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つながりたい欲

高校教師の枝瀬です。
主に、
教育、心理、コミュニケーションや自己啓発、
日々の気付きを発信しています。

昨日の記事を書いたあと、
ふと子どもの頃の記憶がよみがえりました。

小学校低学年の頃かな?
家にゴキブリが出て、
母親が、わーきゃー叫びながら
新聞紙で叩こうとするんです。

そのとき、
なぜか僕は
ゴキブリに感情移入してしまって、
泣きながら
「やめてー!!叩かないでーー!!」
と訴えました。

叩かれて潰されようとする
ゴキブリが可哀そうに思えて
すごく切実な気持ちになりました。

今はまったくそんなことはなく
ゴキブリを見たら躊躇なく
叩きつぶす自分がいます。

どちらが良いとか悪いとかは置いといて、
意識の上でゴキブリとつながっていた
小さい頃の感受性を
今、「大切」に感じています。

ゴキブリとさえも
感情移入しきって、
自分と一体化していた感性が
かつて、あったことを
大事にしたい。

この記事が、
読んでくださった方に気付きを与え、
行動が変わるきっかけになれたら
いいなと考えています。
どうぞ最後までお付き合いください。


「優しい」という文字は
「にんべん」に「憂い」と書きます。

人の「憂い」の感情、
思うようにならなくて
つらかったり、せつなかったり、
悲しかったり。

そういう気持ちに寄り添いつつ、
応援できる人を、
僕は「優しい」と考えています。

職員室で、僕の隣の先生と話しました。

つらいとき、悲しいとき、
ちょっとだけ自問自答したいのは
「わたしは、世界で一番つらいのだろうか??」
だよね。

そしたら、答えは間違いなく「否」になるはず。

世界中には、もっともっと不条理な目、
悲しい境遇に置かれている人がゴマンといる。

自分は確かに現状ツラいし悲しいけれども、
「最悪」ではない。
むしろ「まあマシ」なのではないか、と。

「最悪」だと思い込むと、
悲しみや痛みで自分の容器が
パンパンになります。

詰まってしまうと、
そこに何も入る余地がなくなります。

誰かが言葉を投げかけても、
聞く耳をもてない状態。
これを「余裕がない」といいます。

そして「余裕がなくなる」と、
誰ともつながることができず、
理解も共感も得られなくなる。
これが「寂しい」という感情。

「まあマシだよな」と思えたら、
ほんの少しだけでも
自分に余白が生まれて、
誰かの声や感情が入り込む。

そんな会話をして共感し合いましたけど・・

・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・

んんー、違いますね。

それは、結局、自分の感情の言語化。
自分事が、他人にあてはまるだなんて
安易に楽観視していると、
要注意。
そう思いました。

他人の気持ちなんて、
とうていわからないもの。

語り得ぬものについては、沈黙せねばならない。

ヴィトゲンシュタイン

教員の悪癖の一つは、
自分語りが過ぎることです。
自戒を込めて。

「伝えたい」思いが先行しすぎると、
相手は口を閉ざしますからね。

今、自分の興味のベクトルは、
もっともっと相手を知りたい、
という方向を向いています。

気持ちを、考えを聴きたい。

そういう意味で先日発表された
もってぃーさんの記事は
すごく参考になりました。

Kちゃんという女の子の話。

先生目線からみると、
「全然話さない」し、
「会話のキャッチボールが成り立たない」し、
「何を考えているかわからない」子。

でも、先生はつながろうとする。
何が、その子のためになるかなんてわからない。
自己満足と言われるかもしれない。

だけど、
「してあげたい」という気持ちがあるから、
やる。
「やりたい」から、
やる。

Kちゃんは、
先生が花丸やコメントに一言書いてあるところに
いつも色を塗ったり
少しの落書きをしているそうです。

この情景がとてもよくイメージできます。

そんな、
成立しているかどうかもよくわからない
些細なコミュニケーションが
とても嬉しいんです、
教員は。

今、自分は「つながりたい欲」が
高まっているようです。

ゴキブリにすら
感情移入できた幼いときの感性を大切にしたい。

もちろん、生徒をゴキブリにたとえるのは
失礼ですけどね。

痛みとか悲しみとか、
その人なりの考えを、もっともっと。


最後までお読みいただきありがとうございます。
これを読んでくださったあなたの少しでも
お役にたてたら嬉しいです。

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