2023年10月25日 感想いっぱい

映画をいくつかと、小説をいくつか読んだ記録。映画は『ファルコン・レイク』、『まなみ100%』、『アル中女の肖像』、小説は『Iの悲劇』、『鵼の碑』、『ナイフをひねれば』、『午後のチャイムが鳴るまでは』、『でぃすぺる』、『あなたが誰かを殺した』の話。直接的ネタバレはないが、察しのいい人は注意。

シャルロット・ル・ボン監督『ファルコン・レイク』。大人の世界に足を踏み込もうとするバスティアン。大人の世界にいながら馴染めないクロエ。バスティアンを大人の世界に引き入れつつも、大人の世界で孤独を感じ、まだ大人の世界(それはとりも直さずホモソーシャルと言える)に足を踏み入れていないバスティアンにだけはそばにいてほしいクロエ。バスティアンはそれに気づきながら、でもやっぱり大人の世界に取り込まれてしまいそうになる(でもそれは社会の問題でもある)。それを知って孤独を深め絶望するクロエ。今更子供にも戻れないが、大人の世界で孤独にいることは苦しい。大人の世界の一員になるしかない。幽霊、性、トラウマが絡まり合って、悲劇が起きる。マージナルで脆い世界のやるせなさ。

川北ゆめき監督『まなみ100%』。ぜんぜん「まなみ100%」じゃないじゃん! これは瀬尾先輩のための映画であり、まなみちゃんの結婚によって唐突に青春を卒業してしまった自分を、客観的にでもなく主観的にでもなく映画にしている。その距離感が好ましい。途中までは「なんて軽薄なやつなんだ!」と思ってしまうけれど、「軽薄なやつ」でしかいられない主人公≒監督の変化を追えるようになってからは胸に迫った。これもまた、青春の、イニシエーションの、やるせなさ。

ウルリケ・オッティンガー監督『アル中女の肖像』。鮮やかで綺麗な、めちゃくちゃかっこいい服装の、最高に決まったメイクの、裕福なアル中の女性。ベルリンで飲酒旅行。「良識」、「社会問題」、「正確な統計」の3人と行く先々で遭遇。彼女たちは旧社会の道徳を温存した未熟なフェミニズムを語りもする。彼女たちには目もくれず、ショッピングカートに全財産を乗せて生活するおばさんを仲間に呑みまくる主人公。飲んではグラスやらボトルを投げ捨てる。圧倒的なカウンター・フェミニズム。メイクもオシャレも男のためじゃなく自分のためだし、人前で酔っ払ったっていい。自分の体は自分のもの、自分が飲むかは自分で決める。ずっっと呑んでるのに割と中盤まで颯爽とした足取りで、ハイヒールの靴音が心地よく響く。男はほとんど出てこない。

米澤穂信『Iの悲劇』(文春文庫)。タイトルはクイーンのオマージュだし冒頭はクリスティーのオマージュで本格っぽいけど、設定や舞台は社会派っぽい。でも謎解きは本格っぽい。でもそれを全部剥いたコアの部分は、いかにも米澤穂信的な、社会派の種のような要素。『氷菓』や『さよなら妖精』や『黒牢城』にも連綿とつながる、米澤穂信の問題意識。「社会派の種」=「個人にはどうにもならないもの(集団、国家、宗教、そして金)に押しつぶされ挫折させられる」というのを、本格ミステリに昇華する。こんなの普通の技術じゃできない。でも米澤穂信は幾つもの作品でやっている。しかもミステリへの強いこだわりを持って。とっても頼もしい。やっぱり直木賞は時間の問題だったと思う。

京極夏彦『鵼の碑』(講談社ノベルス)。17年ぶりの新作長篇。やっぱり面白い。でもなんだか物足りない。どうもカタルシスに欠けるようだ。『姑獲鳥』や『魍魎』や『狂骨』や『鉄鼠』や『絡新婦』や『塗仏』にあった、あの、なんだかわからないし繋がりも全く見えない幾つもの要素が、京極堂によって繋げられまとめて祓われていくあのカタルシスが、なかったように思うのだ。途中まで京極堂以外の人間の手によって、繋がりが見えてくるから、かもしれない。もちろん、京極堂は最後の最後にそれをひっくり返すし、そこが面白さではあるのだけれど。それでもやっぱり「私はすげえもんを読んだ……」と感じさせてくれる京極夏彦に、私は感謝することしかできない。

アンソニー・ホロヴィッツ『ナイフをひねれば』(創元推理文庫)。安定の面白さ。間違った人間が逮捕され、探偵がその無実を証明する、というパターンはあまり好きではないのだけれど、それでもやっぱり引力はあるもので、しかもホロヴィッツの筆力もあり、ぐいぐい読み進めてしまうページターナー。やはりクリスティーを思わせる手際で謎を提示し解いてみせる。それにしても、なぜ現代の海外ミステリにはこういう作家が少ないのだろう? 黄金時代の本格なんて古いんだろうか? クリスティーやカーやクイーンは、今読んでもめっぽう面白い。それどころか、100年近くが経った現代の作家ですら彼らの足元にも及ばないと思えるときもある。クリスティーの描くキャラクターの立体性と「ある瞬間」のドラマティックさ。カーの描く「コミカルな不気味さ」と拍子抜けするような鮮やかな謎解き。クイーンの描く超絶技巧的なロジックパズル。ホロヴィッツも、頑張れば彼らのようなものが書けるような気がするのだが、この物言いは偉そうすぎるかしら。

阿津川辰海『午後のチャイムが鳴るまでは』(実業之日本社)。青春ミステリに見せかけた、「ミステリ的青春小説」。一つ一つのミステリを面白がって読んでいたら、読み終えたときには一級の青春小説という感想にいつの間にかなっている、というびっくりマジック。しかも、なんらかのどんでん返しで爽やか青春小説に様変わり、というのではないところも、青春小説として点が高いところ。とはいえ細部も素晴らしく、第3話の消しゴムポーカーの作り込み、ゲーム展開の巧みな小説化は驚くべき手腕。

今村昌弘『でぃすぺる』(文藝春秋)。変なもん読んだなあ、という感じ。なんか物凄いことをしている。としか言えない。帯で麻耶雄嵩が「はたして本格ミステリかオカルトか? いやいやそんな偏狭なものじゃなかった」と書いているが、その通り。もっと詳しく言えば、ミステリがオカルトを呑み込んだ、という感じか。いや、ミステリの方がオカルトに呑み込まれてしまったのか。異形のミステリが出来上がってしまった。なんというか、今村昌弘、またぞろすごいことしている。

東野圭吾『あなたが誰かを殺した』(講談社)。似たパターンのタイトルで『どちらかが彼女を殺した』と『私が彼を殺した』がある。両者は最後まで真相が明かされない。だからこの2作は好きじゃない。でも本作は帯に「ミステリど真ん中」と書いていたり、直筆の「今回は真相までご案内します」という色紙がツイッターに上がっていたりして、どうも期待度高めでいいのかな、と思って読んだ。確かに綺麗なパズラーで、消去法推理も楽しい。が、私の苦手な東野圭吾がここにあった。なんかキャラの作りが薄い気がするし、会話文もわざとらしくて好みじゃない。何より、登場人物の独白が多すぎる。長い独白には飽きてしまうし、独白者がどれだけ辛い体験をしていても「東野圭吾だからなァ〜」がついてまわる。東野圭吾は「あざとい」の常習犯だ(この「あざとい」は近年流行りの褒め言葉での用法ではない)。なんか、ミステリも物語も、そこまで上手い気がしないのだ。『容疑者Xの献身』はあんなに素晴らしいのに! それから、どうも加賀恭一郎という人物に親しみを感じられない。完璧すぎるのだ。もちろんこれまでのシリーズを読んできて、彼のパーソナリティを色々読み取ってきてはいる。が、どうも優等生すぎるというか、キャラクターとしてつるりとしているというか、引っ掛かりがない。だからといって物語の方に魅力があるかと言われれば、シリーズ後半にはそれがあまりないというのが正直な私の感想。『悪意』とか『赤い指』とかは面白かったのに!キャラクターとしては、リアリティはないかもしれないけど、ガリレオシリーズの湯川学の方がまだ掘り下げ甲斐があるというか、読み手の関心も湧くというものではないだろうか。実際『容疑者X』がそうだったわけだし。ということで、近年の東野圭吾はどうも苦手である、という話。

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