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4. Tavernetta da Kitayama シェフ・北山伸也さん(2/2) “料理とイタリア”  現地へ渡った料理人のちいさな20の物語

 [Eccolo]での日々が2年半ほど過ぎた頃、残念ながら店は閉店することに。ここで北山伸也さんは、イタリアへ修行に行くことを決意する。1年間さらにアルバイトをして渡航費を貯めた。北山さんが選んだのは「ICT(Italian Culinary Tradition)」というイタリア料理学校。約1ヶ月の研修を受けた後、現地での就職先を3件紹介してくれる。最初の行き先は、北イタリアのピエモンテ州だ。研修期間はピエモンテ州のドモドッソラにて12〜13人の日本人料理人と共同生活を行い、昼は現地の料理学校のイタリア人学生たちとともに学んだ。生ハム工場やチーズ工場など、郷土料理に欠かせない食材が生まれる過程を見学する。

「ドモドッソラはピエモンテ州の上の方にあるので、スイスまでは20kmぐらいの距離。もうほぼスイスやね。1年に2回「ICT」の日本人学生がここへ訪れるから、街の人も馴れてはって。こじんまりしたええ街で、すっかり好きになりました。30歳手前に学生になったということも楽しくって。ホテルの4人部屋で生活をして、毎朝同じバールに立ちよって学校へ行く。イタリア語は日本にいる時に覚えた程度だったから、まだわからないことも多かったけれど、この街が一番思い出には残っています」
 バールにスーパーに、少しずつ足を踏み入れる場所を広げていくことは、街を自分の一部にしていくようだ。

 人口2万人ほどの小さな街での学生生活は、ちょうど北山さんと同じ、27〜28歳ぐらいの同世代が集まった。授業が終わるとみんなで集まり、スーパーで買った安いビールで喉を潤す。日本での生活や料理人として思い描いていることを口々に語り合う。高校を卒業してすぐ社会に出た北山さんには、10年越しにやってきた、学生という特別な機会だった。「あの時のあの場には、夢があったんよねえ」と語る北山さん。学生であることを含め、全てが小さな冒険のように感じたのではないだろうか。

「研修が終わったあとは、面接を経て実習先が決まります。中部の料理を勉強したくてトスカーナ州あたりを志望していたんやけど、結果はトレンティーノ=アルト・アディジェ州やった。全然ちゃうやん! 嫌やな〜って(笑)。でも、自分がイメージしている郷土料理に対する固定観念を崩すためなのか、周りに聞いてみるとみんな希望とは逆のところに決まったようでしたね」


 
南チロルのイタリア料理

 [Ristorante al Borgo]で目にした料理は、今までのイタリア料理とは異なるものばかりだった。たとえば硬くなったパンを使ってつくる「カーネデルリ」もその一つだ。パンを牛乳に浸して柔らかくし、炒めた玉ねぎや具材を混ぜ合わせ、強力粉を加えて団子状にして茹でる。茹で上がったらソースと絡めてできあがり。オーストリアでも食べられる料理で、南チロル料理と呼ばれる。そんな、今まで養ってきたイタリア料理の概念を揺さぶるような光景を目の当たりにする日々だった。
「ここは当時、ガンベロ・ロッソで一つ星を獲得していたお店で、交代で常に日本人の研修生が働いていました」
 4ヶ月ほど働いた後、次の働き先を考えていた北山さん。そこへ日本人数名が、[Ristorante al Borgo]へやってきた。「日本人が来てるぞ」と店の仲間から声がかかり、フロアへ出てみるとそこには料理人のグループの姿が。彼らは以前イタリアで修行していたと話した。
「今回は、料理人仲間と今のイタリア料理を勉強しに来てるんですよ。そう言えば、アルト・アディジェのほうに、おもしろいリストランテがあるらしいけど知ってる?」
「いや、知らないですねえ」
「トレンティーノまで修行に来ているのに、アルト・アディジェのその店に行かないなんてもったいない! 明日休みなら、君も一緒に行くかい?」


 翌日、料理人グループと北山さんはアルト・アディジェのシューネック(Schöneck
へやってきた。日本でも雑誌などで名前があがる店で、現在ミシュランガイドで一つ星を獲得している。外観には「Restaurant Schöneck」の文字がデザイン的に組み込まれ、モダンに洗練された山小屋のような雰囲気の店だ。それぞれのお皿も、食材そのものが持つ色味を鮮やかに引き出し表現されて盛り付けられ、儚いような美しさがある。
「今自分が働いている店よりも、だいぶ洗練された料理を出しているなぁ……と、驚きました。僕がいた店も一つ星をとっていたけれど、もっとシンプルな料理をつくっていて。ここはより手がかけられていて、一皿ひと皿がものすごく綺麗で感動してしまって。ええなぁ、ここで働きたいなぁとすっかり魅了されました。すると前の日と同じようなパターンで、厨房から日本人の料理人が出てきたんですね。『僕はこの店を1ヶ月後に辞める予定なんですが、誰かいます?』って、聞いてきたんですよ。『えー?! 僕どうですか!?!?』って言ったら、『聞いてみましょうか』と、どんどん話が進んで……」
 その場でシェフに、後任として提案された北山さん。会話に参加してみると[シューネック]のシェフは、北山さんが働いている[Ristorante al Borgo]のシェフ、カールとも知り合いだという。お互い有名店同士、話はあっという間に進んでいきそうだった。
「カールには、俺からも言っとくから。で、いつから来れる?」

 偶然が重なって、2つ目の働き先が決まった。


「その後、店に電話がかかってきて、電話に出た人から待ち合わせの駅と時間が書かれたメモをもらったんです。結構山奥にある駅で、本当にいてるんやろか……と思いながら1ヶ月後向かったら、ちゃんと迎えに来てくれていました」
 街並みも人柄も、私たちが想像するイタリアとは大きく違うアルト・アディジェ。もともとはチロル州として現在のオーストリアに跨った州だったのが、19世紀に分割され、北と東はオーストリア領、南がイタリアの統治となった。街中は、南チロルの伝統的な木造建築が並び、その窓辺には赤やピンクの花が咲き誇っている。
「せっかくイタリア語を話せるようになったけれど、ここの人は普段はドイツ語を話すんですよ。標識もドイツ語とイタリア語の2言語表記。メニューは、ドイツ語しかないお店もありましたね。日常的なことで言えば、ソーセージもかなり食べるし、パンも今まで口にしたパンとは全然違う。それにそこの人たちは、ビールをめっちゃ飲むんですよ。全然今まで見てきたイタリアと違うわけです。性格も穏やかな人が多かったような印象ですね」
 街のリストランテで出てくるメニューも、全く違う。
「トマトソースのパスタなんてなかったですよ。そもそもパスタをあんまり食べなくて、パンとメイン料理をいただくことが多かったですね。パンと肉料理、パンと煮込み料理、というような」

 ここも[Ristorante al Borgo]のように、日本人の料理人が入れ替わりで修行に来ていたようだ。さらにはオーストリアやトルコなど、さまざまな近隣諸国から料理人がやってきていた。通常日本人はシェフのサポートに付くようで、北山さんも同じようにサポートから始まった。しかし、北山さんをシェフへつないでくれた料理人のポジションを引き継ぐこととなり、ドルチェの担当に。
「ドルチェ担当とひと言でいっても、ここは全てを任されるんです。お客さんにはメニューの中から4〜5つのドルチェを選んでもらって、それを組み合わせて一つのプレートになるように描いていく。ティラミスをお皿にどーんと盛るようなやり方ではなく、アートのように美しく盛り付けていく。そのためには仕込みの種類も多く、覚えるのはかなり大変でした。当時シェフは二つ星を目指していて、その空気が店全体にあっておもしろかったですね。僕が出てった何年か後には、実際に二つ星を獲得したようです」

 [シューネック]での日々は、あっという間に過ぎ、6ヶ月が経った。1年間のイタリア滞在ももう残りわずかだ。北山さんはシューネックから旅立ち、ロンバルディアの二つ星で働いた後、イタリア全土を回った。ピエモンテの友人の家に荷物を預け、トスカーナやマルケ、エミリア・ロマーニャ、南はシチリアまで訪れる。

「シチリアで食べたイワシとウイキョウのパスタが忘れられない美味しさで。2回食べに行ったら、店の店主が『お前は、日本人か?』って話しかけてきたんですよ。日本から来た料理人であることを話すと『何が知りたいんか?』と、パスタのレシピを教えてくれて。20年以上作っているというシンプルなレシピでした。その時の記憶をもとに、僕もメニューに出しています。僕にとってイタリアで学んだことは、自分の中にあるベースにプラスするためのアイデアになっていると思いますね。イタリアで1年修行を積みましたが、やっぱりベースは一番最初に働いた[Eccolo]のやり方なんです」
 [Eccolo]で学んだことに、イタリアで見て体感したことが肉付けされていく。各地域で守り抜かれてきた味を見て、日本で自分の料理に取り入れられるものは何なのか見極めていく。
「なぜかというと難しいのだけれど、肉料理というものが僕は好き。店でもスペシャリテには、テスティーナ・ディ・マイアーレという、アルト・アディジェのテスティーナ・ディ・ビテッロを元にした一品を出しています。これはアルト・アディジェの郷土料理で、本来は仔牛の頭を使って煮凝りにするんやけど、日本では豚の頭で代用してやってるんですね」
 北山さんが自身の店を独立開業したのは、イタリアから帰国して9年後のことだった。いくつかの店でシェフを務め、独立開業に至った。そして同時期に、日本でもイタリアでも、ずっと付き合ってきた足の問題も手術をすることができ、前へ進むことができた。


「現地の料理店のガヤガヤした雰囲気が好きですねえ。二つ星のようなお店でも、最終的には食べて飲んでたくさん笑っている、という光景ばかり見てきました。食事をする場所って、そういうための場所やと思うんですよ」
 その記憶は、現実として大阪の本町に実った。

 来年で10周年を迎える北山さんの今の心境は、「原点に戻る」ということだという。肉料理が看板メニューとなるけれど、パスタは店の基本。
「なんぼ前菜や肉料理がうまくても、イタリア料理のシェフは絶対パスタを作って、美味しいと言われないとだめやと思う」。そう話す目の奥には、10周年という節目を目前に今一度燃えるような小さな強い炎を感じる。
「パスタはイマイチやなって言われたら、絶対アウトやから。そのために今も毎日ランチメニューを続けている。ランチでも美味しいことが大事やからね」
 
 では、そのためには何が必要か?「当たり前のことやけど、まず日々の体力づくり」北山さんは、そう迷いなく答えた。


<Information>
北山伸也さんのお店
Tavernetta da Kitayama

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