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夜の糸(短編小説)

「ねえ、幸せって何で決まると思う?」
「セロトニンの数。」
「何それ。」
「向精神剤の主成分。」
「…まーた、そういう事言う。」
呆れたような顔をして彼女はまたテレビに目を向ける。ソファは、彼女の形に凸凹を作っている。
テレビでは幸せと不幸せというテーマについて、比較的恵まれていそうな人々があーだこーだ悩んでいた。いやいや、あの人らはあの人らで大変なのだ。そういう事言うのはやめよう。
それでもやっぱり、苛ついてしまう。こんな奴らに幸せとか不幸せとか言われる事が。
ティファールのシュコッという音が聞こえたので、ラ王の豚骨味にお湯をやる。ラ王の豚骨味は、お湯を規定の半分くらいに注ぐのがコツだ。豚骨スープが、より濃厚になって美味しい。
「…ちょっと、夜食はやめてよ。家計厳しいんだから。」
あくまでテレビから目を離さず、彼女は低音の効いた声で僕に言う。
「え、そんなにやばいの?」
反射的に答える。家計がやばい、という事は想像もつかなかった。
「んー、今月はね、二人の収入が合わせて39万2000円。で、出て行ったのが36万2000円。つまり、黒字は僅か30000円。ちなみに、今うちの貯金は、今18万円。」
「…なるほどねえ。」
正直、そこまでかとも思ったが、確かに大の大人2人の貯金が18万円というのはあまりに寂しい。これで、今年26になるというのだから笑えない。
しかも、何がやばいかというと、僕の仕事は個室ビデオ店の店長なのだ。おっさんの汚れ物を片付けたい物好きが少ないおかげで、店長になる事が出来たが、所詮個室ビデオ店だ。いつクビになるか、いつ店がなくなるか、全ては本社のみぞが知るのだ。まるで、細い糸のような不安定さだと思う。
多分、30になるまで個室ビデオ店があるとも思えないし、その後すんなり仕事が決まるとは思えない。一体どこの誰が、個室ビデオ店でしか働いた事のない30代を雇うというのか。
じゃあ資格でも取れ、という話なのだがそれには問題がある。僕は勉強が大嫌いなのだ。机に向かうのが無理なのだ。だから、個室ビデオ店の店長なのだ。
ラ王を啜りながら、とてもダウナーな気持ちになる。茶色い豚骨スープすら、今は嫌だ。
ドロリと濃厚な液が、喉に絡みつく。うまく息ができなくなって、苦しくなる。
えほえほと喘ぐ。すると水が差し出される。コップには、彼女の歪んだ顔が写る。
「はい、水。」
そうか、僕には水を飲ませてくれる人がいるのか。そう自覚した時、とんでもない心の動きを感じる。右に行ったり左に行ったりするような感覚に陥る。彼女の後ろから後光が見える。この家には女神様がいたのか。
「あり、がとう。」
彼女は、ソファに戻りザッピングを始める。
喉のせいか照れのせいか、上手くありがとうが言えない。
水を飲み干す。喘いだせいか、余計に腹が減る。
「あの、すっごく言いづらいんだけど。」
「何?」
「コンビニ、行かない?」
「…あのさ、話聞いてた?」
「資格。」
「うん、うん?」
「あれ、取るから。頑張って。だから行こうよ。コンビニ。」
無意識に、スラスラと言葉が出た。覚えた台本を読むように、つるりと体内から出てきた。
彼女の顔は明らかに困惑していた。そりゃあそうだろう。全く話の筋が通ってない。資格を取るからコンビニに行こう、なんてめちゃくちゃだ。彼女の眼球には、困惑の二文字がくっきりと描かれていた。
やがて、彼女はテレビを消し、ソファから立ち上がり、側に落ちていたコートを拾い上げた。
「何してんの?」
「いや、うん。」
謎の沈黙が生まれる。とはいえ、沈黙は嫌いじゃない。隙間というのは、とても大事だと思う。例えばパン作りもそうだ。ふっくら膨らんだパンを作るには、生地と生地の間に隙間を作り空気を含ませるのが大切だ。僕らの関係はぺちゃんこのパンなんかではない、と思う。そう思いたい。苦しんでくれる時に水をくれる、そういう人とは、しっかりとふわふわのパンを一緒に食べたい。
彼女が玄関に向かったので、後に続く。しばらくは、彼女の後を追うだけの存在になる。針と糸のような、従順な関係だ。
夜空には、物語に出てくるような綺麗な星空なんかなかった。星なんか全く出てなかった。ただ、塗りつぶしたような空だとは思わなかった。うっすらと見える雲が、下手くそな縫い目のように見える。馬鹿でかい服だなあ、全く。こんなでかい服を着れるのは、神くらいだろう。僕らの世界は、単なる神のファッション。神の手のひら。ゴッドオンリーノウズ。そういえば、ビーチボーイズのそれも、夜空の歌だっけ。
「いつでも君を愛してる訳じゃないけど、夜空に星が見える限り、不安定さなんかない。信じさせてあげるよ。でも、君がいなくなったら?それは神さまだけが知ってる。」
「何それ。」
彼女が振り向いて聞いてくる。無意識に口ずさんでいたらしい。なんとなく恥ずかしい。
「ビーチボーイズのゴッドオンリーノウズ。」
「ふーん。」
その後も会話は無かった。向こうは、多分資格の話をして欲しいのだろう。でも、なんとなく気恥ずかしい。苦しんでいる時に水を飲ませてくれる子を幸せにしたいっていう気持ちとお腹が空いたっていう気持ちだけで、資格を取る気になっているなんて、説明しづらい。
それに、そんな事を言ったら、本気じゃないみたいな事を思われるかもしれない。それは避けたい。
しかし、彼女の背中は早く語れよ、というオーラをムンムンに出していた。これはヤバイ。タイミングを考えつつ、何か言わねばならない。
だが、どう切り出していいか分からず、セブンに着いてしまった。正直、ローソンが好きなのだが、今はそんな事を言える感じではなかった。どうやら、彼女の方は期待と不安が入り混じっている感じらしく、色々考えている感が凄い。その証拠に、ヨーグルトのコーナーで彼女は石になったように動かなくなってしまった。
結局、コーラを2本と肉まんとコロッケを買った。イートインコーナーが無かったので、駐車場で、パクつく事にする。
「資格なんだけどさ、清掃作業監督者取ろうと思う。やっぱり、今までの経験が多少は生きると思うから。」
「…まあ簡単だしね。」
「…応援してくれる?」
「いやまあ、するけど…。急になんで?」
「…さっきさ、水くれたじゃん。」
「うん。」
「あれ、本当に嬉しかった。ありがとう。今までは、ちゃんと本質を見たりしようと思わなかった。はぐらかしたり、冗談言ったり。でも、水くれて、嬉しかった。本当に。だから、そういうのはやめにしようと思った。嫌な事も、逃げずにやろうと思った。」
それが全てだった。
彼女は頷いて、何かを言おうとしたが、ゲップが出てしまった。僕は吹き出してしまった。彼女も僕を叩きながら笑う。破壊的な笑顔だった。僕の全部を壊して、作り変えてしまった。
さっき僕が言っていた事は間違っていたと思う。僕はものすごく幸せだと思う。
コロッケを半分こしながら歩く。針と糸ではなく、結ばれた糸同士として歩く。
「星見えないね。」
「え?そう?ほら、あっちの方、よく見てごらんよ。」
彼女の指差した方をよく見てみると、うっすらと光る星が見える。微光すぎて、さっきはよく見えなかったのだ。ああ、もっと良く見ないといけないなと思った。色々と。幸せとか、色々と。

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