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勉強の時間 人類史まとめ20

『帝国』アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート4


自主管理的による支配


自由で民主的な仕組みに従って、自分たちの欲求が満たされるならそれでいいじゃないかと、多くの人は考えるでしょう。

しかし、この自由で民主的な仕組みが、実は自然環境を地球規模で破壊したり、強いやつが弱いやつを食い物にしたり、人間の精神を自分で気づかないうちに蝕んだりしているとしたらどうでしょう?

環境破壊はすでに大問題になっていて、国際的な取り組みがはじまっていますし、格差の拡大も先進国とそれ以外、大富豪やエリート層とそれ以外など、古代や中世の身分のように固定化されつつあります。

ITなど先端テクノロジーをいかしたビジネスが急速に発展したおかげで、19世紀から20世紀にかけての産業革命のように、一代で大富豪になる人たちも出てきましたが、一握りのスーパーエリートがすべてを手にして、大多数の人はますます存在価値をなくしていくという、産業・社会の構造は変わりませんし、テクノロジーの進化のおかげで人の手を必要としなくなっていく分、格差はますますエスカレートしつつあるとも言えます。

科学と経済がリードする時代、理性や知性、合理性ですべてが動く時代なのに、人類は自分たちの大多数が不幸でみじめになる仕組みを進んで運営していると見ることもできます。

家族や友達と仲良く暮らすことで幸せを感じられる人はいいでしょう。いろんな企業が提供してくれる娯楽で幸せを感じられる人も、まあそんなに自分を不幸と感じないで生きていられるかもしれません。

しかし、人付き合いが苦手な人、家族とさえうまくやれない人もいます。収入に応じてお金で買える娯楽は無数にありますが、そういうものを楽しめない人もいます。そういう人は世の中を憎み、自分に苛立ち、自分を責めながら、孤立して生きています。ノイローゼになったり発狂したり、自殺したり、人や動物を殺傷したりするのは、そういう人なのかもしれません。


敗者の自己責任


世の中やまわりの人に迷惑をかけずになんとか生きている人は、「自由な社会で幸福になるのも不幸になるのも自己責任なんだからしかたない」と考えるでしょうか。

たしかにそれも一理あります。

しかし、合理的で理性的で科学的な世の中が、成功者とそれより多くの敗者を生みだしてしまっているとしたらどうでしょう? 多くの人が合理的で理性的で科学的な世の中の仕組みにストレスを感じてしまうとしたら、それは本当に合理的で理性的な仕組みと言えるでしょうか?

今の先進国がたどり着いた、自由で民主的な社会は、実際には多くの人にとって受け入れがたい過酷な決まり事を強制する社会なのかもしれません。現代人も古代や中世の理不尽な支配の下で、それを受け入れながらなんとか生きていた民衆とそんなに変わらないのかもしれません。

歴史を振り返ると、原始時代や古代、中世には宗教が大きな力を持っていて、人々は近代以降の我々から見ると馬鹿げて見えるような宗教儀礼にものすごい労力と富を注ぎ込んだり、存在しない神様を拝んだり、生贄を捧げたり、神々と交信できるとされるシャーマンや神官などに支配されたりしていたわけですが、今のバイオポリティカルな仕組みも、案外それと変わらないのかもしれません。

多くの人が今の仕組みは科学的で理性的で合理的だと信じているかもしれませんが、昔だって精霊とか神々とか神官の神聖さを信じる人たちは、それがすばらしいことだと信じて疑わなかったわけです。

いつか人類がこのバイオポリティカルな夢から覚めて、もっと自然や人間同士と仲良く生きるようになり、持続的に生き延びることができるようになったら、この近代の仕組みを、頭のおかしい連中が考えた野蛮で破壊的なシステムだったと見るようになるかもしれません。


自主管理的な支配からの脱出法

『帝国』はこうした今の世界の仕組み、人間が自分たちで自分を支配する仕組みを、古代ローマの帝国と今のグローバル「帝国」の比較、ルネサンス期からの思想史や1960年代の反体制運動やテクノロジーの進化とそれに対応して変化した資本・産業など、いろいろな視点から分析し、解説してくれます。

しかし、じゃあこの「帝国」のソフトで自発的な支配構造から脱出して自由になるにはどうすればいいのか、このバイオポリティカルな支配構造をもっとましなものに変えるにはどうしたらいいのかといったことになると、あまり説得力のある提案はしてくれません。

人間ひとりひとりについて言えば、最初にちょっと触れたように、今の社会・経済・産業の仕組みが中央集権型でないこと、ITネットワークによって結ばれたフラットなものであること、誰でもネットワークのどこからでも発信し、行動できること、国境を超えて自由に移動できること等々をいかして、自由に働き、行動できるといったことが語られています。

しかし、自由に行動しても、貧困国でまともな教育を受けられずに育った人は、先進国に行ってもわずかな賃金で飲食店やコンビニや工場、農家の下働きをするくらいしかできません。

グローバル時代に自由な生き方をしてまともに暮らすには、最低でも金融、ビジネスマネジメントなどの知識を身につけてビジネスでうまいことやるか、テクノロジーを学んで研究者、エンジニアになるくらいしかありません。

アジア・アフリカ・中南米・中東など、世界の多くの地域では、こうした教育を受けることができる人はかなり限られています。つまり、多くの人にとって、この個人的なチャンスは閉ざされているのです。

先進国の人たちはその点恵まれていますが、社会の上のクラスで生きるには、知識やノウハウ、技術を身につけたり、それらを駆使したりしなければならないし、それにはものすごい集中や努力が必要ですから、そういうややこしいことに縛られて生きることになります。当人がそれをどう意識するかは別として、大なり小なりゲームに進んで服従する奴隷あるいは家畜になるわけです。


「帝国」変える方法

こうしたゲームを強いるバイオポリティカルなグローバル「帝国」をいかに変えていくかといったことになると、『帝国』の提案はもっとわかりにくくなります。

簡単に言うと、無数の人々が問題を意識して、変革につながる行動をしていくべきだということらしいのですが、『帝国』の仕組みが巨大で複雑なので、それと無数の人々がどう関わり、戦い、仕組みを変えていくことができるのか、僕にはいまいちわかりませんでした。

この無数の人々を表すのにネグリとハートは、かつてマルクス主義者がよく使ったプロレタリアートとか大衆といった言葉の代わりにマルチチュードという言葉を使っています。

「大衆」というと、均質的なひとかたまりの感じがしますが、「マルチチュード」はマルチですから多様で多元的な人の集まりということになるんでしょう。無数の人々がそれぞれの多様性をいかして、多元的な活動をしていけばいいということでしょうか。

しかし、それがどうやって「帝国」の支配構造を崩して、無数の人々が生きやすい世界を作ることができるのかが見えてきません。

本の終盤に向かって語り口はだんだんかつての左翼的なアジテーションみたいになっていきますが、用語が哲学的で抽象的なので、現実の世界でどう行動したらいいのかわからないのです。

この本もやはりインテリの限界を超えるものではないのかなという気がします。それでも、巨大で複雑な世界の理解を深めてくれる示唆に富んだ、いい本だとは言えますが。

ただ、バイオポリティカルな支配な支配から脱出するためのヒントになりそうなのは、人間が自分で自分を支配してしまうバイオポリティカルな支配の構造そのものが、支配体制に生じるひび割れ、裂け目であるという、ネグリとハートの指摘です。

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