガポールで夢の日本語教師へ
  
  その後、シンガポールの新設の日本語学校に就職をしました。実はその時、留学体験を綴ったウェブサイトを作っていて、そのご縁もあって就職が決まりました。ただ私自身、一般企業を経験せずに学校に就職したため、行き詰まりを感じ3年弱働いて日本語教師から他の企業に転職をしました。


—教師から離れサラリーマンになる 
  
  サラリーマンとして、働いていた時は営業職や生産管理などに就きました。仕事の関係で中国やシンガポールに住んだこともありました。サラリーマン生活の中で1日だけ、私が日本語教師だったと聞きつけた人に声をかけられ応援で教えに行ったことがありますが、教師とは離れた生活でしたね。ただ言葉を使う仕事は割と多く携わりました。仕様書の英訳、和訳や商談の中国語通訳をしたこともありました。

 
—再び教育の世界を志すことに
  
  十数年ほどサラリーマンを経験した頃、身体を壊してしまいました。その時“自分が一番やりたいことはなんだろう”と改めて考えた結果、日本語教師だと強く感じました。そこからとある日本語学校の求人を見つけ、無事採用が決まったので、日本語教師としてまたスタートすることになりました。

日本語学習環境も変化し続ける

—学んで気がつく日本語の難しさ
  
  主に中国人・モンゴル人・ベトナム人の進学希望の学生に教えています。
  中国語のほかにベトナム語も少し勉強していますが、特に日本語は動詞の活用複雑だということがわかりました。日本語には自動詞・他動詞と細かく分類がありますが、中国語やベトナム語には日本語ほど明確な差はありません。活用するということがとても難しいなと感じます。

—様々な経験を経て感じる教員のやりがい
  
  なかなか話そうとしなかった人がある日急に会話をするようになった姿を見るとやっていて良かったと感じます。昔、立ち上げに携わったことがあり、来日前研修として半年間ベトナムに駐在していたことがありました。その中に日本語がよくできるけれど、全然話さなかった人がいました。ずっと話さなかったのですが、ある日テストが終わった後すごい勢いで話すようになり、とてもびっくりしたのを覚えています。私も中国語を学んでいた時は同じ経験をしているので、そういう学生の姿を見ると頑張って教えてきて良かったと感じます。
  
  また、何年も会っていなかった教え子からSNSですごく綺麗な日本語のメッセージをもらったことや、進学関係で私の方から質問した時に丁寧な文章が返ってきた時はびっくりしました。もちろん本人が頑張った結果ではありますが、身についている様子を知れたことはとても嬉しかったです。

—留学生の進学環境の変化
  
  この2年で学生の進学環境が大きく変化しています。例えばこれまでなら簡単に入学できた学校が、今では難関校になっていることもあります。また、以前でしたら都内の学校に入学できたレベルの学生が、基準が高くなった影響で地方に進学しに行かなければならないこともあります。
  
  理由としてあくまで私個人の考えですが、以前とある学校が定員以上の留学生を受け入れ摘発された問題がありましたね。そのような多くの学生を受け入れていた学校から他の学校に行くようになったことや、留学生の30万人計画によって過剰に増えてしまったことが原因でないのかと感じています。特に今教えている学生は専門学校を志望している人が多く、大学よりも求められるレベルの変化を感じています。

—時には他の言語も活用しながら授業を
 
  私たちの業界では直接法(日本語で日本語を教える)が一般的です。もともと日本にくる外国人は、N5(日本語検定5級)を取らないと来日できないはずですが、平仮名も読めない人がたくさん来日しています。そういう人には日本語だけでは、トラブルが起きてしまうことも考えられますので、他の言語を使わざるを負えません(もちろん授業中は90%以上日本語です)。学生とのコミュニケーションに日本語以外の語学が必要になるということです。

記者から一言

  他の業種を経験した上で、再び日本語教育の世界に戻ってこられた上本さんのお話は教師という職業のやりがいや魅力がとてもダイレクトに伝わってきました。一方で、学生の環境はグローバルな社会が進めば進むほど、常に変化していきます。日本では、今後も受け入れが増える傾向にあるので、(COVID-19の影響は暫く続くかと思いますが)迎える教師の方々も時代や流行に応じて常に変化し続けることが求められてくるのではないでしょうか。

  次回は後編をお届けします。
上本さんの感じる日本語教育業界の課題について詳しくお話しして下さいました。お楽しみに!

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