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ルーツや地縁 遠のくノスタルジー

わたしは生まれも育ちも大阪。実家もまあ近いのだけれど。父、母はそれぞれ出身地がある。

小さい頃はそれぞれの田舎に帰省する機会もあって、どちらの田舎でも行くと祖母の家を拠点に滞在し、親せきが集まり、楽しく過ごしていた。
方言がそれぞれ自分の普段使う言葉と異なる。景色も大阪とは少し違う。
それぞれ習慣も少しずつ異なる。父も母も大阪で暮らす時間が長いので、日頃は「大阪の人」だが、田舎に帰るとその土地の色が見え隠れするのを感じていた。

そしてわたしもいい歳の大人になり、両親は体力的な都合もあってそれぞれの田舎への帰省の機会は減っている。知っている親戚たちもそれぞれ高齢となり、鬼籍に入る人も多くなった。
祖母も亡くなり、拠点となる場所には誰もいない。

今年、十数年ぶりに父方の田舎へ行った。
以前行った時には無かった道路があって、景色の変化びっくり!
すっかり古くなった元の祖母宅を拠点に1泊だけだったが、お墓参りや親せきを訪ねてバタバタの滞在。
それでも、改めて訪ねることで小さな頃の懐かしい思い出が甦る場所もあったし、自分のルーツを感じた。

帰りの道中。景色を見ながらつらつらと考えていた。
今は辛うじて行くと滞在できる場所もあるが、それもいつまでだろう?
いつまでわたしはそこに行けるだろう?
今は父も母も健在なので「●●の娘」ということで、知ってもらっている親戚もいるけど縁が薄くなっていくと、こうして自分の田舎としてではなく旅先のひとつとして行くことになるのかもしれない。現に自分の子どもはすでにそういう感覚なのかもしれない。

血縁に拘るような名門でも何でもないけれど、自分がその土地に多少なりとも縁があり、そこから自分も、次世代へも世代は繋がっている。
これはどこへ向かおうとしているのだろう?

日本国内どころか世界中どこへでも行き来が可能なご時世だから、ルーツとかに拘る必要も無いのだろうけど、ふとした時にふるさとや原風景として拠り所を感じる場所はそれぞれにあるのかもしれない。
そしてそれは、1つとは限らない。
例えば、どこの土地に行ってもわたしは馴染めるほうだとは思うけれど、わたしにとって父の田舎も母の田舎も他の土地よりも親近感の感じられる場所なのだ。

しかし、時間が経つにつれルーツであるという感覚もその土地との縁も薄らいでいくんだろうなと思うと寄る辺が無くなるような感覚が湧いてきて少し寂しくも感じた。


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