絵に描いた餅(に恋は出来ない)
その人は、この場所にはおそろしく似つかわしくないように見えた。
薄クリーム色の部屋には、しゅうしゅうという空気を送り出す音、ピッピッピッという小さな機械音が響いている。
昼下がりの陽光は、壁の色とほぼ同じ薄クリーム色のカーテンを通り越して、窓際に立つと暑いほどだったけれど、光も熱も窓のそばでちらちらと遊んでいるだけで、ベッドに寝ている人のところにまでは到底届かない。
縮れた白く長い頭髪と髭、粗末な綿を何枚も重ねたような白い、といってもところどころ薄茶色く汚れている着物のような衣服は、国語や歴史の教科書に出てきそうな出で立ちであった。上に不織布の帽子とスモックを身に付けているのが、却って異様な感じだった。彼の隣に立つスーツ姿の男は、ベッド際に立つ男女にやや済まなさそうな、それでいてどこか傲然としたような様子で話しかけた。
「ご紹介いたします。この方が考案者、湖さんです」
湖と紹介された老師は、病院に持たされた滅菌済みのビニール袋の中からおもむろに巻物を取り出した。湖が話を始めないので、スーツ男が口を開いた。男の頬は紅潮し、額には汗が滲んでいる。
「これが品物になります。ええと、これをどこか壁に……見やすい場所がよいですから、このあたりはいかがでしょうか。どうですか、見えますか?」
ベッドの中から強い眼光を発している、小さい頭がかすかに動いた。男はポケットからピンを取り出すと壁に巻物の上端をとめ、下にだらりと広げた。
「まあ、言葉でご説明をしてもなかなかご理解いただけないでしょうから、実際にやってみましょう」
スーツ男が後ろに控えていた看護師に何か渡した。看護師はベッドの上の人物にかがみ込み、こめかみに器具を貼り付ける。目ばかりが生きていて、他は青白かった患者の顔がほころび、「わあっ」と声をあげた。真っ白だった掛け軸の上に、あつあつのカツ丼が浮き上がっていた。揚げたてのカツの油や、しょうゆとみりんの甘い香りがただよってくる。
「このように、頭で考えたことが本物さながらに現出する仕組みになっておりまして」
「これはVRのたぐいになるんですか」
焦茶色のセルフレーム眼鏡をかけ、コーデュロイのジャケットを着た男が、掛け軸の裏をのぞき込みながらスーツ男に質問する。
「いえいえ。たしかに脳波を捉えるためには最新の機器を利用してはおりますが、この掛け軸そのものは弊社、いえ湖が開発した独自の技術によってですね」
「すばらしいわ。これでこの子も少しは病院暮らしの憂さ晴らしができると思います」コーデュロイの隣にいた、ニットワンピースの女がスーツ男に頭を下げた。契約は決まったようだった。
「私は時々、様子を見に来ようと思っています」
話し合いの最中、ずっと黙ったままだった湖老師は、去り際に男女にこう伝えた。ベッドの上の子供だけが、目を輝かせて頷いた。
☆☆☆
「ほら、ちゃんとした装置だったじゃない」
「匂いまで再現するとはね……一体どういう仕組みになっているんだか」
「いいじゃないの、とりあえず今月は無料にしてくれると言うのだし」
「しかし湖とかいう開発者、いかにも妙じゃなかったか? あんなコスプレまでして」
「さあ……そういう演出をすれば子供にウケるんじゃないのかしら。向こうも商売なのだから」
「勇臣は喜んでいたな」
「そうよ。あんな顔は久しぶり。あの子がここから出るのは、難しいのだから……」
☆☆☆
湖は、最初の週は三日に一回のペースで少年のところにやって来た。その頻度を看護師にたしなめられてからは、一週間に一回になった。家族ではないのに面会カードを特別に与えられ、不織布をまとう前に首から下げた。
少年と湖はすぐに仲良くなった。湖は、よりリアルに巻物の絵を出させる工夫を少年に伝えた。強く念じること、なるべく実物に近いものを見ること。少年は両親に図鑑や漫画を度々要求した。いちどきに持ち込める私物の量は限られていたから、両親は彼のために新しくタブレットを買い与えた。
「あはは、ドラえもんが動いてる」
「あるものを動かすのも良いが、自分の考えたものを動かすのはもっとおもしろいぞ」
最初はうまくいかなかった。ひよこは頭が大きすぎたし、カモは水に溺れた。しかし、そのうちに鶏が空を舞い、蛇に立ち上がってダンスをさせられるようになった。少年の父が、掛け軸の絵を撮って天井に反射するプロジェクターを持ち込んだ。極彩色の龍が縦横無尽に飛び回る様を見て、少年は自分が龍の背に乗っているような気持ちになった。さすがに羽目を外しすぎて、常時モニターしている少年の体内の数値に異常が起こり、プロジェクターを使うのはその日限りになったけれど。
☆☆☆
「湖さん、ぼく、湖さんと会えてよかったよ」
「なにを改まって」
季節は秋から冬に移り変わっていた。少年の腕にはいくつもの管が刺さったままだ。
「ぼく、たぶん良くならない」
「……」
「パパもママもごまかしてるけど、わかるんだ。小学生でもさ」
「私は病気のことはわからん。それに君も私も、パパもママも、遅かれ早かれ、いずれ死ぬのだ」
少年は、苦渋の口元から出た言葉に、ひどく大人びた微笑で答えた。
「湖さん、そんなこと言って、本当に導師みたい。……ねえ、これで人にも会える?」
「もちろんだとも」
湖老師は自信ありげに頷いた。
「ぼく、しれなちゃんに会いたい」
すぐに掛け軸の中にもやが起こり、女の子の胸像が浮かび上がった。
「あれ、これはしずかちゃんじゃないか」
「ふむ。さきほど漫画を読んでいたからのう」
少年が何度試してみても、同じクラスだった少女の姿は満足に再現されなかった。頬に、目に、髪型に、おぼろげに面影を認めるだけで、全体としてこれはしれなちゃんではないと少年は悲しそうな顔をするのだった。湖は、母親に写真を持ってきてもらったらどうかと提案したが、少年はこれを拒否した。
「明日はきっと、会えると思うから」と。
しれなちゃんの顔は移り変わった。波瑠のようになったり、戸田恵梨香のようになったり、SKEの誰かの顔になったり。湖はそれらの顔を眺めているうちに、気が遠くなるような感覚を覚えた。この涼やかな目元、意志の強そうな濃い眉毛、これは優花じゃないか……。
☆☆☆
「勇臣君、びっくりしないでね」
看護師が一人の少女を連れて病室に入ってきた。少年と湖の話を漏れ聞いていた看護師が、しれなちゃんに連絡を取って、見舞いに来てもらえるように算段したのだった。
しかし、彼女達が見たのは、床に昏倒する湖老師と、平坦な波形を示すモニターだった。
湖は別の病室に急ぎ運び込まれ、ベッドの周りにはすぐに医師や看護師が取り囲んで大騒ぎになった。上の騒ぎをよそに、ベッドの下にはスーツ男が最初に持ってきたパンフレットが一枚、ひっそりと横たわっていた。湖が倒れた時、懐にあったものが抜け出たらしかった。
そこには、やや不自然な笑顔を浮かべた湖の写真があり、最愛の女性と生き別れた悲しみに耐えられず、どうにか彼女を再現したいという願いからこの技術を編み出した、という起業のきっかけが書かれていた。
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