4. Tavernetta da Kitayama シェフ・北山伸也さん(1/2) “料理とイタリア” 現地へ渡った料理人のちいさな20の物語
イタリアで見た風景や、イタリア映画を観れば目にする、ある風景。それは、家族や親しい友人と、食事の時間をわかちあい共有する風景だ。どこの国でも同じような光景は目にするはずだけれど、イタリアのそれはお腹の底から笑って、身体全体で目の前の食事を味わい、楽しんでいるように思う。美味しいかどうかというシンプルな話だけでなく、そこには食事を通して一人ひとりの人生が結びつくような瞬間があるのではないだろうか。
そんなイタリア的食事の光景は、私の中で、暖かなイメージとともにずっと育まれている。
ひとりの時も誰かと一緒にいる時も、イタリア料理を食べる時は、この想像を頭の中で反芻したいという小さな欲望が、片隅にずっとあるような気がしている。
あるとき、大阪のイタリア料理店のショップカードを目にした時、自分の頭の中にあるその光景が、パッと照らされたように感じた。
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人が集まる、うまいが集まる。
TAVERNETTA、それは“小さい食堂”という意味のイタリアンレストラン。訪れる人たちが、陽気に、飲んで食って笑って、語りあう。小さな場所で、大きな夢を語れる、レストラン。肉料理を目玉にした、ダイナミックでボリューム感たっぷりのメニュー。厳選した豊富なワインは、あなたの喉とこころを潤します。まるで、子どものように人生を楽しむ大人たちへ。さあ、大いに飲んで、大いに食って、大いに笑おう。
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大いに飲んで、大いに食って、大いに笑う。簡単そうに見えて、それは心の底から安心しきっている仲間や、自然と顔がほころぶ一皿が揃わないと、体験できないことではないだろうか。
大阪の本町にある[Tavernetta da Kitayama]は、来年で創業10周年を迎える。私が初めていただいた料理は、ランチのコース料理。メイン料理に出てきた「豚フィレ肉の香草パン粉焼き」は、口に含むと、スパイスの香りが心地よく広がる。それは、上品さの中に力強さが映える美味しさだった。一皿ひと皿がゆるぎのない真っ直ぐな美味しさで、新しいお皿がくるたびに、新たな世界を楽しむようだ。シェフの北山伸也さんとソムリエの鈴木康之さんが生み出すテンポに安心して身を委ねることで、一人で来たとしても、“人生を楽しむ大人たち”の仲間入りをしたような気分になった。
豚フィレ肉の香草パン粉焼き
シェフの北山伸也さんが、イタリアへ向かったのは2002年だった。料理の専門学校を出てイタリアへ向かう料理人が多い中、北山さんには、ちょっと変わった道のりがあった。その始まりは、おそらく小学3年生の頃と言えるだろう。
はじまりは、生姜と卵のチャーハン
「夏休みにたまたまテレビをつけていたら、NHKの『きょうの料理』が始まったんですね。おもしろいなぁ、なんかつくってるやんって。それを見始めてから、料理に興味を持つようになって、いろんな料理番組を見るようになったんです。キューピーの『3分クッキング』とか『金子信雄の楽しい夕食』という番組とか」
子どもの時じっくりと料理番組を見たことがある人は、どのくらいいるだろう。多くの子どもからすれば、自分にはあまり関係がないようなその光景は、北山さんの心を魅了するようになった。そうして北山さんは、毎日あらゆる料理番組を見るようになった。自分にもできるかもしれない、その気持ちが高まっていった。
「金子さんの番組を見ていて、見様見真似で初めてつくったのが、『生姜と卵のチャーハン』。今考えると、このメニューはかなり上級編やと思いますね。というのも、生姜を切って卵を割って、炊いた米を炒めたらどうにかなるんや!って思ったんやけど、本当は生姜は漬け込んだり下準備が必要なレシピやって。でもそういうのもよう知らんし、見様見真似でやったんよ。味は、食えんことはなかったですね(笑)。それがきっかけで、俺にもできるやん!って楽しくなってきて」
それがちょうど、小学3年生の夏休みのことだった。その日から北山さんは料理に時間を費やすようになり、時には晩御飯をつくることもあった。
「僕のところは両親が共働き。母親は夕方に仕事から帰ってくるんやけど、料理はちゃちゃっとしたものが多かったんですよ。だからいわるゆ子どもが好きなハンバーグも食べたことがなくて。それなら自分でつくってみよう!って思って、おかんに食べさしたんです。デミグラスソースにケチャップとウスターソースもちょこっと入れて、洋食のハンバーグのようにして」
「ハンバーグを家で食べたのって、初めてや」そう嬉しそうに話す母親を前に、料理への興味はますます開花していった。
高校生になると、北山さんはバイトを始める。最初は友人に誘われ工場で働いたものの、料理がやりたいという気持ちから、喫茶店や飲食店の求人を探すようになった。200円で購入した『フロムエー』をパラパラとめくる。堺で育った青年には、「難波でバイトしたらかっこええやん」という都心への憧れもあり、高校1年生の3学期から、なんばシティの南館にある喫茶店[ロッチ]の厨房で働くことが決まった。平日は放課後に出勤し週末は朝から厨房に立って、ひたすらキャベツを切ったり玉ねぎを切ったり仕込みをしていく。少しずつ料理の道というのが、可能性として、北山さんのなかで膨らんでいったきっかけなのかもしれない。
しかし喫茶店でのアルバイトは高校三年生に上がる頃、やむなく辞めることとなった。
「実は小学校6年生の頃から足が悪くて、右足の骨が勝手に曲がっていく病気やったんです。今だったら治ると言われているんやけど当時は、難病指定の病気で。やっぱり飲食の仕事はかなり大変やったね。でも何より、料理をできることが楽しかったから、料理をやめようとは全然思ってなかったけれど」
喫茶店でのアルバイトを辞めたあとすぐ、北山さんは進路を考える時期に突入した。もちろん料理人としての道を歩もうと考えていたのだから、辻調理師専門学校を候補に選んだ。選択肢は他になかっただろう。しかし、なんといっても学費が高い。親は応援してくれたが、「現場にも入ってきたし、基礎的なことは俺もできるやろ」そう思って、進路を進学から就職へ変えた。次に目指したのはホテルへの就職だ。しかしここにもひと難関が。筆記試験が、通らなかったのだ。面接では今までの経験を話し好印象だったものの、「もうちょっと答えを書いてくれてたらねえ……」と、試験管は申し訳なさそうに伝えた。
その後、カレー店のキッチンを経てホテルの厨房に就職。厨房で下積み時代を過ごしたあと、フランス料理店[Beau Bistro]で働くことになった。しかし[Beau Bistro]は、働き始めて2年で閉店に。そこから系列店の[Pastaco]というカジュアルなイタリア料理店へ移動することが決まった。
「フランス料理店に入ってから、自分はフレンチを極めていきたいと考えるようになったんですが、ちょうど日本でもイタリア料理やパスタが広まってきた頃で。[Pastaco]に入ったことで、興味はイタリアへと変わっていきました」
[Pastaco]では前菜を担当することになった。しばらく働いているとやはり、もっと本格的なイタリア料理を知りたくなった。
これはちょっとした運命の巡り合わせのような出来事だが、実は北山さんの妻は、イタリア料理専門店で働いていたのだ。シェフはイタリア帰りの日本人。ある日「北山さんところの旦那さんて、コックさんやね? 次は何か考えてないの?」と尋ねられたという。2番手のシェフが結婚して退職することが決まり、次入る人を探していたそうだ。「次へと動きたい。次は専門的なところで働きたい」と口にしていた北山さんに、やっとイタリア料理と強く結びつく入口が見えてきた。
「2番手を務めていたシェフはイタリアで修行した経験がある人やって、その人の代わりに入るということは、どんな面接やろうと思っていたら『パスタつくってみて』と。今となっては笑い話やけど、当時はめっちゃ焦りましたね……(笑)。『どんなパスタを作るのか知りたいから、ペペロンチーノつくってみようか』って言われて、初めての厨房で調理を始めました」
実は北山さんは、パスタ料理をお客さんに出したことがなかった。[Pastaco]でも、パスタを作るときは賄いのひと皿として手がけたのみだ。
「[Pastaco]のペペロンチーノを参考にしたんやけど、その当時は、パスタも日本人に親しみやすい味が求められていたから、なぜかちょっとトマトをいれてたんですよね。本当はパセリとニンニク、オリーブオイルのみのところに、生のトマトをカットして少しいれていた。だからそれがペペロンチーノなんやと思ってたもんやから、厨房で焦りましたね。『トマトないんすか?』って聞いてしまった(笑)。『ええっ!? なんでいるん!?』って、ちょっと厨房がざわつきました(笑)」
人によってはハラハラして、いても立ってもいられなくなりそうな瞬間だけれど、北山さんの仲間入りは無事決まり、イタリア料理店[Eccolo]での日々が始まった。
「シェフは北イタリアで働いていた人なんやけど、店の中でもイタリア語で話すんですよ。その日のメニューも、現地の料理本を見て考案したり。もちろん僕はイタリア語がわからない。でも本場のイタリア料理を覚えたいと思って入ったので、やる気に満ち溢れていたし、帰っては辞書を引く生活を続けました。毎日ノートにたくさんの単語を書いて、だんだん読めるようになって。それまで料理をするために語学を勉強するという発想がなかったんやけど、そういうのもせなかんなって考えるようになった。シェフに出会ってから、もっと知りたい、現場で修行したいと考えるようになりました」
料理番組を目にしたことから始まって、北山さんの人生はいつ・どんな時も、キッチンに立つことを軸に広がってきた。いろいろな業界・ジャンルに足を踏み入れたものの、生業として最後に腰を据えた場所がイタリア料理だった。
ーTavernetta da Kitayama シェフ・北山伸也さん(2/2) “料理とイタリア” 現地へ渡った料理人のちいさな20の物語 につづく
<Information>
北山伸也さんのお店
Tavernetta da Kitayama
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