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真夜中の辺獄サラダボウル

 真夜中、冷蔵庫からあふれ出した光に目玉が焼けた。まばたき2回で乾いた眼球を労わってやると、涙で鼻がツンと痛んだ。重たい冷気が首筋へ落ちかかるのと同時に、いつか読んだフレーズが脳みそに出現した。

この門をくぐる者は
いっさいの希望を捨てよ。

 ダンテの『神曲』地獄編の有名な第3歌。誰の翻訳だったっけ。この詩句を越えた先には、天国も地獄も門を開けていなかった時代に死んだ人たちが、ぼんやりと佇んでいる辺獄がある。
 よろしいと心に決めて地獄の門に手を差し入れ、掴みだしたドレッシングのボトルは、寝ぼけたようにぐにゃりとしたプラスチック製で、いかにも安っぽい感じだった。静かに隣り合っているハムとチーズ、野菜室からはレタスとトマトとキュウリとニンジンを取り出すと、あとには空っぽだけが残された。ドアを閉めると夜の闇が戻ってくる。まばたきを2回。涙の痛みもまた2回。
 手元を照らす調理台の蛍光灯が落とす白さは、石みたいに静かで固い。蛇口を捻ると流れ出す水も、同じくらいに白くて固い。そのなかで洗った冷たい野菜を、片端から切り刻んで、お昼におうどんを食べたきり、水切り台に伏せっぱなしにしていたドンブリへ、まとめてわっさと積み上げて、千切ったハムとチーズを乗せた上からドレッシングをかけた。なにが入っているのかよく分からない、気まぐれを起こして買った正体不明のドレッシングは、その長ったらしい名前にぴったりなピントのぼやけた味がした。
 床に座り込んで、お箸でかっ込む、滅多切りサラダ。農家のみなさま、申し訳ございません。今夜はちっとも味が分からない。たとえまだほんの入り口だとしても、地獄にはやっぱり痛みしかないから、舌先を少しだけ溶かして、食道を胃の方へ落ちていく、たぶんドレッシングのベースになっているのだろう、お酢のようなものの気配くらいしか、今の私には分からないみたいです。でも、私はこのビタミンで、朝からまたちゃんと生きるので、とにかく今夜は堪忍してください。
 耳の奥でカリカリと鳴るキュウリが割れる音は、この世にも正しいことがあるのだと、もしくは、正しいことがあるべきなのだと、神さまのような存在の信念を代弁してくれているみたいに聞こえた。心強くて、縋りつきたくなってしまうくらいに確固としていた。生きるために食うのか、食うために生きるのか。ありきたりなことを考えている自覚はあった。それでも顎は動いた。いっさいの希望は捨てたけど、それでも残ったものがあった。それを噛み締めるたび、野菜が青く香ったり、乳や肉の味が唾液を誘ったりした。平成26年、もの喰う女として生きる私の辺獄には、救いの糸口としてのサラダボウルがあった。

***

 平成26年の秋、暑くも寒くもないけれど、ひたすら暗かったキッチンの床で泣きながらサラダを食べていた自分のことを思い出すと、令和2年の秋を生きる私は、彼女の書いた日記を読みながら、私は救われたのか、それとも辺獄に慣れたのか、よく分からないまま不安になってしまう。

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