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蟻塚

 高い、細い声が夜明けの寝室につうと引かれて、私たちの時間は終わる。窓のへりに穴をあけて取り付けた小さな台からグラスを取り、水を含んで少し飲み下し、ベッドの上で半身を起こしている人にくちづけて残りを受け渡す。

「おいしい」

 運動したからねと思いながら私はうなずく。私の下腹部はまだ潤いが残っていて、でもそれは私だけの潤いなのだった。

「寝る?」

「うん、少し。明日も仕事だから」

「もう今日だけどね」

「そうだね。チカも寝て……」

 電気が消えるように、しゅるしゅると眠りに落ちていった相手の髪を撫でる。多分起きていたら喜ばれない。無防備な状態の人にこういうことをするのは背信行為だろうか。私は撫でたかったし撫でて欲しかった。


 ラボは白いしオフィスも白い。私も白い仲間になって、今日結果をまとめなければいけない報告書を書いている。

「西村、お昼いかない?」

 私に声をかけてくるのは同期の山岡だけだ。顔をあげるとやっぱりそうだった。まだ一区切りついてないからと言おうとして、時計を見るともう12時30分を回っていて、急に空腹感がぐっと胸に迫ってきた。

 私は緑色のセーター、山岡はネイビーと赤のチェックシャツになって食堂に向かう。今日のA定食は鶏の唐揚げ甘酢あんだった。なげやりによそわれた紫キャベツやキャベツや人参の山に、いくらかけてもなぜか十分な味がしないドレッシングをかけて、山岡の携帯が置いてある席の正面に座ると、福神漬けを三杯くらい盛ったカレーをトレイに乗せて、山岡がやってきた。

 食堂にはテレビがついていて、マーケットの話とか、新しくアメリカ大統領に就任した男の話をしていた。

「スペンサー氏は大統領としては初のウノ出身で……」

「へえ、あの人ウノなんだ」

 平らな液晶画面には、スーツのジャケットの前をあけ、突き出た腹の上に赤いネクタイをたらした、白っぽい金髪の男が頬を桃色に染めて、支持者に手を振っている映像が流れている。私は山岡の独り言とも話しかけともつかない声をどう処理しようかと考え、鶏をつつきながら興味なさそうに「そうなんだ、すごいね」と言うにとどめた。

「まあ実際ウノの方が人数多いからそうなるのか」

「そうだよ。日本だって、最近ウノが外相になったりしてるしね」

 山岡は少し不安そうな顔をしている。もっと私から言葉が欲しいんだろう。ウノは別に私たちを脅かす存在ではないよと言おうとして、言葉の嫌らしさに私は口を開くのをやめてしまった。きっと夜もメディアはこの話題で持ちきりだろう。今日はテレビを点けられないなと思う。


 ヒロのことを、全部食べつくしてしまえたらいいのになと思うことがある。Expanderでつながって、二人とも関東に住んでいることが分かって、とんとん拍子で会うことが決まった。髭は薄くて声も少し高くて、二つ下にしては少年っぽいなとは思っていた。bioには「どうでもいいことしかつぶやきません」としか書いていなくて、告白されたのは、出会って一年くらいの頃だった。ヒロはご丁寧に、ウノの恋人までいるんだと私に白状して泣いたけれど、私はそれで同棲を決めた。ヒロの言葉を信じるなら、ウノの女とは手を切ったらしい。私はそれが本当でも嘘でもどっちでもいいと思う。どちらにせよ時間は限られているし、私はヒロを得ることができないから。

 家につくと珍しくヒロがもう帰ってきていて、ちょっと遅いけど外に食べにいこうと言う。職場でいいことがあったのだろうか、体の動きがちょっと妙で、見ていて落ち着かないけれど、こちらまでいい気分になる。昨晩夜更かしさせてしまったから少し心配だったのだ。

「いいね、どこにする? こないだのバル?」

「そこでもいいんだけど」

 ヒロが指定した洋食屋は、バルよりも自宅に近いところにあった。コンクリート造の堀で囲われた川添いは春の風が強めに吹いて寒かった。カウンター席が三つにテーブル席が四つ。店内に仕切りは何もなくて、オーナー兼コックらしい、コックコートを着たおじいさんがカウンターから「いらっしゃい、奥の席にどうぞ」と私達に声をかけた。

「大きな案件が決まったんだよ。正式決定はまだだけど、ほぼ決まり」

「そっか、おめでとう」

 私は白ワイン、ヒロは辛いジンジャーエールで乾杯をする。

「多分給料も増えるんだ。まあせいぜい納税するよ」

「そんなこと言って」

 言葉は自虐的だけど、今日のヒロは大丈夫。そんな風におっかなびっくり接していたら、こんなに近いところにいるんだもの、気付かれてしまう。ヒロはぼんやりしているように見えて、私のことをよく観察しているから。

「うんでもまあ、納税でもなんでも、何かに役立ってると思えるのはいいよね」

 納税は遠すぎて、役立っている感じがしないけどと言う。深い茶色のソースに覆われたハンバーグが二つ運ばれてくる。スープ皿を下げてもらい、パンとご飯の皿を受け取る。ものすごく美味しいかという訳ではないけれど、ヒロの顔が緩んでいる。ここにまた来ようと思う。一緒にいられる限り、何度も。


「今日はしなくていいから、何も着ないで一緒に寝たい」

 ほら、昔の遊牧民族の知恵では、裸で寝た方が温かいらしいし。とってつけたような理由だと思ったけれど、ヒロは着かけたスウェットを脱ぎ始めた。

「……いいよ。お互いパンツだけははく?」

 私がシーツを濡らすと思っているヒロの、わき腹をちょっと押してみる。

「ちょっ、やめっ、ごめんごめん」

 敷毛布も掛毛布は冷たい湿気を含んでいたけれど、あたたまると甘いような酸いようなにおいがしはじめた。ヒロの髪に鼻をうずめると、最初はシャンプーの桃のにおいがして、それから少し青い、汗のにおいと果実のにおいが混じる。これまで人と一緒に眠るのは苦手だった。私の首の下に通してくれている、ヒロの腕のしびれも気になる。ヒロは同棲を始めた頃、こんなに長く付き合った人は今までいなかったと言った。私にとってヒロは四人目の恋人で、それは私達としては至って平均的な人数だ。そんなところからして、私とヒロは違う人種なのだ。そのことが愛おしいのか、ヒロという人そのものが愛おしいのかは、分からない。

 私の手から離れた後のヒロはどう生きていくんだろう。前の彼女とヨリを戻したっていい気もするし、ずっと私を覚えていて欲しいとも思う。それを見届けることはないと思うと、突然泣きたくなることがあるけど、ずっと生死の分からない猫でいて欲しい気もする。私も時が来て繁殖するようになったら、私だけの相手を見つけるようなことはもう出来なくなる。

 私の目から涙が落ち、シーツに落ちた。ヒロはもう寝息を立てていた。




※note30日チャレンジ7日目 累計 12,196文字 (オフライン含め14,030文字)

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