2拠点生活のススメ|第43回|自分をカタチ作るモノ
幼い頃から、自分は何に興味を持っていたんだろうと、ふと考えた。
バックパッカーだった自分が、なぜ映像業界に進んだのか。
自分にとって、仕事とはいったい何なんだろう?
2拠点生活を始めた本当の意義とは・・・
今日のnoteは、自分をカタチ作るものについて考えてみた。
子どもの頃に興奮したこと
子どもの頃を振り返って、最初に衝撃を受けた事柄と言えば、1970年の万博。
当時8才だった私は、黒人を始めて生で見て、度肝を抜かれた。月の石が見られることより、未知の人間との遭遇が今でも強烈な印象として、残っている。
次に印象として残っているのは、ボリショイサーカスを見に行ったこと。
当時、ハーフサイズのカメラを手に入れてすぐだったので、火の輪をくぐるライオンや、象の玉乗りなどに興奮して、ずっとシャッターを押しまくっていたことを覚えている。
ただこれは、カメラに興奮していたのか、サーカスというものに興奮していたのか、良く思い出せない。きっと始めて体験するエンターテイメントの世界に魅了され、それを自分の心に焼き付けようと、必死だったんだと思う。
小学校の時に一度だけ表彰されて、褒められたことがある。それは作文。当時飼っていたボビーというダルメシアン犬について書いたモノ。
起こったことを羅列するのでは無く、自分と犬との心の交流が良く描けていると言われ、とても嬉しかったのを覚えている。
自分の発したものが、人の心を動かすことができるんだ。サーカスの感動とは比べられないが、そうした感動体験が、クリエイティブな仕事に就きたいという気持ちを知らず知らずのうちに、形作っていたのかもしれない。
自分の思う自由なんて、何処にも無い
私の父は典型的なサラリーマンだった。判で押したように同じ時間に出ていき、帰ってくる。マイホームを建て、しっかりとした保険に入り、日曜日は疲れたと言っては、ゴロゴロと寝転んでテレビを見ていた。
とても保守的で、「余計なことはするな」と言うのが口癖。とにかく人に迷惑を掛けることを嫌い、家でも、とにかく大人しくしていることが美徳とされた。
父への反発なのか、サラリーマンには成りたくないという思いが募っていった。
・・・とはいえ、大学に進むときも、考えがあるわけでも無く、色んな学部を受けて、たまたま通った経済学部に入学。心揺さぶられるような出来事もなく。ただなんとなく流されるままに生きていたんだと思う。
そんなある日、インドでタブラ(太鼓)の修行をしていた友人から一通の手紙が届く。何が言いたいのか良く分からない手紙だったが、とにかく刺激を受けまくって、やたら興奮していることだけは、ビンビン伝わってきた。
その手紙を読んでいる内に、居ても立ってもいられなくなり、私もインド一人旅を決行する。そこにあったのは、生きるということの根本的な姿。
「人間なんて、所詮笑って、泣いて、クソして、死ぬだけ」
このときの経験が、絶対的な自分の物差しになった。
しかし、この長旅が原因で留年。目指す職も見当たらず、家に居るのが辛くなって、北海道へわたり酪農家に入った。
漠然と自由な生き方を求めて渡った北海道だったが、結局ここでも、乳業企業の歯車と成って働く酪農家という図式を目の当たりにする。
自分が思い描く自由な仕事なんて、日本中何処にも無いことを思い知らされた。
あこがれの仕事
そんなとき、とある雑誌の広告が目にとまった。
当時の広告業界は、時代の最先端を行くカルチャーだという匂いを発していた。広告クリエイターが、とにかくかっこいいものに見えたのだ。
あっ、コレだ。俺、広告クリエイターになる。
大阪に戻った私は、すぐに宣伝会議のコピーライター養成講座に通い始める。
夜だけの講座だったので、昼間はタウン誌の取材と原稿書きのアルバイトをしていたのだが、たまたま映像プロダクションの募集広告を見つけ、興味本位に応募したらラッキーなことに、とんとん拍子で採用が決まってしまった。
当時、人気の業種で2人の募集に100人ほどの応募があったという。バックパッカーや酪農家の経験を面白いと捉えてくれた担当者がいたのだ。
自分の面白みとは、何だろう!?
そしてバブルがやってきた。
入社して1年ほどで、右も左も分からない私は、社内ディレクターとして映像作品を手がけるようになる。まさにやりながら覚えるといった感じ。スタッフは全員年上、ボロカスに怒られながらも、元来の器用さもあって、次々とこなしていった。
若いというのは、未熟でもあるけれど、時代を嗅ぎ取る感性も備えている。そうした感性が認められ、ますます忙しくなっていった。
来る日も来る日も撮影や編集に追われ、ほとんど家にも帰れない日々。
この仕事地獄から抜け出す唯一の方法、それがフリーランスに成ることだった。そうして何の後ろ盾も無いまま、結婚を機にフリーランスに。当時妻の友人からは、「ちゃんと食べていけるの」と随分責められたことを覚えている。
それから約25年、何とか今までやってくることができたわけだが、時代は変わり、広告が時代の最先端をいくカルチャーという匂いは、無くなってしまった。
いつの間にか、映像を作ることが飯の種になり、本当に自分のやりたい仕事なのか、良く分からなくなった。
ただ唯一、誇れることがあるとしたら、いつの時代も私を求めてくださる方がいたという事実。私という人間が、何かしらの面白さを持っていたということ。
だけど残念ながら、その面白味が何なのか、自分では未だ良く分からない。
2拠点生活で、再びカタチ作る自分
50代に入って、仕事も落ち着き、自分の時間をしっかり持てるようになった。
何かを作るというクリエイティブなことは嫌いでは無いし、作品によっては大きな達成感や喜びを感じることもあった。
けれど、結局仕事というものは、お金を稼ぐモノ、生活を支えるモノで、生きがいでは無いような気がして仕方がない。
2拠点生活を始めて、暮らしそのものを楽しむようになって、ますますその思いが強くなっている。それは、人生の価値感が大きく変わりつつあるからだろうか。
20代の頃、たまたま見てもらった占い師に、あなたは大器晩成の相が出ていると言われたことを、ふと思い出した。
大器晩成というのは、何歳ぐらいからのことを言うのか分からないが、ここから本当の人生が始まるのでは無いか、そんな若い頃のような根拠の無い自信が芽生えつつある。
子どもの頃に感じた、万博やサーカスの高揚感、インドで感じた人生観、あの広告で感じたカッコ良さ・・・。
ここからの日々の積み重ねの中で、本当の自分をカタチ作っていく出来事がやってくるのかもしれない。そう思うと断然テンションが上がる。
まあ、何の根拠も無いのだけれど、そう思えるだけでハッピーな気分だ・・・。
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