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ヘレン・ワデル ~19世紀末の東京に生まれたアイルランドの才女~

皆様、ごきげんよう。弾青娥だん せいがです。

このたびの記事でフィーチャーするのは、翻訳家、学者、小説家、戯曲家として活躍した女性、ヘレン・ワデルです。

ファンタジー作家のロード・ダンセイニの1930年代の功績(後述)を調べているうちに知った人物です。少し調べてみると生まれが東京であると知り、その途端に私の関心が爆発的に上昇した……という経緯がございます。では、以下から記事本編に入ります。


日本での幼少時代

ヘレン・ワデル(1889-1965)

ヘレン・ワデル(以下、特記ない限りヘレン)は、1889年5月31日、スコットランド一致長老教会の宣教師である父のヒュー・ワデルとその妻の間に、10番目の子どもとして生を受けました。父は1874年に日本の地を踏み、布教活動を行なっていたため、ヘレンの生誕地は東京でした。

一家が住んでいたのは、上野からさほど離れていない地でした。寛大な父のおかげで、幼いヘレンは姉たちといっしょに上野恩賜公園内を歩き回ることもありました。離日も近い1900年5月6日の日曜日に姉マーガレットの書いた日記には、「上野大仏や鳥居を目にした」といった旨が記されており、幼少時代のヘレンの思い出の一端を把握できます。

大正時代に撮影された上野大仏

離日後

19世紀の末まで日本に暮らした一家はアイルランド島に戻ります。ベルファストに暮らすようになったヘレンは、同都市に位置するヴィクトリア・カレッジ、そしてノーベル文学賞受賞者のシェイマス・ヒーニーを輩出するクイーンズ大学で自らの学識に磨きをかけます。

クイーンズ大学を卒業した2年後の1913年、ヘレンはLyrics from the Chineseを発表し、翻訳家として文壇デビューを飾ります。さらに翻訳家としては、ラテン語詩の英訳集Medieval Latin Lyricsを1929年に刊行し、世界を問わず古典に対するヘレンの強い関心を覗かせます。

一方、学者としては1927年、中世の放浪僧の研究書であるThe Wandering Scholarsを上梓します。他方、小説家としてのデビューは1933年でした。そのデビュー作(そして唯一の小説作品)は、中世フランスの神学者ピエール・アベラールと、この学匠と秘密裏に結婚した修道女のエロイーズを取り上げたPeter Abelardという作品でした。

エドモント・レンドン画「エロイーズとアベラール」
こちらの記事のカバー写真として利用しました。

12世紀のパリで繰り広げられる二人のロマンスを描いたPeter Abelard発表の翌年にあたる1934年までに第17版を重ね、ベストセラーとなりました。リプリントが20世紀中に幾度もなされ、2018年には、37以上の他言語に訳された歴史ミステリー小説『ラビリンス』を著したベストセラー作家ケイト・モスが序文を加えたPeter Abelardがリリースされます。加えて、今年6月7日には同小説が注釈付きで刊行されました。

さて、話を初版のPeter Abelardが世に出てから1年経った1934年に戻します。

この年、同小説はアイリッシュ・アカデミー・オブ・レターズ(Irish Academy of Letters)という文芸協会のハームズワース賞(Harmsworth Prize)という文学賞の候補作品になります(しかし、受賞作はロード・ダンセイニのThe Curse of the Womanでした――これを報じる新聞記事が契機でヘレン・ワデルを知るに至りました)。

このアイリッシュ・アカデミー・オブ・レターズは、アイルランドのノーベル文学賞受賞者であるウィリアム・バトラー・イェイツジョージ・バーナード・ショーらによって1932年に設立されたもので、ヘレンは同協会の女性初の会員に選出されもしました。

ウィリアム・バトラー・イェイツ(1865-1939)

小説Peter Abelardは日本の英文学研究者にも注目されました。1934年7月に刊行された『英文学研究』14巻3号にて、ヘレンの他の著作とともに次のように紹介されています。

 Miss Helen Waddellと言う名を知ったのは、毎月「英語研究」誌上にのっている〔Edward〕Blunden先生のLiterary England(昭和八年十月号)の中であった。The Wandering Scholarsの作者であり、Mediæval Latin Lyricsの訳者であって、ローマ帝国崩壊後の忘れられ勝な世界に巧みな訳筆を振って読者を誘い入れている、博学な人であることも知った。そして、この創作〔Peter Abelard〕を手にした時、筆者の想起したのは、同じ小説の形式を取ったGeorge MooreのHéloïse and Abélardではなくて、何故か〔Alexander〕PopeEloisa to Abelardであった。何故ともなく、Popeが最後の数行で呼びかけている"future bard"は、この作者であるかもしれないと思った。事実作者は、実に精細な構成力をもって、Giles de Vannesと言う老いたるhedonist〔快楽主義者〕を巧みに創り出して、麗しく――実際、絵筆を持って描いた絵巻物のように、語っては居る。そこには眺めるに美しい人間恋情の世界はあっても、血の通った男女は居ない。余りに清澄に、余りに麗しく描き出された男女を見て、D. H. LawrenceLady Chatterley's Loverの中でChatterley夫人がつぶやいている言葉を、繰り返したくなるのは筆者のみであるまい。……(中略)……筆者は改めて、感情の追求に得て走り勝なGeorge Mooreの作品とこの作を比較しつつ、歴史小説の正道に対して考察が向けてみたくなるのである。更に又この国の近代歴史小説、――特に谷崎氏の『盲目物語』『春琴抄』等へも眼が向けてみたくなる。……(中略)……この一篇も相当の注意をひいたという事実には、注目す可き一傾向が看取されるのではあるまいか。余りに現実的な作品に対する反動として、非現実界へ過去へと関心が向けられていると見るのは、思い過しであろうか。確にこの作は、一種の清涼剤ではある。

M. O. (著)『英文学研究』14巻3号(1934年)443-444ページ
〔〕内は私による追加。仮名遣いと旧字体は現代のものに改めた。

他にもヘレンの功績を語る上では、クイーンズ大学ダラム大学、スコットランドのセント・アンドルーズ大学、アメリカのコロンビア大学から名誉博士号を授けられたこと、女性で初めて英国王立文学協会からメダルを授与されたこと、イェイツが1892年にロンドンで設立していたアイルランド文芸協会では副会長を務めたことなどには触れなければならないでしょう。

しかし、ヘレンは深刻な神経疾患のせいで1950年に筆を折ります。そして、1965年の3月5日にロンドンで没し、アイルランドの伝統民謡「マハラリィの花(The Flower of Magherally)」の名に見える、北アイルランド内のダウン県のマハラリィに葬られます。

(ヘレン・ワデルを偲ぶべく、その民謡の動画のリンクを貼らせていただきます。)


日本関連の著作

20代のころのヘレン・ワデル

東京に生まれて約10年を過ごしたヘレン・ワデルは、もちろん日本にまつわる著作をも残しました。日本関連(東洋関連)の作品は1910年代に集中して発表されました。そのなかでも特記に値するのは、The Spoiled Buddhaという戯曲です。

書籍版のThe Spoiled Buddha(1919年)

日本にまつわるこの最初の作品は、ヘレンにとって戯曲家デビュー作にもなる二幕物の作品です。1915年に1週間ばかりベルファストのグランド・オペラ・ハウスにあるアルスター文芸劇場で上演されましたが、フェリス女学院のデイヴィッド・バーレイ元教授によると、あまり成功せず再上演されることもありませんでした。(しかしながら、当戯曲の上演が能楽に影響を受けたイェイツの戯曲「鷹の井戸」――1916年に初演されました――より1年先んじているということは刮目に値します。)

この戯曲でブッダを演じたサム・ワデル(ヘレンの兄)が3年後にダブリンの出版社に当戯曲の原稿を送り、ヘレン自身が改訂を加えた上で、1919年に書籍として刊行されます。劇の設定を、2017年に拙訳した「ブッダのお気に入り」から引用します。

この劇が語るのは神となる前のブッダと、その寵愛を受けた弟子で、ブッダにもなり得たものの、通りすがった一人の女の美貌を目にしただけで色欲を抱いて堕落してしまったビンズルのことである。第一幕の舞台はブッダの神聖林で、時代はキリストが生を受ける五百年前のことである。第二幕の舞台は、日本の立派な寺であるアサクサの寺院の外庭で、時代はこの現在である。

『アイルランドと日本をめぐる視座 II』(2017年)
「ブッダのお気に入り」6ページ

この作品の一部を引用しましょう。まずは、紀元前6世紀のブッダの神聖林を舞台にした第一幕です。

ラカン 師よ、村の女たちが近付いてきています。
ブッダ 汝は私の心を静めるべく善く務めた。〈掟〉の言葉は女に聞こえるところで語られては良くない。
(彼は太古から続く姿勢に陥り、その目蓋は重く伏し目である。全てのラカンたち――両手の親指をひねり回しつつその道を覗くビンズルと、こっそりとそのビンズルに目をやるダルマは別として――が彼を真似る。三人の女が内輪の話で笑い声をあげながら通り過ぎる。女たちは通り過ぎる時、三味線を挑発的に鳴らす。女たちはブッダたちに目をやると、三味線持ちの女は肩越しに振り返り、姿を消す際に三度、笑ったような声を上げる。ラカンたちは再び動き出すが、一方でビンズルはため息をつく)
ビンズル 師よ、なぜ〈掟〉は女たちには禁じられているのですか? 救われる魂の持ち主ではないということなのですか?
ブッダ 否、ビンズル。偶然にも男が女たちの魂を救う中で自らの魂を失ってしまったのだ。聞くのだ、おおラカンよ。欲には三つあるが、中でも女が最も恐ろしい。〈高潔を乱すもの〉とは、〈正義を陥れるもの〉であり〈世界の誘惑者〉たる女だ。仏たるものたちに女を見させることなかれ――

「ブッダのお気に入り」8-9ページ

この後、ダルマは仏道修行にしっかりと励むも、ビンズルは上で引用した内容のように、女性の美に魅入られて色欲を抱き、堕落してしまいます。

次に、第二幕は明治・大正期の浅草の寺院が舞台になっています。寺の伽藍内で像になったブッダとビンズルが会話する場面の一部を引用します。

ブッダ とうとうダルマは寝たのだ。(満足そうに庭を見回し、身をかがめてジン・シンブンを拾い上げる)ビンズルよ、これは何だ? 聖なる書物か?
ビンズル (のたうち回って)違います。人力車屋の男たちが――あの者たちが互いに声にして読み合っていましたが。聞いていました。いつも私は耳を傾けているのです。全部聞こえましたよ。離婚の話も。戦場からの知らせも。それから政りごと――それに関わる情勢のことも。(誇らしげに喋る)
ブッダ まつりごと? まつりごととは何だ、ビンズルよ? 信仰に関わることか? 信仰に関わる儀式か?
ビンズル (再度のたうち回って)違います。政りごと――政りごとはですね――(口ごもる)暇つぶしです。暇つぶしなのです。師よ(熱心に)、手に取って下さい、帯に入れて読んでみて下さい。ダルマには聖なる書物だと伝えて下さい。
ブッダ (もの言いたげながらも、新聞から内陣に目線を移して)光があまり入っていない、ビンズルよ。線香を多く燃やすせいだ。私の目も――
ビンズル 私もそうです。しかも頭痛も。(ビンズルは自分の額に当たるように片手を引き寄せ、悲しげに頭を横に振る)師よ、皆にこすられて私の良い見栄えが台無しです。
ブッダ ビンズルよ、もてはやされることの意味が分かっただろう。
ビンズル (まだ不平を言うも親しみを込めて)熱い豆のせいで舌を火傷した小さな者が今朝、向こうから来ました。やって来ると、私の上に立って私を舐めました。そうすると、よだれかけをくれたのです。そのような塩梅です。その者が自分で私に掛けてくれたのです。(ビンズルは自分の左耳の下の桃色の房をぐいっと引っ張る。ブッダは身をかがめてその房を確かめる。するとブッダは背筋を伸ばして、限りない愛情をもってビンズルに目線を落とす)
ブッダ (からかうように)ビンズルよ、それから若い少女たちは?
ビンズル (悲しげに)私には目もくれずでした。私はのけ者でした。少女たちを見て分かりました。古びたビンズル像の前を通り過ぎて行くのです。
ブッダ (優しく)ビンズルよ、どこに行ったのだ? 我らのもとには来ないのであれば。
ビンズル あちらです(自分の背後にある暗闇の方に頭をぐいと動かす)、カンノンの方です。

「ブッダのお気に入り」22-24ページ

女性の美貌に目が眩んだビンズルは、何千何百年もの時を経て、若い女性に皮肉にも見向きもされず、良縁成就の像として祀られるカンノンに参拝者を奪われるという事態に悩まされることになります。

紀元前6世紀のブッダの神聖林が舞台になった第一幕で三味線が言及されること、カンノンが完全に女性として描かれることが、日本人の目には奇異に映ります。しかし、ヘレンが日本で幼少時代を過ごしたおかげで、また著者が浅草の描写のうえでイザベラ・バードの『日本奥地紀行』を参考にしたこともあり、かつて紹介したトンデモ「日本」劇のThe Darling of the Gods(以下リンク)よりもはるかに違和感なく日本を描き出すことに成功しています。

聖者の秘密のロマンスをテーマにしたベストセラー小説Peter Abelardのように、戯曲The Spoiled Buddhaも堕落する聖者を取り上げています。それゆえ、「堕落する聖者」はヘレン・ワデルが生涯にわたって好んでピックアップする題材であったようです。

ほかにもヘレンは例えば、『千夜一夜物語』の紹介に始まり、イザナギとイザナミの黄泉の国の話を挟んで、日本の怪談『牡丹灯籠』の紹介に終わるというエッセイUttermost Islesを発表します。この随筆で興味深いのは、ヘレンが『牡丹灯籠』をテオフィル・ゴーティエの短編小説の『死霊の恋』と同時代に存在する日本の物語、と紹介している点です。

(ゴーティエの当該作品を読んでみると、先日に鑑賞した野淵昶の監督作『怪談牡丹燈籠』と結末は異なるものの、複数の共通点も確かに認められるため、驚きを禁じ得ませんでした。)

もう一つ、ヘレンによる日本関連の著作で注目すべきは、『竹取物語』を書き直したPrincess Splendourです。生前に日の目を見ることはありませんでしたが、没後4年にあたる1969年に他の物語とセットで上梓されました。

1972年版の表紙

……という風に、こちらの記事を通じて、東京に生まれたアイルランドの女性作家の異色の経歴を紹介できたことを光栄に思います。

ヘレン・ワデルの日本関連の著作は、デイヴィッド・バーレイによる著書Helen Waddell's Writings from Japanで読むこともできます。

欧米では、あいにく今や忘れられたに等しいこの作家を忘却の淵から救い出す試みが近年なされていますが、極東の日本からもベクトルは違えどもその試みの助力となりたい次第です。

それでは最後に、ラストまでこちらの記事を読んで下さった方々への感謝を述べるとともに、ヘレンが日本について述べた言葉を引用して、本記事を締めくくらせていただきます。


「私の人生で一番の恵みをもたらしてきたのは日本です」
"The richest thing in my life has been Japan."



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