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エリナ・リグビー

あるニュースについて考えている。
詳細は書かないけれど、情報収集するにつれてなんだか悲しくなった。

犯罪は犯罪。
だけれどそこに至るまでにも背景や経緯はあるのだ。
本当にその当事者のみが悪いのか、ということにフォーカスするなら、きっといつも答えはノーなのだろう。

もちろんそれでも憤りしか覚えないニュースもあれば、同情を禁じ得ないニュースもある。
今回は後者だった。複数人逮捕者が出たが、その全員が悪意 100% だったとは思えないのだ。むしろ、純粋すぎたゆえに歪んでしまったのかもしれない。

被害者がいる以上、その責任の所在を明らかにして何らかの処分をしなければならない。それは分っている。
罪を憎んで人を憎まず、なんていうのはかなり高度な精神力のいることだろう。

しかし何だか悲しくなった。
あれだけのお金が動きながら、誰も救われなかったのかと。

本当に救われなければならなかった人が、救われずに犯罪を犯してしまうケースは、きっと枚挙にいとまがないのだろう。

犯罪とは一切関係がないけれど、今回の件でビートルズの 'Eleanor Rigby' がスッと記憶の中から呼び起こされた。


これを初めて聴いたのは 10 代後半のときだったと思うが、どこかゾッとするような旋律に不穏さを覚えながらも、不思議と惹き込まれるものを感じた。

曲の詳しい解説はほかの方に任せるとして、なぜか私はこの曲を 「孤独な老婆と神父のストーリー」 と認識していた。
ネットで調べたところ、世間的にもちょっとそういう傾向があるように見える。

が、「老婆」 というのは歌詞のどこにも書いていないのだ。

"Ah look at all the lonely people
Ah look at all the lonely people

Eleanor Rigby, picks up the rice In the church where a wedding has been
Lives in a dream
Waits at the window, wearing the face That she keeps in a jar by the door
Who is it for

All the lonely people Where do they all come from?
All the lonely people Where do they all belong?

Father McKenzie, writing the words Of a sermon that no one will hear
No one comes near
Look at him working, darning his socks In the night when there's nobody there
What does he care

All the lonely people Where do they all come from?
All the lonely people Where do they all belong?

Ah look at all the lonely people
Ah look at all the lonely people

Eleanor Rigby, died in the church And was buried along with her name
Nobody came
Father McKenzie, wiping the dirt From his hands as he walks from the grave
No one was saved

All the lonely people Where do they all come from?
All the lonely people Where do they all belong?"

The Beatles; 'Eleanor Rigby'


エリナ・リグビーに関しての情報は冒頭部分から、

「結婚式がおこなわれた教会でコメを拾う」

ということが分る。

ちょっと飛ばすが、最後にエリナ・リグビーは死ぬことから、なんとなく 「亡くなってもおかしくない高齢の女性」 を勝手に想像していたのではないか。

そうするとなんとなく (私たちが日本人ということもあって) コメを拾うのは食べるために拾うのであり、エリナ・リグビーは今日の食べ物にすら困る貧しい老婆のような気がしてしまう。


たまたま昨日、あるネットの記事を読んでいたのだが、イギリス人は果たしてコメを食べるのだろうか?

↑ にも 「ライス プディングが英国唯一の米料理」 と書いてある。


友人の話に限って言えば、イギリス人でもコメは食べる。ただ、彼らはカレーが好きなのでカレーを食べるゆえにコメを用意している気がする。
彼らがカレー以外でコメを食べているのを見たことはない。
もちろんイギリスは人種のるつぼだし、インド人やパキスタン人など、コメ文化の人もたくさんいるので、スーパーでもコメはもちろんコメが主食の即席ミールなんかも売っている。

しかし 「売られている」 ことと、「食料としてみなす」 ことはイコールではない。友人の買っているコメは近所のスーパーで適当に買ったタイ米だし、炊飯器も台湾旅行の際にわざわざ買って帰ったものだというが、これが昭和の初期か? というくらい使いづらいモノである。
(内釜はフッ素加工していないのでコメはくっつき放題だし、水を入れる線もよく分らない)

イギリスで炊飯器を買うのは簡単ではなく (ジャポニカ米を買うにも Japan Centre 等、日系スーパーを利用する必要がある)、日本人と同じようにコメを炊いて主食として食べる文化では決してないのだ。

ましてや、この曲の発表は 50 年近く前である。
当時のイギリス人が米を拾うからといって、その理由を 「貧しいので食べるため」 と断定してしまうのは少し待った方がいいような気がする。


歌の歌詞は普通の文章とは異なるので、文法どおり厳密に訳せるかというとそうではない。

特に下記の部分なんかは、英語圏でも 「どういう意味?」 と議論が交わされているのである。

"Waits at the window, wearing the face That she keeps in a jar by the door"

直訳すると、「ドア近くに置かれたビンの中にしまってある顔を貼り付け、窓のそばで待っている」 だ。

この 「ビンの中にしまってある顔」 というのは、化粧のことだ、彼女が孤独を隠すために貼り付けているマスクのようなものだ、と諸説ある。
私は 「化粧をする」 と解釈するより、直訳どおり 「顔を貼り付けている」 とする方が好みだ。
なんせ (個人的に) この曲は不穏であり、エリナ・リグビーは 「夢の中に棲んでいる」 のである。
だからそんな魔女っぽい表現の方が、より得体の知れない女性感を演出する。

また、この解釈が合っているかは不明なのだけれど、最初の塊をまとめて抜粋すると下記である。

"Eleanor Rigby, picks up the rice In the church where a wedding has been
Lives in a dream
Waits at the window, wearing the face That she keeps in a jar by the door
Who is it for"

エリナ・リグビーは結婚式がおこなわれた後の教会でコメを拾う
夢の中に棲んでいる
ドア近くに置かれたビンの中にしまってある顔を貼り付け、窓際で待っている
誰のために


注目したいのは、「すべて現在形で書かれていること」 である。
現在形というのは 「普段から繰り返しおこなわれていること」 というのを表すのに使う。

たとえば 「私は知っている」 というのを 'I'm knowing ~' ではなく、'I know ~' と言うのは、'know' という動作が連続するからだ。
ひとつのことにおいて 「知っていること」 と 「知らない」 ことを切り替えることはできない。もう、知ってしまったなら知らなかった自分に戻ることはできない。

'I live in Japan.' というのも、厳密に言えば 「私は日本に住んで (きたしこれからも住む予定で) います」 だ。
もし 'I'm living in Japan.' と言えば、「(この瞬間は) 日本に住んでいます」 という意味になるので、相手は 「この人は普段から日本に住んでいないこともあるんだ」 と認識する。


したがって、エリナ・リグビーは習慣的に結婚式後の教会でコメを拾っていることになる。それはつまり、文字どおり糊口をしのぐためかもしれないが、生業なのかもしれない。

また、「夢の中に棲んでいる」 という描写も気になる。
貧しい老婆ならとっくに現実を嫌というほど思い知らされているのではないか。
夢の中に棲もうにも、現実には虚しくお腹が減り、本来イギリス人は食べないはずのコメ (調理法は多分ゆでるだけ) を拾い、幸せ絶頂にいる人のおこぼれに預かりながら、命をつないでいる。
そしてこれが習慣的におこなわれている。

想像しただけで人生に期待してい (でき) なさそうな感じが漂うのに、「ビンの中にしまってある顔 (あるいは化粧)」 を貼り付けて、「窓のそばで待っている」 のである。
夢の中に棲んでいて、何かを期待してそのための準備をしながら、誰かを待っているのだ。

どうも 「貧しくて未来のない老婆」 というイメージがしっくりこない。
意外と、婚期を逃した 30 ~ 40 代の女性なのかもしれない。

ただそうなってくると、やはり後半のエリナ・リグビーが死んだこと、また葬式に誰も来なかったことがしっくりこないのである。
若いのなら彼女を知る者は多くいるだろう。家族だって健在なのが予想される。

また上の仮定 (30 ~ 40 代) が事実とすると、婚期を逃したにしても若い女性には違いない。そうするとマッケンジー神父に関する下記の部分が、淡白なように思える。

Father McKenzie, wiping the dirt From his hands as he walks from the grave

「マッケンジー神父、手の汚れを拭いながら墓から戻ってきた (くる)」

神父なのだから、老若男女問わず人の死なんか毎日だよ、ということなのかもしれないが、まだ若い、未来のある人間が亡くなったのだからもうちょっと感情があっても良さそうである。


そうか、やはり彼女は老婆なのか。
寿命がきてもおかしくないような年齢なのか。
老婆だけれど、羅生門の老婆のように 「生きるため」 と割り切って死体の髪を抜くような浅ましい行為には至らず、教会の清掃員としてきちんと働いて収入を得ているのかもしれない。

けれど結婚への夢を捨てきれなかったから、わざわざ結婚式の後の掃除を仕事に選び、何かまだ自分にもチャンスがあると思って 「しかるべき時」 のために 「顔」 をすぐ取り出せる場所に用意し、窓際で誰かを待っているのかもしれない。

そう思うと、周りにはイタい人のように映っても、本人は結構幸せなのかもしれない。


マッケンジー神父の孤独に関しても、キリスト教文化に詳しいとよりよく分るのだろうなー、と思った。
友人も子供の頃は日曜に教会に通っていたけれど、大人になってからは行っていないと言っていた。
もちろん、これは人によるだろうが。

説教は誰も聞かないし、神父に寄り付きさえしないのに、それでも周りの目を気にして夜にコソコソと靴下を繕う神父。
ちょっとかわいいような気もする。

しかし、この 「結婚式後のライス シャワーのコメを拾う孤独な老婆」 とか 「(神父なのに) 誰からも慕われておらず、それでも人目を気にして靴下を繕う神父」 とか、傍から見たら惨め極まりないエピソードをよくこんな短いフレーズで表現できるものである。
やはりここに彼らの人気の理由があるのだ。


この曲の wiki を見て大変驚いたのだが、全く関係のない同姓同名の人がいたということだ。

彼女の名前が英語圏でありふれたものかどうかは私には分らないが、そんなこともあるだろう。

ただ、この曲が発表される前に彼女はその生涯を閉じている。
しかしこの曲により彼女の墓がファンの間で 「聖地」 となっているのだそうだ。
しかもメンバーの出身地であるリヴァプールにあるそうで、きっと毎年相当な数の人が訪れるのだろう。

私が実在のエリナ・リグビーだったら & 死後も意識があるなら墓参者に対して 「誰?!(Ꙭ )」 と思いそうだ。REST IN PEACE どころではない。

遺族もビックリだろう。
突然縁もゆかりもない人達が、自分のお婆ちゃんの墓参りに各国から大量に訪れるということだろう? ツアーなどにも組み込まれているかもしれない。
「どんなお婆さんでしたか?」 などとインタビューなんかも受けていたりして……。

いやー、もう色んな意味でビートルズの凄さを再確認した。


今回勉強になったのは、「ライス シャワー」 は和製英語であるということ。本来は 'rice toss' と言うらしい。
あと、ブーケのように 「落ちたコメを拾って私も次は幸せに!」 的なジンクスはないようだ。



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