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愛、関係、名前

名前が、ない。

ふたりを表す、名前がない。

ずっと、名前のある愛しか守れなかった。
名前を貰ったのに、守れなかったこともある。

気がつけば、もう二十年以上生きている。
その間、それなりに愛し、愛され、壊し、壊されてきた。

肌に刺さる冷たい風に、指先をセーターの袖にしまう。もう少しで冬だ。

何度季節がめぐり、出会いと別れを繰り返しても、瞬間に、ああ、この人に関わってしまってはいけないと思うことがある。

この人はきっと、わたしの主語を奪い、
わたしを身体ごと全部飲み込んでしまう人だ、と思うことがある。

前髪が目にかかっているからとか、黒い服ばかり着るからとか、そんな具体があれば良いが、そういう時に限って理由など無いものだ。

この感覚を、わたしは知っていた。
その美しい指先までも、知っていたような気がする。

それは、見つめれば目の奥に引き摺り込まれている。理性を取り戻そうと首を振っても、溶ける。

無理矢理引き抜こうとしても、折れてしまいそうなほど強く掴まれてしまっていて、もう手遅れだ。

だから、近づいてはいけない、近づきたくなかったのである。

日付も、時間もわからない。
身体に染み付いているはずの感覚すら、全て剥がされる。色が変わっていく。

名前をつけてしまいたくないと思った。

この、何にも代えようがない、彼だけの色に染まっていく感覚を、そのままで感じていたい。守れなくなってしまわぬように、名前のないままで。

あれだけ曖昧を嫌っていたわたしが、こんなにも不透明な関係を続けてしまうこと。愛の歪を許してしまうこと。

見ていたい。彼の身体、光、影、息、言葉、ぜんぶ、全部。

彼のあたまの中はいつも、わからない。嘘もつかないし、隠し事もしない。でも、絶対に何か掴めない気がする。きっと全部は教えてくれないのだ、教えられないのだ。

名前をつけないで、そっとしておく。
目を瞑った先、彼がそっと消えてしまうかもしれないという不安も、わたしが忘れてしまうかもしれないという不安も、全部抱いていく。

彼のみている色が、彼のみている世界が、
ずっと豊かでありますように。それだけを祈って。

【西加奈子/白いしるしを読んで】


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