見出し画像

3. Osteria la cicerchia シェフ・連久美子さん(3/3) “料理とイタリア”  現地へ渡った料理人のちいさな20の物語


地産地消が日常の一部であるということ

 再びマルケ州へ戻ってきた連さんは、セッラ・デ・コンティという人口4,000人弱の小さな町へやってきた。標高217mの丘の上にあり、中心地は城壁に囲まれる。14〜16世紀の建築物や19世紀の建築物など、さまざまな時代のものが混じり合う町並みは、小さいながらも豊かな歴史を感じさせる。周りには生産者も多く、ワインの生産地でもあり、保護原産地呼称ワインであるD.O.C.GやD.O.Gを取得するワイナリーなども。この地でつくられる古代豆のチチェルキアは、スローフード協会の絶滅危惧食品に選ばれ毎年11月には「チチェルキアの祭り」という祭りも行われる。連さんが通っていたItal.Cookの学長は、スローフード協会のマルケ支部長でもあり、学校を退職した現在、チチェルキアづくりに精を出しているそうだ。

画像10

画像11

年に一度開催される「チチェルキア祭り」の様子

 連さんは、このセッラ・デ・コンティにある、シェフのマルコさんがオープンした[Coquus Fornacis]というRistoranteで経験を積んだ。オープニングと同時に店に入り、シェフとスーシェフ、カメリエレ、連さんの4人で店が始まった。

「オープンしたての頃はお客さんがまだ少なかったので、何でも教えてもらえました。仕込みはほとんどやらせてもらったし、前菜はもちろんパスタもセコンドも。ここでは近所の人が作っているチーズや野菜など、地産地消のものを多く取り入れているので、素材一つをとっても味が全然違って。例えばチーズも、今まで使っていたパルミジャーノやペコリーノロマーノとは全然違う。口にした瞬間思わず、『うまっ!』って声が出るような。マルコが仕入れに行く度に、『私も!』と連れて行ってもらいました。マルコは、できればすべてこの町で仕入れたものを使いたいというくらい地元愛が強く、その地元愛は生産者も同じように誇らしく思っているように思います。みな昔からの知り合いで、地元愛と自産物愛がすごい。マルケ州の郷土料理はおもしろいんですよ。同じ州内でも北と南では料理が変わる。同じ名前のレシピでも材料が違ったりするんです。例えばウサギのポタッキオは、マルコの店や北部ではローズマリーとニンニク、白ワイン、じゃがいもを使うのですが、南に行くと、じゃがいもでなく唐辛子、パプリカ、トマトソースが入っていたり。これって本当に同じ料理?というくらい、全然違う」

画像1

前菜をつくる、シェフのマルコさんとシモーネ

画像2

KURNIワインの生産者である、マルコさんとエレノオーラさんご夫妻

画像3

画像4

KURNIの葡萄畑。品種はモンテプルチアーノ

 人と人の距離が近しいのも、この小さな町が連さんを魅了した理由の一つだ。例えばある時、こんなことがあった。
「[Coquus Fornacis]は中心地から歩いて40分くらいかかるんです。毎日一生懸命歩いていた私に、カメリエレのディエゴが子どもの時に使っていたマウンテンバイクをくれました。背が低いから、子ども用でもいけるって(笑)。ある日マウンテンバイクを使って買い物に向かっていると、道中の畑でおばあちゃんが一人で何かを摘んでいたんですね。何か料理に使うものを摘んでるんだろうなって、じーっと見ていたら『お前、誰だ?』と。『料理の勉強をしにきていて、[Coquus Fornacis]という店で働いているんです。今は、隣町に行く途中で』と説明していたら、『隣町って、その自転車で!?』と驚く声が。『水を飲んでいかないと、暑いから死んじゃうよ』って、家の中で、ミントのリキュールを入れたコップ1杯の水をくれたんです。隣町へは欲しかったパンと、ビジョラという野生のさくらんぼのジャムを買いに行ったのですが、お礼に買っていってあげようと思いつきました。帰り道、おばあちゃんの家に寄ってみると誰もいなかったので、お礼とお店の住所を書いたメモを一緒に置いていったんですね。そしたらその後、店にお礼の電話がかかってきて。息子さんが車を運転して彼女をお店に連れてきてくれたのですが、『夜は暗くて危ないから、お前はこれを着なさい』って、オレンジ色のジャケットをくれました。よく、イタリア人が工事中に現場で着ている、反射板がついているジャケットです(笑)。それがきっかけで、ことあるごとに彼女の家に遊びに行くようになりました」
 町を歩けば知らない人に車から、「Sei Kumiko?(久美子だよね?)」と声をかけられる。驚きつつ返事をしてみると、マルコさんの友達だった。それに限らず、全く知らない人とも、顔を合わせるうちに知人のようになっていく。なんといっても人口4,000人弱の小さな町だ。会う人会う人が、自然と知り合いのような感覚が育まれる。
「セッラ・デ・コンティでは、全く知らない人が知人や家族のように優しくしてくれて、とても嬉しく大好きになりました」

 約束していた6ヶ月が経っても、連さんはまだ、この地で勉強をしたかったという。するとマルコさんが学校へ相談してくれて、期間を延長してくれることに。[Coquus Fornacis]での日々は、合計2年続いた。
「日本に帰ってから自分の店をやろうと思っていましたが、最初からマルケ料理専門店をやろうとは決めていなかったんです。イタリア料理の中でもパスタ作りが好きだったので、イタリアでいうPasta Fresca、つまりパスタの生麺を売るパスタ専門店を始めるのも、おもしろいなって想像していました。でも、日本では毎日パスタを食べるわけではないし、そうなるとソースも付けなければならないのでは?など、いろいろ難しいなと思い……。そんな時、マルコに『日本に帰ったら、どんな仕事をするの?』と聞かれたんですね。『イタリア料理店をやりたいな』と答えると、『イタリアに、イタリア料理店なんかないぞ(笑)。うちは、マルケ料理の店だ』って言われて。確かに、と。そういえばマルケ料理をやっている人は日本にまだいないし、そもそもマルケ州を知っている日本人も少ないんじゃないかな?と気づいたんですね。それで、日本に帰ったらマルケ料理専門店を開きたいと考えるようになりました」

画像9

セッラ・デ・コンティの街並み

画像7

画像8


[Osteria la Cicerchia]から感じる、マルケの空気

 そうして、[Osteria la Cicerchia]は、2012年に開店した。学んだマルケ州の中部の他に北と南も取り入れ、中にはRistoranteでは出てこないような料理も。スペルト小麦のサラダやじゃがいもとキャベツのローズマリー、ガランティーナなど、マンマが作る家庭料理も続々と並んだ。
「マンマの料理は、あのおばあちゃんを始め、いろいろな近所の人に教えてもらいました。みんなよく家に招いてくれて、その都度料理を教えてくれるんです。でもお店で家庭料理を出すことを、最初の頃は悩んだんですね。だけど、イタリアの各地を回って一つ思ったのは、私はやっぱりイタリアのシンプルな家庭のご飯が好きだなってことだったんです。マンマって一番最高の料理人。家族を思ってご飯を作るし、栄養面や安全面、ボリュームなど、相手の体のことを考えて作りますよね。最近食べすぎてるなとか、そういう状況や様子を見て、メニューを変えていったり。それが一番いい料理人なんやないかなって思うんです」

画像9

タリアテッレ用の卵を割る、ヴェーラさん

 もうすぐ店を始めて、節目の10年。マルケ州と出会ってからは、17年が経つ。連さんはマルケ料理の魅力を、今どう考えているのだろうか。
「マルケ料理は食べていても、全然疲れないんです。例えば、スーゴフィントというソースは偽のソースという意味で、大きめに切った香味野菜に、お肉を少しばかり入れて、豆やトマトで炊く肉風味のトマトソース。それをミートソース代りに食べるんです。マルケ州の人に教えてもらったことは、もともと貧しい州だったため、肉よりも野菜を使うメニューが多いということ。今考えてもれば美味しいしヘルシーで、体も疲れない。そういう素朴な味わいが好きなのかもしれません。あとはやっぱり、教えてくれた人が優しい人たちだったことが大きいですね。もちろん料理には工程や味が大切ですが、記憶に残る料理ってそういうところなんやないかなって思うんです。食べた人や作った人、食べた時のシーンが大事だなって。だから、料理を通して出会った人たちとの日々を含めて、マルケ料理が好きなのかもしれないですね。素朴だけど、自分と合うなって思う瞬間がたくさんある」

 昨年、マルケ州から[Osteria la Cicerchia]にある贈り物が届いた。
「あなたの店はマルケ料理専門店です、という認定証が届いたんです。突然マルケ州からそんな証書が届くと思ってもみなかったので、びっくりしました(笑)」

 実は、前知事は連さんにFacebookを通して連絡してきたこともあるそうだ。ある日突然、連さんへ友達申請が来たという。「誰?」と疑問に思いながら友人に聞くと「マルケ州の知事だよ」と返答があった。そこで「大阪でマルケ料理店をやっているので、日本でもっとマルケを知ってもらえるようにしていきたいと思います。ガイドブックも今度購入して、説明できるようにしようと思っています」と伝えると、「次は、いつマルケに来ますか?」と返信があった。ちょうど行く予定があった連さんが「6月です」と答えると、「では、その時は寄りなさい。ガイドブックをあげましょう」と。話があっという間に進み、知事との約束がまとまった。友人に運転してもらい、知事の元へ。挨拶をして言葉を交わす、知事と連さん。最後には本当に、知事からガイドブックが手渡された。
「次の日、別の街で道に迷ったので、警察官に道を尋ねると『日本人がこんなところで何しているんだ?』と聞かれたんです。『料理の勉強に来ています』と伝えると、『あれ? 昨日新聞に出てなかった?』と、言われました。そんなはずはないと思いながら友人に電話して調べてもらうと、なんと中部イタリア新聞に、知事と面会した時の写真と記事が載っていたんです。」
 見出しには「大阪でマルケ料理を味わう」という言葉が大きく書かれている。マルケ料理に魅せられた連さんが、セッラ・デ・コンティやイエジで学んだ後、自身の街でマルケ料理専門店を開いたという背景から始まり、自分たちの州の伝統的なレシピで料理を作る連さんのことが説明されていた。記事の隣にはカメラに向かって微笑する3人の写真が添えられている。

画像5

その時の中部イタリア新聞は、お店に額装されて飾られている


「開店して10年経ったら、新しいこともやってみたいなと考えていますが、今はこれまで培ってきたことを維持。ずっと守り続けてきたものを一つ作るということが、店をやっていくうえで大事だと思っています」

 連さんの料理は、マルケ州で彼女が体験した出来事や人との交流が、すべて詰め込まれているように思う。だから初めて食べた料理で、それが例え素朴な家庭料理のメニューだとしても、食べ手の心に残るような、温もりのある料理が生まれるのではないだろうか。それぞれの心にある暖かな記憶というものを、引き出してくれるようなひと皿なのだ。
 長年マルケ州の空気や人と触れあってきた連さんの中で、現地の料理にまつわる記憶が大切に研ぎ澄まされていくことで、連さんのマルケ料理が生まれるのだろう。私たちは、マルケ州の郷土料理とともに、連さんの温かな思い出をひと皿ずつ、いただいているのかもしれない。


<Information>連久美子さんのお店
Osteria la Cicerchia





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?