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きょうだい児ってすごい存在なのです。

「Who Cares?」という本を読んだ。
「誰がケアをするの?」という題名で、今後のケアの在り方を民主主義的に考えるというテーマである。

現実問題として、もはや、ケアする人材は不足し、今後も増加は期待できない。このような現状の中、今生きている私たちは、どのように生き抜いていったらいいのだろうか。

「誰がケアをするの?」と言い方のもう一つの意味は
「誰がケアをするのかって?知ったことか。」という意味が含まれる。
人間は生まれたときから死ぬまでに、誰もがケアをうけている。
しかし、誰もがケアをしているわけではない。
「自分はケアをしない」という、特権的無責任階級の人たちがいる。

今は健康だし、家族に障害者も、病人もいないし、自分のことだけ考えて生きていけばいい。障害だとか、福祉だとかはひとごとだから、考えたこともない。だから、自分たちの今の生活には全く関係がない。

という、まあ、一般的に健常者と言われる人々、あるいは、何が起きてもお金で解決ができる(?)と思っている経済力のあるお金持ち。

しかし、特権的階級の人も、いずれは高齢者になり、体が不自由になったり、認知症になったりして、手厚いケアが必要になる。
あるいは事故や病気で、中途障害者になることもあるし、それまで健康だった人が、聞いたこともないような名前の難病になることもある。
自分自身がそういう状態になることもあるし、家族がなることもある。

私は要介護の認定調査員をしていたので、
「まさか自分が福祉のお世話になるなんて思ったこともなかった。」とか、
「車いすを使うような情けない姿になってしまって、外へ出かけられない。」という方や、
「病気のため足を切断してしまった。あんたに障害者の気持ちなんかわかるわけないだろう。」と怒りをぶつけてくる40代の方とか、
「息子の片麻痺の障害は、私が必ず直して見せます。」という高齢の父親など、たくさんのいろいろな方にお会いしてきた。

自分は他人よりもとても優れた能力を持っていると思って、順風満帆の人生を送っていた方が、ある日突然、障害者になってしまった時のショックは、想像するにもつらいものがあるだろう。

青天のへきれきとか、天地がひっくり返ってしまったようだとか、皆さんいろいろ表現してくださった。
健常者だけの世界から見えていたのとは違う世界に入ってきてしまったのだから。

その時に、やっと気が付く。
ケアをされること。
ケアをすること。

「Who Cares?」という本の中には、今後のケアの在り方のヒントが書かれている。

それは、「共にケアをする」ということである。
ケアするというと、ケアの専門家や家族がケアを担当するというイメージがある。
たしかに、今までは、ごく一部の人たちがケアを担ってきた。
そしてそのごく一部の人は、なぜか、職業としては下に見られ、家族としては、収入のない人、あるいは女性など、地位的に下に見られがちな人が担っていた。

職業としてのケアは、他の職業に比べて、給与が低く、労働がきついため、なり手が少ない職業である。
他に仕事がないから、とか、リストラされたから仕方なくという理由でケアの仕事に就いた人は多い。
私もその一人だ。

ケアの職場は、なんだか人生のふきだまりのような感じだった。
それでも、働いているうちにケアの面白さがわかってきた。
なかなか面白いところもある仕事なのに、なぜだろう。
ケアの仕事というと、ネガティブなイメージが先行する。

それは、とりもなおさず、私たちが生きているこの社会で、ケアという仕事が、見たくないもの、したくないこと、ひとまかせにしておきたいこと。
自分の生きている社会より、一段低いところにある仕事だと思っている人が多いからだろう。

排泄介助、入浴介助、食事介助、認知症介助、障害者介助。
ときには暴言を浴びせられ、ときには排泄物を浴びせられ。
「人間のやる仕事ではないよ」とはっきり言う人さえいる。
「えらいねえ」と声をかけてくる人の目には、哀れみさえ見える。

だけど、これは人間のやる仕事なのだ。
「人間が生きていく」という一番大事なことに関する仕事だから。
科学が発達して、ロボットが導入されることもあるだろうが、ロボットの開発は人間の仕事である。

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