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0才から保育園に預けられた私が母に思うこと

私の母は不器用なひとでした。
高校生くらいから、母のことをそう思うようになりました。

それまでは、料理上手で、仕事も出来て、強くてかっこいい母親だと思っていました。
周りのお母さんは、大体が専業主婦かパート。
ですが私の母はフルタイムの正社員で、医療分野の資格保有者です。
そんな母を、幼少期から誇らしく感じていました。

ただ、毎日仕事や家事に忙しく、"あたまが痛い日"や"おなかが痛い日"がたくさんありました。そんな日は、むやみに話しかけてはなりません。
触らぬ神に祟り無し。
思い返すと、物心ついた頃から、なんとなく母の扱いを分かっていたように思います。
機嫌が悪そうな日や、やたらとテンションが高い日は、とにかくそっとしておく。
それが、母のトリセツでした。

どうも、えだまめです!
今回は、65才を越えた今でもフルタイムワーカーとして医療分野で働く母を持ち、0才から保育園に預けられていた私が、当時何を思っていたか、そして、その後どのように育ったかを書きたいと思います。

結婚7年目でようやく授かった第一子


母は25才で結婚し、同じ医療分野で働く父との間に娘を二人もうけました。
第一子は私の姉ですが、結婚7年目にしてようやく産まれた待望の娘。
まだ不妊治療なんて言葉も無い時代、30才を過ぎてもなお、子供を授からなかった母の心情は想像するに容易いものです。

しかし、母はそんな待望の第一子を生後数ヶ月で保育園へ預けました。
当時、母の働く業界では新しい技術がどんどん取り入れられていたようで、母はとにかくその技術を早いところマスターして、キャリアアップに繋げたいという思いがあった様です。
そして、母はその3年後に産まれた第二子の私も、生後数ヶ月で保育園へと預けるという選択をしました。

0才からの保育園での思い出

正直、3才以前の保育園での思い出は、全く無いと言っても過言ではありません。
私は0~2才までの小規模保育園に通い、その後引っ越しをしたのち、小学生まで都内の認可保育園で過ごしました。

引っ越し前に住んでいた場所の景色は、断片的に覚えています。
公園に薄暗くて怖いトイレがあったとか、住んでいたアパートに大きいゴリラの人形があった‥‥とか。
しかし、保育園のことは、先生やお友だちの顔はもちろんのこと、どんな施設だったか、何をして遊んだかなど、綺麗に何も覚えていません。楽しかったか、不安だったか、泣いていたか、笑っていたか、感情の記憶もありません。

保育園児はいそがしい

結論、私には保育園へ行っている時間が「母に置いていかれている時間」という概念は一切ありませんでした。
3才から通った認可保育園では、はじめこそ慣れない環境が不安で、母に保育園へ送ってもらった後しばらく泣いていた思い出もあります。
しかし、母が仕事へ行ってからは、むしろ新しい環境に慣れるのに必死で、母のことなど思い出しもしなかった様に思います。

新しいお友達とのと仲良くできるか、お昼ごはんやおやつには好きなものが出るか、気になる男の子と会話できるか(笑)‥‥

子供も大人も同じように、忙しい。
人間関係で悩んだり、ぎっちり組まれたスケジュールに少し疲れたり‥‥
保育園へ行っている間は、母のことなど思い出す余地もありませんでした。


覚えているのは、会えない長い時間より一緒に過ごす一瞬

保育園で過ごす長い時間を「母と会えない時間」と思った事はありません。
母との良い思い出として心に残っているのは、寝る前のたった30分間のこと。
寝かしつけで、色んな歌を歌ってくれました。私が寝付くまで、何度も何度もお願いする度に歌ってくれました。
一日の中でも一番安心できる、幸せな時間でした。

あとの大抵の時間、母はイライラしていました。
食事の支度を終えると、ソファに横になったり、寝室に行ってしまったり。ご飯を一緒に食べる気力も残っていないほどに、疲れている日が多かった様に思います。
また、私が知らない物や事に直面した時、母に聞くとよく「そんなことも知らないのか」と呆れられ、話しかけると不機嫌になりました。
母の日や誕生日のプレゼントを「いらない」と言われることは毎度お馴染みのイベントで、その場で捨てられたりしたこともあります。(笑)

今となっては笑い話ですが、当時は、私の母は何故こんなに感情をストレートに表してしまうのだろう?と不思議に思っていました。
仕事で疲れているからしょうがない、と諦めていた部分もあります。

良いことも悪いことも、思い出すのは母と一緒にいる短い時間の出来事。そんな日々を送っているうち、だんだん母の扱いを学んでいく娘たちなのでした。


同じ環境で育った、姉と妹の性格の違い

そんなこんなで、私たち姉妹は思春期を迎えます。姉も私も0才から保育園で育ち、家では母の顔色を伺う日々。
不思議なのは、そんな同じ環境で育った姉と私の性格が、面白いほど二極化したという点です。

私は、もともと自立したいという欲求が強く、一人の時間を多く持ちたいと考えるタイプでした。深く付き合う友達はいましたが、人と過ごすためには一人でパワーチャージをする必要があり、その時間が無いとどんどんストレスが溜まっていきました。
自分のことは自分で決めたい。
人と違う個性を磨いていきたい。
そんな願望を持ち続けた学生時代でした。

姉は逆に、常に誰かがいる場所に一緒に居たいと思うタイプでした。社交的で、おしゃべりが大好きで、明るい性格である一方、ひとりになると急に病んでしまうような危うい一面もありました。
家庭内で、姉は常に母にくっついていたように覚えています。母にもっと自分を見て欲しい、誉めて欲しいという欲求が、妹の私にもはっきりと見てとれました。
出来心でのぞいてしまったた姉の日記には、「母に挨拶をしたが返事が返ってこなくて寂しい」など、母に対する思いがいくつか綴られていました。

私は自分の事で精一杯で、母に対してそんな風に考えたこともなかったため、驚きでした。
母の機嫌が悪いのはいつもの事。大して気にとめていなかった私に対して、姉は母の言葉一語一句に小さい傷を負い続けていた様でした。

姉の心の不調

家庭環境が原因なのか、もともとの性質だったのかは分かりませんが、姉は高校2年生の時にメンタルクリニックに通っていました。

私は後になってこの事を知ったので、詳しい病名や具体的にどのような不調が出ていたのかはわかりません。
姉は、表向きには普通に通学し、部活にもしっかり顔を出し、たまに友だちとも出かけていました。しかし、学校帰りや土日に時間を作り、学校や最寄りの駅とは違う場所でカウンセリングを受けていました。
おそらく、多感な時期を過ぎて大学へ通うようになったころ、通院の必要は無くなったのではないかと思います。

自分が母親になって仕事復帰を控えた今、母と姉の事をよく考えます。
もし母にもう少し精神的な余裕があって、もっと子供たちの気持ちに寄り添うことが出来ていたら。
姉は、何事もなく高校生活を送れていたでしょうか?

姉は、母の言いつけを結婚して35才になった今でも絶対に破りません。反対する夫を押しきり近くに家を買い、母にも父にも頼まれていないのに老後の面倒を見ると言っています。

本意は分かりませんが、母の望みを先回りして叶えるように生きることで、母に認められたい。子供時代から変わらずそんな風に思っているではないか。そして、いつの間にかその考え方が習慣化したのではないかと想像してしまいます。


一緒にいる時間の長さより、一緒にいる時間を心地よく過ごしたい

働きながら子育てをする母のことを振り返って思ったこと。それは、母の機嫌が家庭の全てを左右してきた、という事実です。

結局、働くことが悪いわけでも、保育園に預けることが悪いわけでもありません。
保育園にいたっては大した記憶も無いのです。
私は、母に家にいて欲しいと思ったことはありませんが、母に機嫌良くいて欲しいと願って毎日を過ごしていました。

もし、母が専業主婦だったら。
おそらく、家庭の雰囲気はたいして変わらなかったのではないかと思います。
時間があれば、機嫌良く過ごせるいうわけではありません。実際、比較的時間に余裕のある週末に子供たちの面倒を見ていたのは父で、母はいつも通りでした。

不器用な母の愛の伝え方

母は私たちを愛していなかったのか。
そんなことはない、と思わせてくれたのは"家族写真のアルバム"でした。
私にはたまに、本棚の一番下にある大きいアルバムを開いて眺めたくなる時がありました。

私の分と姉の分、それぞれ0才/1才/2才と書かれた3冊ずつのアルバム。姉のアルバムと私のアルバム、全てきっちり同じページ数でまとめてあるのは、明らかに姉妹で差がつかないように、という母の配慮でした。
写真の他に、逐一コメントやイラストが添えてあり、その時の状況や写真を撮っている母の表情が目に浮かびます。
母の丁寧で丸い字。
アルバムを見ると、どうしても自分が愛されてない、とは思えませんでした。

また、自身にはあまりお金をかけない母でしたが、子供のこととなると惜しまず使いました。
習い事、小学校の塾代、私立の中学、高校、大学へ娘二人を通わせ、毎年少なくとも年2回は家族旅行へ連れていきました。
大人になって改めて考えると、働きながらワンオペで育児、家事をこなし、すべての教育計画を立てる母の労力は計り知れないものがありました。

愛情はそのまま言葉で伝えられるより、後から分かるとさらに深く心に刺さるものがあります。
しかし、子供に理解できる範疇はとても狭く、分かりやすくしてもらわないと、その愛情を見つけることができません。
落ちた欠片を、なんとか探して出して理解できるようになる頃にはもう大人になっており、人格形成が終わっています。

母は、愛情を持っていても、伝え方が分からないようでした。
日々努力に努力を重ねている母でしたが、
父に対しても、自分の両親に対しても、子供たちに対しても、その愛情はあまり伝わっていませんでした。
とても、不器用なひとでした。


当時の母と同じ状況になった今

私は今年で32才。母が姉を産んだ年齢と同じ年になりました。
子供も二人、母とほぼ同じ状況です。
そして、仕事復帰を間近に控え、思うのです。
"私は母のようにはなるまい"
"私は上手く出来るはず"

でも、上手くとはなんでしょう?
母の子育ては失敗だったのでしょうか?

何事も、メリットとデメリットがあるように、母の子育ても良い面と悪い面の両方がありました。
子供を必要以上に追い込んだり、言葉も含めた暴力はもっての他ですが、たとえ母を反面教師にして理想の教育を実現できたとして。
そこにはまた、良い面と悪い面があるのではないでしょうか?

そうであるならば、せめて
「仕事も子育ても自分の好きなようにやる」
(場合によってはやらない)

そして、
「好きなようにやるからこそ、
家では機嫌良くいる。」

母親の仕事はこれだけで良いのでは?
と思います。
もちろん、それがどんなに難しいかは母を見て学んだので、リスクヘッジとしてのアルバムの作成は計画的に実行中ですが‥‥(笑)



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