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痛いことは痛いと言えるようになりたい


いつからかわかりませんが、痛いことは痛いと言えなくなっていることに気がつきました。


子どものころは、痛いと泣き叫ぶことは当たり前に与えられた権利だったので

痛いと感じる

泣き叫ぶ

痛いと感じていることをまわりに伝える

という流れが自然にできていたのですが

気がついたら、痛みを感じてもそれをまわりに伝えることができなくなっていました。



大人になってから「痛い」と言うことが難しくなってしまったのは

そこにいろいろな意味が含まれてしまうからなんだろうと思います。

「痛い」(私は悪くない)
「痛い」(謝ってほしい)
「痛い」(私は弱い)
「痛い」(いたわってほしい)

などなど。



子どもが痛いと泣き叫ぶことが自然なこととされているのは、

子どもは“か弱くて守られる存在”だと思われているからです。

まだ痛みに十分耐えうる年齢ではないと思われているからです。

けれど大人になると、痛いと思ってしまうこと、それをまわりに伝えることに、なんともいえない“恥”や“罪”の意識を感じてしまいます。

ガマンするのが大人なのだという自戒が、無意識に働いてしまうのです。


痛いと言うのは

自分の権利を主張するということです。

自分の尊厳が傷つけられ、一人の人間として尊重されていないことに抗議する意味を持ちます。

ただいつのまにか、自分の権利を主張することが

“わがまま”、“場をわきまえない”、“自分勝手”などのイメージと結びついてしまっている気がします。



しかし、

痛みを我慢することは、必ずしも大人とは言えないように思います。


痛かったことをきちんと認めること。

そしてそれを適切にまわりに伝えられること。

それが、本当の大人なんじゃないかと思います。



本来、痛いと感じるのは“正常”な反応なのに

それを痛くなかったとみなすことは、“異常”な反応です。

痛がることはよくないことだという“異常”な考えを、“正常”なこととしてとらえようとするので、

どうしてもそこにひずみが生じます。

このひずみを抱えた状態でいると、かならずメンタル面で限界が来ます。


自分の精神を蝕んでまで自分の痛みから目を背けることは、大人とは言えません。

なぜなら、それは結果として自分を愛してくれるまわりの人を悲しませることにつながり、

何より、自分らしく生きたいと願う自分自身の尊厳を踏みにじってしまうからです。


誰だって、

転べば、痛いです。

スッと立ち上がって、何事もなかったかのようにスタスタ歩き出す必要はないのです。

しばらくそこで、痛みに悶え動けないままうずくまっていていいのです。

痛かったから動けないでいるのに、

それを知っている上で“舌打ち”をしてきたり、

「そんなとこにいられてもジャマ」と言ってくるような人の相手をする必要はありません。

もとより、

“こんなところにいると人のジャマになってしまうのだから、早く立ち上がらなくては…”

などと思う必要もありません。

それは、立派な“自分いじめ”でしかありません。



同じ指紋を持つ人が誰一人としていないように

痛みの感じ方も人それぞれならば、

そこから立ち直る方法や時間も、人それぞれです。

自分よりもつらい経験をしている人がいるから、とか

自分は恵まれている方だ、とか

何か理由をつけては、自分の痛みと正面から向き合わないでいると

かならず限界を迎えるときが来ます。


あなたの“傷”は、あなたの価値をおとしめるものではありません。

その傷を適切に処理してあげられないときに、思わぬ刺客・・となって目の前に立ちはだかってくるだけなのです。




どうか

自分って、なんて弱いんだろう

どうして普通にできないんだろう

などとは思わずに、

まずは自分が自分の傷に気づいてあげて、いたわってあげて下さい。


私はまず、痛かったことを痛かったと自分の中で認めていこうと思います。

それをまわりになかなか言えなかったとしても、

自分で痛かったのだと思うだけでも、違ってくると思うからです。


痛いことは、痛いと思っていい。

そしてそれを、まわりの人に伝えていい。

それが、本当の大人なのだと思います。





以上です。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました🍀


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