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雨の日、晴れの日(短編小説)

ドアマットにいくら足を擦り付けても、水気はとれなかった。

僕は諦めて店内に入る。下をチラリと見ると、足跡がくっきり残っていた。店員に申し訳ないという気持ちはあったが、僕に出来る事は何もなかった。

カウンター席に腰掛けた僕はいつもより少し高いウイスキーのロックを注文した。それだけが唯一謝意を示す方法だと思ったからだ。高いウイスキーだからといって、自分の舌に合う訳ではないという事を学んだ。

「…止みませんねえ…。」バーテンダーが突然話しかけてきたので、俺は心臓が飛び出るかと思った。

「…ええ…。」俺はいかにも喋りたくない気分だ、という態度をとった。人と話すのが得意な人間ではない。

気まずい沈黙が流れる。店内には俺とバーテンダー以外誰もいなかった。

飲み干したら帰ろう、と思った矢先の事だった。ドアベルがチリンと鳴ったかと思えば、大きな人影がぬるりと店内に入ってくるのが横目で見えた。

その人影はゆっくりとこちらに近づいてきて、隣の席に座った。そして、この店で一番高いウイスキーのロックを注文した。瞳の深い青が印象的な、西洋人の男だった。

その男は出されたウイスキーを一気に飲み干すと、おかわりを注文した。バーテンダーは少し驚いたような表情を見せながら、氷を砕き始めた。

「寒いですね。あなたも温まるためにウイスキーを?」

西洋人の男は流暢な日本語で俺に話しかけてきた。俺は飛び出た心臓をまだ戻していなかった事もあり、心臓が自分の体を離れていくような感覚に襲われた。

「え、ええ、まあ。」

「この大雨は参ってしまいますよね。本当に。」

「ええ、全く。」

俺は会話に困り、目線を下に逃した。すると、ある事に気付いた。この男、床に足跡を全くつけていない。この大雨にも関わらず、だ、

「あれ、足跡…。」俺は思わず声に出してしまった。

「足跡?ああ、あのドアマット、結構優秀でしたよね。お陰で濡れた靴がすっかり乾きました。」

「そ、そうなんですね…。」

俺は内心ショックを受けていた。同じドアマットを使っているのに、どうしてここまで乾きに差が出ているのだろう?いや、差はここだけではない。この男の喋り方や頼んでいるもの、全てにおいて俺は負けている。俺とこの男の間には、超えがたいほどの壁が生まれているのだ。

俺は離れてしまった心臓を戻すのが嫌になった。これ以上、生きていた所で何になるというのだ?安いウイスキーを啜るだけの人生、床を濡らして人に迷惑をかけ続ける人生、それに何があるというのか?

「雨はしばらく止まないみたいですね。」

西洋人の男はスマートフォンの画面を見せてきた。雨雲レーダーの画面は、少なくとも2時間はこの辺りで雨が降り続ける事を示していた。

「あ、ありがとうございます。こうなると厄介ですね…。」俺はとりあえずの礼を述べた。

「暇になりそうですね…。そうだな…。」

西洋人の男は腕を組んで考え始めた。しばらく考えた後、頭の中の電球が灯ったという顔で喋り始めた。

「ここで会ったのも何かの縁です。皆さんの事を聞いてもいいですか?」

「聞くって何を?」バーテンダーが怪訝そうな顔で言う。

「そんなに深刻な事は聞かないですよ。例えばそうだな、目標とかは?」

「目標か…。少し恥ずかしいな…。」バーテンダーはどうしても聞かれたくない事には触れられないらしいと知り、少し安心したようだった。

「恥ずかしいなら僕から話しましょうか?」

「そうして貰えると助かります。」バーテンダーはすっかりノリノリで聞く体制に入った。

俺はどうやって自然にこの場から脱出するか、しか考えていなかった。目標なんてある訳がない、こんな人生に。

「僕は、そうだ、まず名前を名乗るのが先だね。僕はクリストファー・サンダース。まあ皆大体クリスって呼んでるけど。アメリカだと、クリストファーはクリスって呼ばれるのが慣例だからね。」

「アメリカの方なんですね。」バーテンダーが自然に会話を盛り上げる。さすがプロだな、と俺は内心感嘆した。

「そうアメリカ。アメリカのケンタッキー州って所の生まれ。ウイスキーと競馬が有名なんだ。」

「だから今日もウイスキーを…。ありがとうございます。」

「まあ血筋ってやつかな。ウイスキーが大好きなんだ。それで目標なんだけど、ケンタッキー州にもっと日本企業の工場を建てたいと思ってるんだ。」

「というと?」バーテンダーが聞き返す。俺も目標が予想外のものだったので、ここは深掘りして聞きたいと思っていた所だった。

「ケンタッキー州は田舎でね。若い人は都会に出ていくんだ。だから、地元の就職先がもっと欲しくてね。ケンタッキー州自体、日本企業にもっと来てもらうために税優遇とか、色々やってて、すでに多くの企業が工場を建ててくれてる。けど…。」

「何か問題があるのですか?」

「一部の場所に集中しちゃってるんだ。隣接しているオハイオ州の境目くらいのところ。オハイオには空港があったり大きな街があったりするからね。NFLとMLBのチームだってある。けど、僕は州全体に工場が建ってほしい。どこで生まれてもきちんと働く場所がある、っていう状態にしたいんだよね。だからこうやって、日本に来て色々と交渉したりしてるって訳さ。」

「地元のために頑張ってらっしゃるんですね。凄いなあ…」

「うん、本当に…。凄いですね…。」その言葉は俺の心からボロリと漏れ出た言葉だった。本当に凄いものを見た時、難しい言葉はいらない。シンプルな言葉の裏には、大いなる力がある。変化球よりもストレートの方が空振りが取れる、という事だ。


「さあ。バーテンダーさんの目標は?何のために生きてる?」クリスさんがニヤリと笑って言う。バーテンダーは軽く天井を見上げ、目線をこちらに戻した。覚悟を決めた目をしていた。

「私、ああ、名前は佐々木修斗です。私の目標は、自分の店を持つ事ですね。」

「あ、佐々木さんの店じゃないんだ?」クリスさんが尋ねる。

「オーナーは別にいます。けど、ほとんど店に来ないんです。理由はよく分かりませんが…。新しくやりたい事があったり、新しく置きたいお酒があっても、オーナーの許可が必要で。それはいいんですが、とにかく判断が遅くて…。なので、自分のお店を持って、自分で判断ができるようになりたいですね。」

「素晴らしい目標。最高。」クリスさんは惜しみのない拍手を送った。俺も遅れてパチパチと拍手を打った。

「…それで、あなた。あなたの目標を教えてください!」

もう体にないはずの心臓が、バクリと音を立てるのを感じる。血圧が急に上がっていく。俺は体を冷ますためにウイスキーをグイと飲み込んだ。

逃げ出したいと感じた。目標なんてある訳ない、こんな人生に。

しかし、話さなくてはならない、と俺は感じてた。何故なのか分からないが、ここで逃げる事は許されないと感じていた。

「目標…。俺は…。2人みたいに何かに向かって生きてる訳じゃないんだ…。」

「目標を探してる段階、という事ですか?」クリスさんが言う。

「そんなに良いものじゃないよ…。毎日仕事をして、失敗して怒られて、泣きながら眠って、それを繰り返して死ぬんだ。そこに辿り着くために生きてるんだ…。」

「それが幸せなんですか?」クリスさんが聞く。

「分からない…。何が幸せなのかも、もうよく分からない…。幸せだと感じた事がないからな…。自分で死なないのは、そういうロックが脳みそにかかっているだけなんだ…。産まれた時からね…。けど、それも歳をとるにつれて、段々ロックが緩くなってきてるのを感じるんだ…。多分、僕は死ぬために生きてる。死ぬ事が僕の目標なんだ。」

「…人は皆、神の祝福を受けて産まれてきています。」

「アメリカではそうだよね。けど日本じゃ、キリスト教を信じている人は少ないよ。それに、僕の先祖もキリスト教を信じてなかったから。ひとりだけ天国っていうのも寂しいからね。」

「日本では自殺は罪ではないのですか?」

「いや、罪ですね。やってはいけない事です。」佐々木さんがキッパリと言った。

「楽しい事は人生で何もなかったんですか?」佐々木さんが問う。

「…きっとあったんだろうな。けど、楽しみ方が分からなかったんだ。楽しむ自分が気持ち悪かったんだろうな。だから、ずっと自分をつまらない所に置いてた。当然の帰結として、つまらない人間になった。目標なんて先の事、考えられるほど体力がなかった。そりゃ、良い人生にはならないだろうな…。」

沈黙のおかげで、雨音が弱くなるのがはっきりと聞こえた。

「あの、恐らくですが、あなたの人生のどこかに原因があると思うんです。もしよければ、あなたの人生について、話してもらえませんか?」クリスさんが尋ねた。

「そうですね…。無理はしなくていいですよ。けど、何か話したい事があれば、吐き出してみませんか。楽になりますよ。」佐々木さんが言う。

「…俺は、楽になりたい訳じゃないんだ。きっと、もっと苦しめられたいんだ。楽になって、幸せな自分なんか、見たくないんだ。」

俺はチャンスをふいにした。雨はまた強くなっていた。

結局あの後、俺があの店に行く事はなかった。俺は酒の飲み過ぎで体を壊し、病院から出られる体ではなくなった。俺はベッドから動けなくなった。

しかし、俺は人生で最も強い満足感を感じていた。何もしなくていい、病院のベッドという場所に俺は居心地の良さを感じていた。携帯も使えない、テレビも見れない、酒も飲めない。しかし、窓の外には庭があり、時々誰かが散歩をしている姿が見える。仕事で怒られる事も、泣きながら目覚める事もない。

体はゆっくりと死に向かっている。しかし、魂は元から死んだようなものだったのだ。だから、何を恐れる必要がある?

唯一思うところがあるとするなら、あの時、あの2人に俺の人生について話していたなら、どんな風に分岐していただろうか?もしかしたら、俺の人生は一般的により良い方向に進んでいたかもしれない。けれど、俺は今、とても満足している。これで良いじゃないか、と。ひとりぼっちで死んでいく、これで。

窓の外はよく晴れていた。子供達が散歩をしていた。子供達の散歩を見るたびに、俺はこの子たちに命をあげたいと思う。俺が後10日生きるよりも、この子たちが後10日生きる方がずっと良い。

俺が子供だった時、親もこう思っていたのだろうか?だとしたら、今俺が思っている事を知ったら、悲しむのだろうか?まあ、もう生きていないのだが。あの世に行っても、会う事なんかないのだろうが。俺は産まれた時、祝福されていたのだろうか?

「まあ、されていようが、そうでなかろうが、頑張って生きていくしかなかったんだろうな…。」

俺は誰に言うでもなく、そう呟いた。そして、昼寝がしたくなったので、目を閉じた。

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