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僕の自慢の大分のばあちゃんの話
2020年9月7日、103歳だったばあちゃんが永眠しました。
ばあちゃんを亡くして、いま思うこと。
夏休みや冬休みに、ばあちゃんのいる田舎に帰省したとき、玄関先で孫たちを出迎えてくれたばあちゃんの嬉しそうな顔が今でも忘れられません。
ばあちゃんは僕ら兄弟のどんな話も「うんうん、そうかね」って言って笑って聞いてくれました。いつも僕らのことを心配してくれました。
親以外に、無条件に僕らのことを心配してくれる存在。いてくれているだけで心の支えになっていたんだと気が付きました。
だから、・・寂しい。
・・・・
そんな僕のばあちゃんは、ちょっとすごい人です。
僕の自慢のばあちゃんのことを、
孫としてここに書いておきたいと思います。
(いい年のオッサンである私が「僕」だった時代からばあちゃんは、ばあちゃんだったので、「僕」で書いていきます。)
空襲と産婆さん
ばあちゃんは1917年(大正6年)、大分県の蒲江(かまえ)という田舎で生まれて育ちました。
学校を出てから、神戸で助産師(産婆さん)の勉強をして、助産師さんとして働いていました。
そんなさなか、第二次世界大戦がはじまりました。戦争中でも、当然、赤ちゃんは生まれます。当時は赤ちゃんは病院ではなく自宅で生む時代ですので、産婆さんは欠かせません。
当時の神戸はアメリカの空爆の対象になっていました。空襲を受けている中でも、生まれそうになっている赤ちゃんをとりあげるためにばあちゃんは日々奔走していました。
(引用:地元で作られた紙芝居より)
ある日のこと、B29が飛んできたという知らせが、街中に響きました。
「空襲警報!空襲警報!」
病院の電話が鳴りました。
「陣痛がきました。早く来てください!」
「なんとしても行かなければ!」
私は、空襲を受けている街の中、防毒マスクを持って、お産のあるおうちへの急ぎました。
赤ちゃんの生まれるおうちに着いてみると、妊婦さんはとても不安そうにしています。なにしろ、家の外ではB29が落とした焼夷弾で家事が起こり、爆弾も落とされているのですから。
「大丈夫ですよ。」
私は、火事の見える窓を閉め、妊婦さんを安心させてからお産をさせました。
神戸大空襲と命拾い
そうやって神戸で過ごしていたばあちゃん。戦争は終わることなく、空襲はどんどんひどくなっていきました。
ドーン!
ものすごい音がしました。
爆弾が落とされたのです。
(中略)音が止み、山の手の方へ逃げていると、私達のすぐ近くに爆弾が落ちていたことがわかりました。
このままいくと、いつ命を落とすかわかりません。
実家(大分)からからも「神戸はあぶないから早く返ってくるように」と何度も手紙が来たそうです。
そしていよいよ1945年6月5日、ばあちゃんは、汽車にのって大分への帰路へつきました。
汽車から(神戸を)振り返ってみると、神戸の街は、爆弾が落ち、燃えに燃えています。ラジオで私の住んでいた地区も、全部焼けてしまったという知らせが流れました。
本当にギリギリのところで神戸を立ち、命拾いしました。
この6月5日は神戸大空襲の日だったのです。
800人の赤ちゃんをとりあげる
大分県の蒲江に戻って、じいちゃんと結婚し、終戦をむかえたばあちゃん。一女(私の母)をもうけましたが、じいちゃんは病気がちで入退院を繰り返す生活。
女がてら一生懸命畑を耕して日々食べる作物を作ったり助産院を開業して生活を引っ張っていきました。なんと、合計で800人もの赤ちゃんを産婆さんとして取り上げたそうです。
聖火ランナーと県知事賞
助産師の仕事以外にも、華道・茶道の先生の資格をとったり、ボランティア活動など地元で様々な活動をしていたばあちゃん。
その活動が目に止まり、昭和39年には東京オリンピックの聖火ランナーの伴走者にも選ばれたそうです。
その後、じいちゃんを病気で早くに亡くしました。
でもバイタリティーは全然衰えず、60歳を過ぎてから大正琴を習い始め、指導者の資格をとるまでになったり、いろんな地域の役割を担っていました。その活動が評価されて、大分県の知事賞を受賞。本当にすごいなぁ。
夏休みに田舎に帰ると、いつもばあちゃんの家には誰かが来ていて、本当に顔の広い、すごいなぁって思ってました。
ばあちゃんが生き抜いてきたから僕らがいる
90歳代になり、要介護状態になってから、大分から僕らがいるほうの地域に移って生活していました。100歳を過ぎても頭は変わらずはっきりしていて、毎日、新聞や本を読んだりして施設で過ごしていました。
生きてくれていて、そこにいるのがあたりまえだと思っていた僕のばあちゃん。
2020年になって、脳出血で倒れてしまって、話ができなくなってしまった。感染予防で面会もなかなかできないという状況で、僕も、足が遠のいてしまった・・。
でも、偶然にも、亡くなる前日、2020年9月6日に10分だけ会えました。
会話はできなかったけど、顔は見せることができました。
そして、次の日にばあちゃんは老衰で亡くなりました。思い過ごしかもしれないけど、ばあちゃん、僕が会いに行くのを待っていてくれたのかな。
9月6日は僕の弟の誕生日だったから、孫の誕生日までは生きていようと思ってくれていたのかな。
・・・
ばあちゃんが大変な時代を生き抜いてきてくれたから、
命をつないでくれたから僕らがいるんだね。
ありがとう、ばあちゃん。
じいちゃんと一緒に天国から、
これからも僕らのことを見守っていてください。
引用:
紙芝居『長野竹子さんの戦争体験記』
お話:長野竹子さん
編 :御手洗さん(蒲江小 教諭)
絵 :川上さん(蒲江小 教諭)
冊子『花いかだ ~長野竹子 白寿記念誌~』
編集:福田鮎子
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