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【祝・生誕157年】ローレンス・ホープ インド帝国をまたにかけた詩人

皆様、ごきげんよう。インド沼に浸かって久しい、弾青娥だんせいがです。

今回の記事は、ここ数ヵ月のマイブームである詩人、ローレンス・ホープ(Laurence Hope)を紹介するものです。

この詩人ですが、私がその存在に気付くに至ったのは、アイルランドを代表するファンタジー作家ロード・ダンセイニの自伝While The Sirens Sleptのインド関連の章を読み直したことでした(ダンセイニはThe Hutという詩の一部を引用していました)。アラビアのロレンス、D・H・ローレンスが頭に去来するなかで、ダンセイニに引用されたこの詩人がいったい何者だろうと調べてみましたところ……

ローレンス・ホープという男性の筆名で詩作をしていた、イギリス人女性のアデラ・フローレンス・コリーだと分かりました(ヴァイオレット・ニコルソンの名でも知られていました)。その詩人の写真はこちらです。

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ローレンス・ホープ。本名はアデラ・フローレンス・コリー。

異性の筆名で文筆活動に臨んだフィオナ・マクラウドヴァーノン・リーのような例を知っていたものの、大変ビックリしました。そのように驚いた中で、謎に包まれたこの女性のウィキペディア記事をざっと読んだところ、東洋的かつ蠱惑的な一枚の絵が目に入りました。その説明文には、The Garden of Kamaという作品タイトルが記されてあり、私のインド沼アンテナがビビッと即座に反応しました。

ヒンドゥー神話版のキューピッドにあたるカーマデーヴァ。

映画『バーフバリ』シリーズと、歌人の片山廣子が大正時代に訳したF・W・ベイン(まとまった形で後日、紹介したいです)によるインド神話作品のおかげで、インド沼に現在完了進行形ではまっている私はこの詩集をタイトルから判断して、「読んでみるしかない!」とすぐに思いました。

では、ここからは、ローレンス・ホープがどのような人物だったかを紹介いたしましょう。

ローレンス・ホープ ~人物~

ホープが生まれたのは、1865年4月9日のイギリスのブリストル近郊でのことです。父のアーサー・コリーと母エリザベス・ファニー・グリフィンの間に生まれた三人娘のうちの次女にあたります(長女は1863年生まれのイザベル、三女は1868年生まれのアニー)。

在りし日のホープ。

父がイギリス領インド帝国のラホール(現在のパキスタンに位置)で軍務にあたったため、幼いホープの世話は親戚に任せられました。ロンドンのリッチモンドの学校で教育を受け、1881年から、インド帝国にいる父親といっしょに暮らします。父は、新聞The Civil and Military Gazetteのラホール支局の編集責任者であり、その在職中にはラドヤード・キプリングも働いていました。

ホープと同年生まれのキプリング。
イギリス人初のノーベル文学賞受賞者になります。

姉のイザベルは父の新聞業をサポートした一方、妹のアニーはヴィクトリア・クロスという筆名で1895年に小説家デビューし、女性を良妻賢母のイメージから解放する作品を残しました。文筆一家にいたホープも、その文学的才能を発揮することになりますが、それは三人の中で最も遅くに現れます。

1889年の4月、ホープはカラチにて、ボンベイ陸軍大佐のマルコム・ハッセルズ・ニコルソンと結婚し(当時のホープは24歳、ニコルソンは46歳でした)、現在のインドのチェンナイにあたるマドラスで暮らし始めます。ニコルソンは語学の才能に優れており、パシュトー語、バローチー語、ペルシア語に明るい人物で、ホープがインド亜大陸に関心を深めるきっかけをもたらしました。結婚から間もない頃、夫が参加した現在のパキスタンのジョーブ谷(Zhob Valley)遠征に、ホープは現地の住民であるパシュトゥーン人の青年に扮して同行しました。二人は1895年から5年ほど、中央インドのムホウに住まいを構えました。

マルコム・ハッセルズ・ニコルソン。愛妻ホープのことをヴァイオレットと呼びました。
ワニの背中の上を次々に跳んで、川を横断した武勇伝もあったとか。

ホープは、インドの伝統衣装を好んで身にまとう人物でもありました。アメリカの文芸誌The Writerの第21号(1909年)によれば、読書を大いに好み、イスラム教徒の思想に強く共鳴していました。

1900年になると、ホープは息子(マルコム・ジョスリン・ニコルソン)を授かります。そして、その翌年の1901年が、彼女にとって重大なターニングポイントとなります。現在のパキスタンの国語であるウルドゥー語に精通していたホープは、イスラム神秘主義の詩人を思わせる文体で詩を書き、その複数の詩編を出版することに決めました。それが、詩集The Garden of Kamaとして結実します(アメリカではIndia's Love Lyricsの題で出版されます)。このデビュー詩集は、もちろん全てが彼女の作です。しかし同著作は、ローレンス・ホープという架空の男性が、インド亜大陸で活躍した様々な詩人の作品を集めて英語の韻文の形でまとめたという体裁で発表されます。

後続の詩集も同様ですが、The Garden of Kamaは報われない恋を題材にすることが多いです(その例を私の試訳で確認できます)。20世紀初頭のイギリスの女性作家にとってそのまま発表するのが困難な際どい内容も見られます(ゆえに、筆名で発表されたのは妥当な判断だったと言えるでしょう)。内容としては悲恋を語る象徴詩が多いとはいえ、どの詩も韻律がたいへん美しく、声に出して読むとそれを強く実感できます。また、The Garden of Kamaはそのタイトルから若干イメージしずらいものの、ヒンドゥー教の神話世界をテーマにした詩よりも、現在で言うところのアフガニスタンやパキスタンのようなインド亜大陸を舞台にした詩をより多く収めています。

1914年の豪華版表紙。

英訳作品だという主張は早々にウソだと看破されてしまいます。けれども、このデビュー作は20世紀初頭のベストセラー詩集になり、1914年には画家バイアム・ショーによる東洋感満載の口絵を加えた豪華版が刊行されます(この記事のさらに下部で一枚を紹介しています)。そして、ホープ自身とその作品の名声は様々なところに影響を及ぼします。

ローレンス・ホープ ~影響~

まず、ホープの詩は音楽になりました。それも、The Garden of Kamaが刊行された翌年、1902年のことです。エイミー・ウッドフォード=フィンデンによって、ホープの作品Kashmiri Songが同名のタイトルで音楽化され、1930年代までスタンダード・ナンバーとなりました。とはいえ、近年の演奏例もあります。例えば2006年には、チェロ奏者のジュリアン・ロイド・ウェバー(兄は『キャッツ』や『オペラ座の怪人』を作曲したアンドルー・ロイド・ウェバー)が演奏しています。

また、様々なクラシック歌手によっても歌われており、100年以上を経た今でも、Kashmiri Songは知名度を保っているというのが分かります。

さらに1915年には、アフリカ系アメリカ人の作曲家ハリー・T・バーレイによって、Kashmiri Songを含むホープの詩5編が音楽化され、今も歌い継がれています。

舞踊界でも、ホープ自身とその著作の影響が現れます。ダンサーの伊藤道郎によってThe Garden of Kamaというバレエ演目が完成され、マーサ・グレアムによって舞われました。一方、文学界に目をやると、注目すべき存在はサマセット・モームです。ローレンス・ホープの生き様をヒントに、モームは「大佐の奥方(The Colonel's Lady)」という作品を1946年に発表しています。同作は、『カルテット(Quartet)』というアンソロジー映画で取り上げられています(映画化されたもので言えば、1916年のメアリー・ピックフォード主演のサイレント映画『印度の処女(Less Than the Dust)』もその一例になります)。

華々しくもホープの作品(と生き様)が、色々なところで形を変えて紹介されていったことになります。ですが不運にも、上述のほぼ全てを、生前のホープ本人が知ることは叶いませんでした。

ローレンス・ホープ ~最期~

Three Songs of Zahir-U-Din illustrated by Byam Shaw

ホープはThe Garden of Kamaに続く形で、1903年に第二詩集のStars of the Desertを上梓します。また、夫のマルコム・ハッセルズ・ニコルソンが退役し、ホープは息子も連れてイギリスに戻ります。しかし、インド帝国での長年の生活が染みついており、イギリスでの暮らしは夫婦にとって順応しがたいものでありました。そのため、息子の世話をイギリスの親戚に任せると、夫婦はインド帝国に戻ります。そうしてから数ヵ月後の1904年8月のことです。ホープの人生が暗転を見せます――夫のニコルソンがチェンナイで受けた前立腺の手術が失敗に終わり、亡くなってしまいます。

夫を失ったホープの傷心は相当なもので、その悲しみの深さはDedication to Malcolm Nicolsonという作品に、詩に対する自身のスタンスとともに表れています。ここに試訳を掲載いたします。

マルコム・ニコルソンに捧ぐ

薄っぺらい恋の詩をたくさん書いたけれど
あなたが閃かせてくれた言葉は、自分の中にしまい続けた。
さもなくば、よそ者らが迂闊にも
私のかけがえのないものを異口同音に蒸し返しかねなかった。

気高かったあなたの魂。この十五年にわたり
私の馴染みの双眸に、しみも、ひびも映ることはなかった。
己に厳しいあなたの、親友らの過ちと不安がはっきり
あなたの寛大なる生き様を示してくれた。

あなたのささやかな喜びたる私が、再会を果たさぬうちに
〈悲しみ〉があなたに、哀れゆえに救えぬものを残していった。
儚くなった私の愛――現世に生きる私の絶望をあなたの墓石に
注がせる、この後悔の念が空しさをも募らせた。

Dedication to Malcolm Nicolson 試訳

ホープは夫との永遠の別れから急性のうつ病に苦しみ、服毒自殺を遂げてしまいます。夫の死から約1ヵ月後のことで、39歳の齢でした。その死は、ヒンドゥー教社会でかつて見られた慣行のサティ(寡婦殉死)だと形容されることもありました。ホープは、夫とともにチェンナイの墓地で永遠の眠りについています。

ホープの詩作を彼女の存命時から評価していたトマス・ハーディは、その死を文芸誌The Athenaeumにて悼みました。

ホープの詩を評価したトマス・ハーディ。

ホープの没後には、2冊の詩集が刊行されました。1冊はLast Poems: Translations from the Book of Indian Love(1905年)で、もう1冊は息子のニコルソンが編集に携わったSelected Poems from the Indian Love Lyrics of Laurence Hope(1922年)です。悲劇的な死を選んだ作者のホープは忘れられた存在になりましたが、その詩作は形を変えて21世紀においても英語圏で広く愛されています。

所変わって日本では、小山内薫の自由劇場に参加した灰野庄平が1921年12月の『詩聖』に和訳の「砂漠の星」と「愛は神聖な者の象徴である」(どちらもStars of the Desert所収)を発表したことが分かっています。しかし、こちらの翻訳のほかに、ホープの詩の目立った受容や紹介の例は管見の限り確認できておりません(紹介の例が無ければ、少なくとも私から紹介を行ない続けたい所存でございます)。

生誕からちょうど157年となる2022年4月9日に、こちらの紹介記事を極東の日本から夭折の詩人ローレンス・ホープに捧げることを表明して、今回の投稿を締めくくらせていただきます。

ローレンス・ホープが日本で再評価されますように。

参考ウェブサイト
https://www.bbc.com/news/world-asia-india-46069119
https://www.andrewwhitehead.net/blog/category/laurence-hope
https://www.poetryfoundation.org/poets/laurence-hope
https://maddy06.blogspot.com/2014/03/adela-violet-florence-nicolson-laurence.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Violet_Nicolson
https://en.wikisource.org/wiki/Dictionary_of_National_Biography,_1912_supplement/Nicolson,_Adela_Florence


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