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我が毒家族と、50年の人生で初めての、「努力らしいこと」。

 明日から、一泊で箱根旅行なのですが、「朝7時25分新大阪駅集合」と知らされ、逆算すると、朝5時には起床しなければならないことが分かって、戦慄しています(挨拶)。

 と、いうわけで、フジカワです。

 当然と言うべきか、ホテルの部屋は禁煙なので、わざわざ駅前のタバコ屋まで行って、スヌース(無煙タバコ)を買ってきた今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 今回の記事は、「俺の家、ステルス毒家族なんですよ!」とかいった話です。

前回までのあらすじ

 さて。昨日は、

 「第三者の意見はありがたいが!」などと書かせて頂きました。

 努力を放棄するわけでは無いにせよ、やはり、直せないものをどうにかしろ、と言われても、困る話です。特に、根幹的な設定に関わるならば、なおさらでしょう。既存人気作の劣化コピーになるぐらいなら、もういっそ、そのままでいいや、とは思います。

我が家の毒環境

 そんなわけで、本題。不二川家は、85歳の母と、僕と、54歳の姉、さらに、57歳の姉、という構成です。父親は、16年ほど前に亡くなりました。真ん中の姉は、25年以上前に嫁に行き、今は奈良に住んでいます。

 親は、厳しくも、過去、僕氏が助けられたことは数知れず、優しい部類には入るとは思います。

 ただ、こと「ものを書く」という点においては、もう、一周回って殺意が湧くほどには、全くの無理解です。

 実際と言うべきか、執筆という行為を趣味、ないしは生業にしていた親族は、僕の知る限りいません。ご先祖様のどこかにいるのかも知れませんけど、それは、残念ながら分からない。父方の叔父が、無類のハードSF好きですが、執筆はやっていない。

 文章力、という面においても、親は、はっきり言って貧弱です。なんせ、「(例えば、自治会に諮りたい時など)人にものを頼む」時の文章が、結構乱暴で、その都度、僕が添削しているぐらい。

正論ではある、が。

 親の曰く、「カネにならないことをするな」ということで、そりゃあもう、日々、トンチキな事を言うわけですよ。ありえない職業をでっち上げて、「やってみないか?」とか言う。例えば、「旅館で、スタッフの傍らにスタンバって、外国人観光客の通訳をする」とか。

 僕も、英語は「嫌悪感を持たない」レベルでしかないです。到底、ネイティブと意思疎通がスムーズに出来るはずがない。それに、ホテルマンなんかは、英語を話せるのが今や必須。別途通訳を置く必要性なんかありえないのに、母親は、そういう仕事があって、かつ、僕に出来ると思っている。

 そりゃね。母親の、父親が経営していた工場の手伝いしかやったことがない(外部の会社で働いたことがない)、世間知らずの権化です。最近はもう、まともに相手をするのにも疲れてきましたが。

 母親は、僕の精神疾患に関しても、まるで無知です。なので、その目に僕は、「ただただ暇をぶっこいているだけの、どら息子」なのでしょう。

 母にとっては、「続いていない仕事=無価値」です。ですから、ライターの仕事を辞めた時点で、「続かなかったということ=全ては無駄で無意味だった」という判断。どこまでも、「書く」ということの大変さを、理解していない。

 まだ芽が出ていない以上、公募に挑戦し続けることは、はた目には時間の無駄でしょう。ただ、「創作」という行為自体に、一切の価値を見いだそうとしないのは、やはり、かなりイライラします。

もっとタチが悪い姉

 姉なんか、さらにひどい。なるほど、倉庫会社の支所長をやっており、仕事は出来るかも知れない。しかし、母親以上に、「書く」ことには、とことん無理解。

 それだけではなく、たとえ僕に、X(Twitter)のフォロワー数が1,000人近く(未達ですが、もうそろそろです)いようが、Wikipediaに僕の項目があろうが、「物好きもいるもんや」の一言。その価値を認めようとしない。

 僕は、姉の文章力を見たことがないのですが、多分、母親と似たり寄ったりだとは思います。要するに、実に冷ややかな目を向けられている。ヴッちゃけ、姉の傲慢さには、嫌悪感が募る一方です。内心、今や顔も見たくないのですが、そういうわけにも行かず。

 母親も、あまり長くはないでしょうが、その亡き後、出向先から戻ってきた姉と2人暮らしをするのは、絶対に嫌……なのですが、今のところ、具体案が出てこないのが、もどかしいところ。

 いや、別に僕も、「家族からの応援がないと、書けない!」なんてこたあないです。しかし、なぜ、肩身の狭い思いをしなければならないのか? が、実に理不尽です。

 亡くなった父親が、唯一の理解者だったように思うのですが、もういませんしね。

努力の話

 昔っから、僕は「努力」が嫌いでした。中学のお受験も、塾には通いましたが、「頑張り」はしなかった。大学受験も然りで、まともに受験勉強をした覚えがない。なんせ、志望の大学の、過去問集であるところの、赤本すら買わなかったんですから。

 全てぶっつけ本番で挑んで、甲南大学に潜り込めたのは、奇跡としか言えません。まあ、大学でも努力をしなかった結果、半年留年したんですけどね。

 卒業して、ライターとしてデビューしてからも、これといった努力はしませんでした。全て、手癖と勘に基づく、我流。師事した先輩ライターもいませんでしたし。それで仮にも16年間、何とかなってしまっていたのは、悪運としか言えませんね。

 ただ、仕事を干される形でライターを廃業し、公募に挑戦し始めて、4年経って、50歳の今。初めて、「それらしい努力」をするようになりました。古典文学を読み、作劇法の教本を読み、やっと、「勘頼み」から脱しつつあります。

 まさか、皆様に、「褒めて褒めて!」って話では、断じてないです。ただ、足掻いている姿を見ていて頂きたい。

 そして、母親と姉の鼻を明かすべく、一刻も早くデビューしなければいけないという、使命の話でした。

 文字を笑う者は、文字に泣く。そのことを証明しなければならない。

 そんな、「ステルス毒家族」に育った、作家志望の悲哀について。

 んじゃまた。

サポートして頂けると、泣いて喜びます。『打てど響かず』というのが、創作者にとって一番哀しいことでございますので。人助けと思って、よろしくお願いいたします。