ラディカルの先に蠢くものとは…
時代が変われば人の価値観も変化する。
若気の至りからか、感情をむき出しに怒りに任せた時もあったが、年を追う毎に感情を押し殺した方が利口だと学ぶ。
そう考えると、映画監督のスパイク・リーは随分と角が取れた感じがする。
「スクール・デイズ」や「ドゥ・ザ・ライト・シング」が世間から注目を集めた時期は、一貫して黒人の出演者だけで固めていた。
そして世論からナイキなどの広告で商業的に儲けていると非難されると、「ロバート・デ・ニーロもレストランを経営しているじゃないか」と平然とした顔で言い返す所は、常に戦う姿勢を崩さない人なんだな…などと、勝手ながら思ったものだ。
スパイク・リーの作品を通して今までと最も違った作品は邦題「25時」だろう。
その理由は主な出演者がエドワード・ノートン、フィリップ・シーモア・ホフマン、バリー・ペッパーといった白人の俳優だったからだ。
つい最近と言っても過言ではない、2018年に公開された邦題「ブラック・クランズマン」は久しぶりにスパイク・リーならではの、コミカルな要素を交えた実話に基づく今のアメリカ社会に叩きつけた硬派な映画だと感じた。
簡単なあらすじを説明すると、時は1972年、この作品の原作者であるロン・ストールワースがコロラド州の警察署でアフリカ系アメリカ人として警察官に採用される所から始まる。
最初は雑用が主な仕事だったが、ロンは上司に潜入捜査の方が向いているとアピールするが相手にされなかった。
この時代は公民権運動や黒人の解放を訴える激しい時代でもあった。
警察署内でもこういった運動には手を焼いていた。
そこでアフリカ系アメリカ人であるロンに黒人が集う集会に潜入捜査を依頼する。
これを機にロンは情報部に正式に配属される事になる。
仕事中に新聞を見るとKKK(クー・クラックス・クラン)の広告が目に入る。
ロンは迷わず電話をかけると幹部に繋がる。
ロンの巧みな白人訛りの口調もあって、電話の向こう側の幹部はロンを怪しむ事なく白人だと思い込む。
そこでロンが思い付いた案は、電話連絡係を自身が行い、直接対応するのは白人のフィリップ刑事が担当する事となる。
続きは直接観て欲しい。
それにしても、スパイク・リーはブレないというか、物語が過酷な内容でもユーモアを取り入れる。
しかもバカ笑いさせるのではなく、かといってクスクス…でもない。
どちらかといえば滲み出る様な後から伝わる笑いだ。
それとこの作品は単純に白人至上主義のKKKを悪者にしているのではなく、敵や味方といった概念にこだわる事自体が滑稽であると随所に伝わる。
確かに真っ向から今の政治を皮肉っている点はある。
これは個人的な意見に過ぎないが、スパイク・リーという監督は映画を通して事実を見つめようと真剣に取り組んでいる作家でもあると思う。
昔からスパイク・リーをラディカルと称す人も少なくない。
作品の中にも過激な表現や急進的な物語が目に入るのも事実だ。
反対に言えば、例えば今を舞台にした作品であるならば、その題材が極端だからこそ逆らうというより主張を強めた結果が作品に現れるのだろう。
今もなお、アメリカは例の選挙で一向に物事が進まず止まった状態だ。
若い頃にアメリカの文化や映画、ファッションや音楽に憧れていた。
もっと率直に言うとあの頃のアメリカは輝いていた。
ロサンゼルス・オリンピックの開催式に流れた映像はまるで夢の様だった。
観たことのない形状を背負い人が宙から舞い降りてくるのだから、本当にアメリカってすんげえ!とも思った。
兎も角、この作品を観て感じたのだが、混沌とした世間を正すのではなく、共存を強く望んでいるのだろうという点だ。
作品の最後に実際の映像が流れるのだが、実際犠牲者があり、とてもショッキングな内容だ。
「これはフィクションではない、実際に問題は起きていてまだ解決もしていない」といったテロップが現れる。
作品は実在の物語を基にしているがフィクションである。
これは主観的な意見だが、スパイク・リーは実際の社会は事実そのものだという事を伝えたかったのだろう。
そう考えるとスパイク・リーが残した昔の作品を改めて観ると、最後にマルコム Xの言葉で締め括るシーンを思い出す。
敢えてマルコム Xの言葉を引用するならば、「信念を持たない人間は、あらゆる事に流される」
この様な言葉がスパイク・リー自身が代弁している様だ。
そうそう、久しぶりにスパイク節 炸裂!っといった作品だった☆
なう!なう!なう!!
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